よく染みた大根、それを箸で三分の一程度に割り、からしを少し多めに添えて口へと運ぶ。鼻につんと来る刺激に熱燗を一口。鼻と喉、二つの器官にかかる痛みにも似た感覚。
心地良い。芳野は思う。
屋台の右端に座る彼のさらに右隣には空席が一つ。本来ならばそこには彼の連れを位置取らせるはずだった。
「まったく、付き合いの悪い」
ぼやきながらさらに酒を口に含む。空になったコップに燗を傾けるが、どうやらそちらも既に空らしい。
少し迷ってから、目の前のオヤジに追加の一本を注文する。それを待つ間、手元の何も入っていない燗を何となくぶらぶらと宙に揺らしてみる。
「二年」
岡崎朋也が娘を失ってから、約二年。
表面上、彼は以前の彼に戻ったように見えた。当初失いかけた喜怒哀楽も今でははっきりと現れる。
でも。
「もっと楽しそうに笑え、バカ」
彼は、決して妻と娘の死を乗り越えられていない。心の中はこの二年間全く変わっていない。芳野は、そう考えていた。
「心配ぐらいさせろ、バカヤロウ。平気だって顔しやがって」
彼は芳野に対して弱音を決して吐かない。そして彼がそうする以上、芳野にもできることは何もない。
それが、どうしようもなく歯痒かった。辛かった。そして、悔しかった。
「だからお前はバカなんだよ、岡崎」
誰に言うでもなく、店主から受け取った燗を傾けた。
光の下で
藤林杏は不機嫌だった。
原因ははっきりとしていた。同じ幼稚園教諭たちとの外食、その帰りがけにたまたま会った男。岡崎朋也、そいつに違いなかった。
だが、何故そんなにイライラとしているのか、彼女自身分からずにいた。ただばったりと会って何気なく一言二言交わした、それだけだったのだから。
どうしようもない感情を抱えたまま、彼女はもう少し外を歩いていることにした。身体を動かしていた方が気が紛れると考えた。
「まったく、何だってのよっ」
怒りをぶつけるように、特に考えることなく次から次に足を動かしていく。
しばらく歩くと、何件かの屋台が目に入った。導かれるように、杏はその内の一件に近づいていった。
「ああもう、飲んでやるっ」
財布の中身を思い浮かべてそれが可能であることを確認すると、半ばヤケに近い思いで暖簾をくぐる。
いらっしゃい、という店主の声を聞きながら狭い店内を見回す。時間帯が時間帯なのか、ほとんどの席は埋まっていた。
「すいません。隣、よろしいでしょうか?」
右端の席に向かい、その隣の男に一声。どうぞ、と控えめな声が返ってくる。
どうも、と言って席に着く瞬間、ちらりと隣を覗き見る。
一見では年齢の窺い知れない男だった。青みがかった少し長めの髪。二十代とも三十代ともつかない横顔。
何となく、誰かに似ている気もした。それが誰なのかよく分からないけれど。
「大根とはんぺんに、すじ、卵、えーとそれからこんにゃくも。お酒はまずビール貰えますか」
ちょこちょこと注文するのは杏の好みでない。あいよ、という気のいい返事に続いて、ぐつぐつと煮える目の前から次々と種が拾われていく。
瓶ビールとコップを受け取ると、早速瓶を傾ける。最初の一杯は一息で空に。すぐにまた注ぎなおす。
「はぁ」喉に溜まった熱を吐き出して、誰にともなく、愚痴るように言う。「まったく、朋也のやつ」
その言葉に、びくん、と隣の男が反応した。それと分かるぐらい、はっきりとした反応だった。
どうしたのだろう、と思いながら大根に箸を入れて、口に運ぶ。ビールをもう一口。
「……岡崎朋也」
突然、隣から独り言のような呟きが耳に入る。
「え?」
今度は杏が反応する番だった。
「あ、あの、今、岡崎朋也って?」
「はい」男が杏の方を向いて言う。「耳を立てていたわけではないのですが。たまたま、朋也という名前が聞こえまして、それでもしかすると、と」
何があるか分からないものです、と男は少しだけ笑みを浮かべてコップに口をつける。
「あの、その岡崎って人は、電気工事関係の仕事をされてたり?」
「はい、まさしく。岡崎朋也、恐らく間違いないでしょう。少々失礼ながら、年齢もあなたと同じ程と見受けられます」
「あっ、あたし、朋也の同級生なので」
杏は慌てるようにして自分と彼との関係を説明する。
男はなるほど、と呟いて言った。
「どうもあいつの周りには美しい人が集まるらしい」
「え、なっ、え、ええっ!」
不意に投げかけられた言葉、杏の顔が赤く染まる。
ともすればただ気障なだけで終わるセリフも目の前の男には不思議と合った。が、真正面から容姿を褒められた経験の少ない杏は、ただただ狼狽するしかなかった。
照れを隠すように、卵を箸で二つ、四つと割っていく。その内の一つを口へ。
「失礼。困らせるつもりはなかったのですが」
そんな杏の様子に見かねたのか、男が声をかける。
「あ、いえ、その……ありがとうございます」
杏はそう答えて、コップに注いだビールを一口含む。
もしかして口説かれているのだろうか。思ってみるも、男からそんな空気は感じない。先の言葉にしても、男が言うと自然な感じすらあった。
「とりあえず自己紹介の方を。自分は芳野、といいます。岡崎とは同じ仕事場で働く、先輩、ということになります。……失礼ですが、お名前を聞かせていただいても?」
「藤林、です」
言ってから、返事が存外素っ気なくなってしまったことに気付く。
さっきから俯き気味だった顔を少しだけ上向けて男の様子を窺うが、気にした風には見えず、杏はほっと息をついた。
聞きたいことがあった。自分がイライラしていたその原因の男について。
杏はコップを一気にあおる。そして思い切ったように声をかける。
「あ、あのっ」上ずり気味の声。
「はい」
「朋也と、同じ所で、働かれてるんですよね?」
「はい。だいたいの場合、二人で仕事に回っています」
「それじゃ、あの」
一息おいて。
「最近、あいつ、どんな感じですか?」
「……それは、なかなか難しい質問です」
「あ、ご、ごめんなさい」
「いえ、謝る必要はありません。察するに、岡崎のこと、気にかけていただいているのでしょう?」
「その」
誤魔化そうかそれとも正直に認めるか、迷う。
だが、男の真剣な表情を見て、いらない意地を張り続ける必要はないと悟る。
「はい、ちょっと心配してます」
「それは……とても有難いことです。本来ならば俺なんかからじゃなく、本人から言わせないといけないことですが」
「あ、いえ」
「ありがとうございます。岡崎に代わって、感謝させていただきます」
「いえ、そんな……」
照れると同時に、杏は考えていた。
なんだ、いい先輩がいるんじゃない。これなら朋也も大丈夫そう。
空のコップに瓶を傾け、芳野の言葉を待つ。
「それで、岡崎のことですが」
「はい」
芳野がコップを手に取って、一口飲む。
合わせるように、杏もコップを口元にやる。
「正直」ふぅ、と軽いため息。「あまりいい状態とは言えません」
言って、男は再びコップに口をつける。
杏は、今度は、それに合わせられなかった。
「あの、それってどういう……」
「二年前のこと、恐らく、ご存知でしょう?」
「……はい。汐ちゃんの、ことですよね」言うべきか言わないべきか少しだけ悩んで、目の前の男に打ち明けることにする。「あたし、幼稚園で、汐ちゃんの担任をやってたんです」
隣から、はっと息を呑む声が聞こえる。
「それは……申し訳ありませんでした」頭を下げて、芳野は言う。「迂闊に言っていいことではなかった」
「いえ、その、あたしから聞いたことですから。それに……一番辛いの、あいつですし」
場を繕うように杏はおでんをいじる。
少しの間。芳野が口を開く。
「岡崎、あいつは強い奴です」芳野は言う。「一時期は仕事に顔を見せず、見せるようになっても、表情というものが無く。そんな状態でした。それはまるで……」
一瞬、止まる言葉。
恐らく言っていいものか迷っているのだろう、考えて、杏は続きを言う。
「渚の時のよう、ですか?」
「……はい。あの時とほとんど同じでした。無理もありません、妻に続き、娘までをも亡くしたのですから」
杏の脳裏に、二年前の朋也が浮かぶ。
通夜の時のことだ。棺に一番近い位置に座った朋也の顔。辛いとか、悲痛とか、そんな言葉では表しきれない、表情をなくしてしまった顔。
散々泣きはらしていた杏。でも、そんな朋也を見た時に、それまでで一番涙が出た。
悲しくて、切なくて、悲しくて、悲しくて。
彼にかける言葉なんて、見つかるはずもなかった。そしてそのことを、杏は今でも後悔している。
「それでもあいつは、徐々に生気を取り戻していきました。強い奴です。本当に、強い奴です。でも」
芳野は首を左右に振る。
「駄目なんです。それでは駄目なんです。強過ぎる。そんなに強くては壊れてしまう。いくら強固な鎧を身に着けても、人間の中身、心はそんなに強くはあれない」
涙すら流しそうな、そんな顔で芳野は語る。
朋也のことをここまで心配してくれる人がいる、その事実に、杏は泣きそうになる。
こんなに心配してくれる人がいるのに、あんた何やってんのよ、バカ朋也。目じりに少しだけ浮かんだ涙を強引に拭う。
「あの、芳野さん」
「はい」
「あたしたち、何かできることはないんでしょうか?」
杏の言葉に、芳野は目を瞑る。酒に口をつける。
そうしてしばらくの後、決心したようにゆっくりと話し出す。
「一つ、聞いた話を」
*
そう遠くない昔の話です。夢を追いかけて東京へと出て行った男がいました。
『絶対にプロになって、有名になるから。そうしたら、俺と付き合って下さい』
当時好きだった女性にそう告げて。音楽を、やっていたんです。
丁度良く時流に乗ったのでしょう。間もなくそいつは、ロックシンガーとしてそこそこの地位を築き上げました。何もかもがうまく行く。順風満帆とはきっとその頃のことを言うのでしょう。ですが――
やはり、人生というものはそんなに甘いものではありません。ある出来事を境にして、そいつはおかしくなってしまった。曲は乱れ、歌は曲がり、とうとう薬にまで手を出して。絶望の毎日を送りました。いつか自分で歌ったような、夢も、希望も、そこには存在などしない。ただ暗い闇だけがずっと続いていました。
何もかもを失った男。最後にたどり着いたのは、やはり故郷でした。バスを下りて、何も持たずに、夢遊病者のように歩く彼の先。
――あの日の、女性がいました。
全くの偶然。彼はそれを恨みました。最悪の仕打ち、そう思えてならなかった。でも――
彼女は、穏やかに笑ったまま、彼にこう言ったんです。
『まだ、音楽は続けてる? ずっと続けていれば、叶うから、諦めないでね』
彼は泣きました。耐え切れませんでした。嗚咽を漏らしながら、まるで子どものように泣きました。それまで溜めていた全てのものを吐き出すように。
彼は思います。ずっと、この人のそばで歌っていれば良かった。この人のためのラブソングだけを書き続ければ良かった。それだけで俺は十分だったんだ。
暗闇を歩く彼にとって、彼女はまさしく光でした。それは、きっとずっと昔からそうだったんです。光を遠ざけた結果彼は道に迷った。考えてみれば当たり前のことです。彼には自分を照らしてくれる、包んでくれる光が必要だったんです。
傷ついた心を癒すのは、もちろん時間もそうでしょうが、それ以上に、人のぬくもり。温かい光。少なくとも、そいつにとってはそうでした。
岡崎、あいつはその彼とよく似ている。自分一人では道を歩くことができない、光の下でしか正しい道を歩めない、本当は弱い人間なんです。
*
話はこれで終わりです、と芳野はコップに残っていた酒を飲み干す。
「年を取ると長話が好きになるらしい。申し訳ありません」
「いえ」杏は短く答えて、さらに芳野に尋ねる。「その人、どうなったんですか?」
「そいつは」
何と言ったものか、と芳野は苦笑いを浮かべる。
そうして燗を傾けるが、既にそれは空になっていて、何も出てはこない。
ついてない、そう呟いて、芳野は杏の疑問に答える。
「こうして酒を楽しむぐらい、他人の心配をできるぐらいには、大人になったみたいです」
芳野の言葉に杏は少し驚いて、でも納得したように、なるほど、と何度か頷く。
「じゃあ今はその女性と?」
「はい、結婚、しています」
照れを隠すように燗をぶらぶらとさせる。
そんな少し子どもっぽい仕草に、杏は、にやりと質(たち)の悪そうな笑顔を浮かべて言う。
「なんだ。フリーだったら、その男の人狙っちゃおうかと思ったのに」
ぶっ、と芳野が吹き出すのが聞こえる。
満足したようにくすくすと笑って、杏は言う。
「冗談ですよ。もちろん、魅力的な人だとは思いますけど」
「からかうのはやめてください」
芳野の顔が、酒とはまた別に赤みを帯びる。
ふふ、と杏は仕事中に見せるような笑みを見せる。
「あたしは」杏は言う。芳野と、そして自分に言い聞かせるように言う。「渚や汐ちゃんみたいに、優しい光にはなれないかもしれないけど」
一呼吸おいて。確認するように。
「それでも、大丈夫ですよね?」
杏の顔を見て、芳野も微かに笑みを浮かべた。
「構いません。むしろ今のあいつには、ガンガン焚きつけるような、強い光でちょうどいい」
「ありがとうございます。ちょっと自信出てきました」
杏の言葉に、芳野は思う。この女性なら、きっと。
「……岡崎を、頼みます」
そうやって頭を下げる芳野。
まるで朋也のお兄さんみたいだ、と杏は思う。たとえ血は繋がってなくても、二人はしっかりと兄弟なんだろう、そう思う。
「はい、じゃあ、行ってきますね」
杏は笑顔で答える。
「今から……ですか?」
驚いたように言う芳野。
杏は、得意げに返す。
「強い光でちょうどいいって、芳野さんが言ったんですよ?」
杏が去った後も、芳野はしばらく一人でおでんをつついていた。
強い、太陽のような女性だった。今日こうして偶然にも出会えたことに感謝する。どの程度時間がかかるかは分からないが、きっと岡崎は大丈夫だろう。芳野はそう思う。
二度に渡り最愛の者を亡くした経験。彼と彼女との間には、きっと多くの壁が待ち受けていることだろう。簡単に取り除ける壁ではない。
それでも、きっと。彼女なら。
暗い所にいる岡崎を殴ってでも引っ張り出して、そして自身の強い光を浴びせるだろう。世界は決して暗いばかりではないんだ、と力ずくにでも岡崎に分からせるだろう。
岡崎もこれから大変だな。そう思って、くく、と笑う。
空いた燗をぶらぶらとさせながら芳野は想像する。眩い光の下で、彼女に手を引かれる岡崎の姿。それは、あまりにも違和感なく芳野の脳裏で像を結んだ。
「店主。最後の一本、貰えるか」
久しぶりに気持ちよく酒が飲めそうな、そんな気がして、芳野は人知れず笑みを浮かべた。
第三期第十回クラナドSS祭り お題『光』 出展。
感想会が延期になったので、ならもう一作書いてみるか、と。
芳野さんにみなさん違和感を持たれた模様。色々な面で有効なキャラなんですが、書くのは難しいです。
大遅刻にも関わらず一票いただきました。ありがとうございます。
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