わたしは兄のことが大好きだった。
兄は運動全般を得意としていて、放課後にはいつも多くの友達とサッカーボールを追い掛け回していた。
それを校庭にあるジャングルジムの一番上から見ながら、兄のことを応援する。それが、わたしの日が暮れるまでの過ごし方だった。
かなりひいき目に見ていたのだとは思うけれど、それでも、兄は群を抜いて上手だったと思う。
しょっちゅうシュートを決めては、わたしの方を向いてピースサインを出しながら、兄はにかっと笑ってみせる。
その度にわたしは、まるで大会で優勝でもしたかのように賞賛と歓声とを浴びせるのだった。
本当に兄のことが大好きで、修学旅行の夜にお決まりの、布団の中で好きな人を言い合う時にでも、躊躇うことなく兄のことを口に出す始末。
しょっちゅう他人と喧嘩をして、先生や両親にもよく口答えをする兄が大人から良く思われていないなんてことは、当時小学生とは言っても、兄のことをよく見ていたわたしには何となく感じられることだった。
でも、大人のそんな認識は間違いだ。兄は、そんな人じゃ、ない。
先生は知らない。わたしが泣いていると兄がすぐに飛んできて、慰めてくれることを。そして、兄の喧嘩の大半はわたしに関連して起こったものであることを。
両親は知らない。友達がなかなかできなくて昼休みに一人教室にいたわたしを、兄が校庭に連れ出してくれたことを。両親の帰りが遅くて、それが不安でなかなか眠れない時に、同じ布団に入ってわたしが眠るまでずっと手を握っていてくれたことを。
だが、いくらわたしがそう思っていても、先生や両親はこう言うのだ。
「ああはならないようにしなさい」
*
すぅっと風が通って、資料室のカーテンが小さく控えめに揺れる。
窓から差し込む日の光と相まって、言葉には適わない心地良さが直にわたしの心に触れる。
ふと壁にかかった時計を見上げてみると、1をほんのちょっと過ぎた辺りで短い針と長い針がちょうど重なっていっしょにたたずんでいた。
何となく、嬉しくなる。
デジタル時計でのゾロ目表示なんかよりも、こういったアナログの偶然の方がよっぽど素敵だと思う。
昼休みはとっくに終わってしまっているけれど、たまに授業をさぼるぐらい、まぁいいだろう。
すぅすぅと寝息が聞こえて、わたしは小さく控えめに笑みを浮かべた。
視線を落とすと、目を閉じて穏やかな顔をした朋也さんが目に入る。
耳掃除の態勢そのままに眠ってしまったのだ。
最中に既に寝息が聞こえ始めたため、結局片側だけしか終わっていない。
だからといって起こすこともないだろう。耳かきなんていつでもできるし、また今度やってあげる楽しみができたと思えば、むしろこれでよかったようにも思える。
可愛い寝顔も見れたし。
年下のわたしが年上である朋也さんのことを「可愛い」なんて称するのは変かもしれないけれど、でも、この寝顔を見ると、やっぱり「可愛い」と思ってしまう。
断続的に通る風が眠る朋也さんの髪を揺らす。
それにつられるかのように、人差し指と中指、それに薬指の三本を使って、頭をなでるようにして朋也さんの髪をとく。
羨ましくなるぐらいそれはさらさらとしていて、わたしはこうするのが好きだった。
*
中学に入って、兄と両親との確執はさらに深まっていった。
わたしはと言えば、兄のように両親のことが嫌いというわけではなかったが。
両親と兄とどちらがより好きかといえば当然それは兄ということになるのだけれど、だからといって、兄の味方について両親に口答えできるほど強くもなかったし、何より、わたしにとって両親は「逆らってはいけないもの」だったから。
だから、毎日のように繰り返される喧嘩におろおろとただうろたえて見ていることしかできなかったわたしだったが、でも、やっぱりお互いにもっと仲良くしてほしいと切に願っていた。
そんなわたしにできることといえば、両親をこれ以上怒らせないように「良い子」でいることと。
そして、もう一つ。
両親には内緒で、こっそりと兄に夕食(夜食と呼んだ方が正確だろうか)を作ってあげること。
ともに食事を取ることすらしなくなった兄に対して、一週間も経つと、母も母で兄の分の食事すら準備しなくなっていた。
まだ小学生だったし、それまで料理なんてほとんどやったことのないわたしだったけれど、そんな兄のために何か作ってあげたいと考えたのは、極自然な流れだったと思う。
でも、今まで全く経験のない料理を急にできるはずもない。仕方なく、しばらくの間は、電子レンジで暖めるだけで食べることのできる冷凍のチャーハンやピラフなどに頼ることにした。
それはもちろん兄自身でも簡単にできることだから、わざわざわたしがやる必要は全く無い。
けれどわたしにとってみれば、「意味」は、確かにあったのだ。
例え冷凍のものとはいえ、わたしが準備したものを兄が食べてくれる。「おいしかった」「ありがとう」って言ってくれる。
意味なんて、それだけで十分過ぎるほどだった。
*
気持ちのよい風に誘われて、眠る朋也さんの髪に手をやったまま、目を瞑る。
膝にかかる暖かな重みと共に、こうしていると、いつも自然と浮かぶ思い出がわたしにはあった。
今よりもずっと小さいわたし。そして、いつもそばにいた、やっぱりこれもまだ小さかった兄。
午前で小学校が終わる土曜日、わたしと兄は家で用意されている昼食を食べて、そしてたいていの場合、この一週間の間に録画しておいた色々なテレビ番組を一緒に観るのだった。
リビングのソファーは子どもが二人座ってもまだ十分な広さを持っていたけれど、わたしは兄と肩が触れるぐらいにくっついて時間を過ごすのが好きだった。
いつも最初は「あっちに行け」なんて言う兄だったが、それでもわたしが離れようとしないと、半ば呆れたような笑みを浮かべてそれ以上何も言わなくなった。
だいたい、一時間もしないうちに二人のうちどちらかは眠ってしまった。
それは大概わたしの方で、意識していたのかどうか、その場合、わたしはまず間違いなく兄の膝を枕としていた。そういう時には、決まって良い夢を見ていたような記憶があるから、不思議なものだ。
稀に、兄の方が先に眠気に負けることもあったが、わたしとは違い、すぐ隣に座るわたしの膝に乗ろうなんてことは絶対にしなかった。
でも、わたしはそれが気に食わなくて、兄が寝てしまった後にわざわざそちらの方に移動して、眠る兄の頭をわたしの膝の上に乗せ直すのだ。
そしてそれに安心したようにわたし自身もいっしょになって眠ってしまうのだから、幼い頃の自分のこととはいえ、笑ってしまう。
今となってはもう実現することの叶わない、大切な、大切な思い出。
それを浮かべながら、わたしはゆっくりとまどろみの中へ入っていった。
*
毎日母親の手伝いをしているという友達に聞くところによると、料理を始めるに当たって、まずは包丁を使わずに簡単に作ることのできる卵料理から取り組むのが一般的らしい。
そういえば学校の調理実習でも作ったことがある。確かわたしはその時、玉子焼きに挑戦して、全くもって見事に焦げ付かせたのだった。
とりあえずの目標はそれにしようと決めた。
いつか兄に手料理を振舞うことを夢見て。
毎日わたしは兄の食事のために電子レンジのお世話になるとともに、少しずつ料理の勉強を始めたのだ。
一週間もすると、わたしの作る玉子焼きは、適度に焦げ目をつけてきつね色をした、普通によく見かける玉子焼きへと見事な変貌を遂げた。
こうなってしまうと、目玉焼きはもとより、スクランブルエッグやオムレツも作るのは簡単で、もう卵料理はある程度お手の物だと思えた。
せっかくそこそこには上手くできるようになったのだから、どうにかして兄に食べてもらいたいと思うものの、冷凍のチャーハンに手作りの玉子焼き、なんて組み合わせはどこか違和感があって気に入らない。
そんなことを考えたのかどうかは今となっては定かではないが、とにかく、わたしがその時思いついた妙案というのが、冷凍食品と卵料理を別々に出すのではなく二つを組み合わせて一つの料理にするということだった。
つまり、オムライス。
チャーハンやチキンライスを薄目のオムレツで包むだけだから、その時のわたしにも比較的簡単にできて、かつ、「手作り」した気になれる料理だった。
*
どれぐらい時間が経ったのだろう。
朋也さんを膝にのせて、いつの間にかわたしは眠っていたようだった。
何か、夢を見たような気がする。
楽しくて楽しくて、でも、すごく哀しい夢。
今よりずいぶんと小さなわたしがいて。
そして――
「泣いてんのか………宮沢」
いつの間にか起きていたらしい朋也さんの声に、わたしは少しびっくりするのと同時、その時初めて自分の頬が濡れていることに気づいた。
手を頬にやると、冷たいものが触れた。
「わたし……泣いてるんですか?」
「ああ、そうらしいな」
朋也さんはそれ以上何も言わず、どうやらわたしの言葉を待っているようだった。
多分、彼にはわたしが泣いている原因に察しがついているのだろう。
「夢を……見ました」
「そうか」
「昔のこと。楽しくて、楽しくて。でも、何故かすごく哀しいんです」
「……」
「わたしがまだちっちゃくて、大好きなお兄さんが、そこには、いて……」
――ああ、そうか。
だから、わたしは涙を流しているのだ。
寂しくて。どうしようもなく寂しくてわたしは泣いているのだ。
朋也さんの暖かい手のひらが頬に添えられて、わたしのそれよりもずいぶんと大きな親指が、なでるように涙をぬぐっていく。
しばらくそれに身を任せた後、わたしは精一杯腕を伸ばして、朋也さんの体をぐいっと引き寄せた。
「昔話を、聞いていただけますか?」
*
卵で包むのが思ったよりも難しくて、ところどころ破けてちょっと不恰好になったオムライス。
もっと上手く作られるようになってから兄に食べてもらいたいと思う反面、でも、早く食べて欲しいという気持ちも強かった。
しばらく悩んだ後に、そのままではせっかく作ったオムライスが冷めてしまうことに気がついて、一か八かという心境で兄のところに持っていくことにした。
その頃になると、毎日それぐらいの時間にわたしが料理したものを持っていくのが常となっていたから、いつもよりちょっと遅いわたしに、兄は少々違和感を覚えていたようだった。
「今日はちょっと遅かったな」という兄の言葉に、わたしは「いつもよりがんばったんだよ」と返す。
オムレツをのせたお盆を手渡すと、兄は驚いたように「これ、お前が作ったのか?」とわたしに聞く。
「もちろん」と応えるわたしの胸はもう期待と不安でいっぱいだった。
わたしが兄に食べてもらった初めての「手料理」だった。
*
「……だから、朋也さんが初めてここにいらして、オムライスが食べたいっておっしゃった時には、ホントはちょっとびっくりしちゃったんですよ」
わたしは、苦笑しながら言葉を続ける。
「オムライスなんて、もうずいぶん作っていなかったんです。自分で食べるのには少し面倒ですし、かと言って、ここに来てオムライスをリクエストするお客さんなんていらっしゃいませんでしたから」
「てことは、俺は結構な変わり者ってことか?」
「はい。……気づいていませんでした?」
そう言ってくすくすと笑うわたしに、どうやら今度は朋也さんが苦笑いを浮かべずにはいられないようだ。たまには、こうやって朋也さんをからかったりするのもいいかも、なんて。
ひとしきり笑って、またわたしは口を開く。
「でも、もしかすると、無意識の内にそれを作るのを避けていたのかもしれません。そうすることで、お兄さんとの思い出をしまっておこうって」
目を瞑り、両手を胸に当てる。
特に意図したわけではないが、そうすると、色々なことが心に浮かんでくる。
初めて作った、ちょっと不恰好なオムライス。
それをおいしそうに食べる兄の顔。
「すげぇうめぇ」っていうその言葉。
今までも、これからも、わたしの心の中に生きる「お兄さん」の姿。
そして――
「……いいのか? 俺みたいなのが……その……思い出を、取っちまった……みたいで」
言い辛いのだろう。顔を微妙に背けながら朋也さんが言う。
わたしは、一息おいて、その質問とも嘆きとも取れる言葉に応える。
「そんなことで思い出はなくなったりしないんですよ。……それに」
一度、言葉を止める。
閉じていた目をゆっくりと開いて、そして、目の前の朋也さんを しっかりとみつめて。
優しいけれど、でも、何も分かっていない、ちっともこれっぽっちも分かっていないこの人に。
わたしは、こう言ってやるのだ。
「朋也さんだから、いいんですよ」
――お兄さんと似た空気をもつ、今のわたしが愛する人の姿
*
仲良くなった兄の友達が、わたしによく会いに来てくれるようになった。
それはとても嬉しかったのだけれど、教室ではクラスメートの迷惑になってしまうので、わたしは今はもう使われていない資料室を利用することにした。
いつも通りの昼休み。いつも通り資料室に来てみると、見知らぬ男性が既にそこにはいた。
「ここの生徒以外の人」以外の人が来るなんて、とても珍しいことだったけれど、この場所に来てくれた人に対してのわたしのおもてなしに変わりはない。
「今日はどうされました」というわたしの言葉に、その男性は突然「ホットコーヒー」なんて言う。
ちょっと変わった人だな、と思いながら、ここに来てくれる人たちにいつもそうするようにわたしはコーヒーを用意する。
それを一口飲んで「うめぇ」と褒めてくれた。
何となく、その口調は兄と似ていた。
「ありがとうございます」
そう言うわたしに、男性は再び口を開く。
「……オムライス」
わたしは、動揺を見せないように「ありません」と一言だけ口にするのが精一杯だった。
いつも通りの放課後。いつも通り資料室に来てみると、昼休みの時の男性が既にそこにはいて、どうやら眠っているようだった。
もしかすると、あれからずっと寝ていたのかもしれない。
昼休みのその男性とのお話はすごく楽しかったから、またこうやって会うことができて嬉しかった。
男性が起きたら色々とお話をしよう、そう思うと、なかなか本に集中することもできない。
結局、その男性は起きてコーヒーを一杯飲むと、あまりお話をする暇もなくすぐに帰ってしまったが、気が向いたらまた来てくれるという。
どうしてかわたしはそれだけで嬉しくなって、自然とその日男性と交わした会話を思い出していた。
『……オムライス』
またそう言われた時には、きっととびっきりのオムライスを用意しよう。
そう思うことに、不思議と違和感は感じられなかった。
それからの毎日は、楽しくて、楽しくて。
もちろん、それは男性とその友達とのお話が楽しかったこともあるけれど。
いつまた「オムライス」と言ってくれるのか、それが楽しみで。
早く言ってほしい気もするし、でも、まだ言ってほしくない気もする。
早く作ってあげたい気もするし、でも、まだ先にとっておきたい気もする。
そんな毎日が、すごく楽しくて、幸せだった。
ああ、そうだ。
きっとわたしは、初めて会ったその日から、ずっとこの人のことが好きだったのだ。
*
「お話をしていたら、ちょっとお腹空いちゃいましたね」
「ああ、そういえば昼飯もまだだったな」
「何か作りますか?」
「そうだな。……何か宮沢のおすすめはあるか?」
「そうですね…………それじゃあ――
お兄さん、聞こえていますか?
わたしは、今、幸せです
こんなわたしを支えてくれる、あなたが残してくれたたくさんの新しい友人
それに
お兄さんがおいしいって言ってくれた、オムライス
作ってあげたい人が、できました
食べてくれる人が、できました
聞こえていますか?
お兄さんがいなくても、わたしはこんなに元気でやってます
毎日が、すごくすごく幸せです
お兄さん、わたしの声、届いていますか?
きっと、届いていますよね
――お兄さん
思い出は、思い出として。
大切に思うからこそ。
だから、こそ。
大切な。
大好きなあなたに。
――オムライスなんて、いかがですか?
第二期第四回クラナドSS祭り お題『調理・料理』 出展。
ゆきねぇも好きなんです。
お祭りだし、春原兄妹にミスリード、終盤なんと実は有紀寧だったことが発覚、びっくり。てなことにしたかった。
ですが、力量不足により中途挫折。芽衣のように見えて後から読み直すと確かに有紀寧、といった描写をするだけの技術は僕にはありませんでした。ごめんなさい。
フラ感や感想会などでは、「兄が強すぎて朋也がおまけのよう」「最後ひっぱりすぎ」などの御意見を頂きました。……その通りっす。精進精進。
その辺りは今後の課題として。とりあえずは技術的目標でした場面転換、回想の挿入がうまくいった(らしい)ことと、ゆきねぇへの愛情を再確認したことで、十分だったりします。特に後者。ゆきねぇ大好き。
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