光の中に、立っていた。

 目の前に続くのは長い長い坂道。何処か懐かしく、何故か、悲しい。
 一歩一歩、俺はその坂を上っていく。早く頂上まで行かなければならない。そこにきっと    が待っている。
 白い――まるで雪のように溶け出しそうな光の中から、少しずつ、二つの背中が見えてきた。
 俺は足を速める。やっと見えた    が、このまま光と一緒に溶けてしまいそうな気がした。
 二人の姿が次第に大きくなる。逸る心。
 ようやく辿り着いた、そう思った瞬間に。

 「彼女たち」が、振り向いた。

 手を伸ばす。
 でも、その手は届かなくて。
 どうして。
 どうしてっ。
 こんなに伸ばしているのに。
 こんなに触れたいのに。


「            」
「       」


 俺に向かって、二人が、何かを喋っている。
 何を言っているんだ?
 何を伝えたいんだ?
 聞こえない。
 聞こえないんだ。
 早くしないと。
 聞いてやらないと。
 ほら、もう光が溶けかかっている。


「            」
「       」


 二人が、光と一緒に、溶けていく。
 手を伸ばす。
 抱き止めようとする。
 でも、やっぱりできなくて。
 手は空を切るだけで、何の感触も残してくれない。

 待ってくれ。
 待ってくれよっ。

 俺もそっちに連れて行って――










「――渚っ! 汐っ!」


 伸ばした手。握っていた手のひらを開いても、そこには何も無くて。一体何を掴めるというのだろうか、この俺なんかに。
 そんな意味の無い感傷から、また、意味の無い一日が始まる。










光の下を歩くとき   一話













 最近、あいつらの夢を見ることが多くなった。これで三日続けてのことになる。
 六年。渚がいなくなってから俺が過ごした時間。
 二年。汐がいなくなってから俺が過ごした時間。
 長かったのか、それとも短かったのか。遠い日のことだったような気がする。つい先日のことだったような気がする。分からない。ただ、朝起きた時に感じるどうしようもない寂しさだけはずっと変わらない。

 夢を見た朝は何もする気が起きず、しばらく布団の中でただぼうっとしている。ギリギリまでそうやってから、いつものように会社へ向かうことになる。
 家を出る前に、渚と汐の位牌に手を合わせた。
 朝ごはんはきちんと食べないといけません。それがお仕事への活力になるんです。
 そんなことを言う渚が頭を過ぎって、堪らず、苦笑した。
 ごめん、渚。
 でもお前が作ってくれないからさ。
 なぁ、しょうがないだろ?





「また飯抜いて来たのか?」
 現場へ向かう車の中、芳野さんがそう言った。ハンドルを握り、目線は前方に向けられたままだったが、もちろん、それが俺に向けられたものだということは理解している。
「ちょっと寝坊しちまいまして。やっぱりそういうのって、分かりますか?」
「嫌でも毎日顔会わせてるからな」 口元を歪めて芳野さんは続ける。 「特にお前は、分かりやすい」
 顔に出ている、ということだろうか。咄嗟に左手を顔に持っていき頬の辺りを撫でてみるものの、それで何が変わるというわけでもない。
「コンビニにでも寄ってやるから、パンでもおにぎりでも弁当でも適当に買って来い」
「いや、俺大丈夫っすから」
「岡崎」 と、一瞬だけ睨むように俺に視線をやってから、芳野さんは言った。 「昨日、一昨日。明らかに集中力が足りてなかった。いつも言ってることだが、俺たちの仕事は」
「少しの緩みが大事故に繋がる、ですよね」
 耳にタコができるほどくり返し聞かされた言葉だった。物理的な意味、精神的な意味。ネジの一本、一瞬の油断。事故はいつどこにでも潜んでいる。
 それを言われてしまっては仕方が無かった。俺は芳野さんの厚意を素直に受け取ることにした。
「じゃあお願いします」
 芳野さんが今度は俺の方を見ることなく、小さく首肯する。
 それから、そう待つこともなくコンビニが確認できた。
 車が路肩に止められる。助手席のドアを開くと、朝方の冷えた空気が車内に流れ込んできた。
「何か、買ってきますか?」
「コーヒー。ホットのな」
「了解。三分で行って来ます」
「一分半だ」
「ういっす」
 弁当を温めてもらう時間は無さそうだった。


 おにぎりを三個にお茶、芳野さんに頼まれたコーヒーを手に車内へと戻る。
 芳野さんから差し出された硬貨を受け取りはしなかった。芳野さんも無理に受け取らせようとはしなかった。多分、それさえも俺への心遣いなのだろう。
「何だったら、公子におにぎりでも作ってもらって、持って来てやってもいいぞ」
 エンジンをかけてすぐ、芳野さんがそんなことを言った。
 俺は少し考える素振りを見せてから、
「そう言ってもらえるのはありがたいですけど、やっぱり、そんな迷惑かけられませんから」
 と、断った。
 いくらなんでも、そこまで甘えてしまうわけにはいかないと思った。ただでさえ、芳野さんには考えたくもないぐらいに迷惑をかけ続けている。
「そうか」 だが、と芳野さんは続けた。 「こんな状況が続くようなら、弁当を持って来て、無理にでも食わせるからな」
 何かあったら、俺が迷惑することになるんだから。
 ぶっきらぼうな芳野さんの言葉は、でも優しさの表れに違いなくて。
 それが嬉しくて。
 苦しかった。

 今の俺に。
 その優しさを受け取る権利があるのだろうか。




 芳野祐介さん。会社の先輩で上司、仕事上のパートナー。
 俺はこの人に、もう返したくても返しきれない程の恩がある。
 そもそも勤め先も決められずに高校を卒業した俺がこの仕事に就くことができたのも、芳野さんの手引きがあったからだった。この職場で働くようになってからも、全くの初心者であった俺を引っ張っていってくれた。
 芳野さんはいつも俺のことを気にかけてくれている。特に渚が亡くなってからは一層のことだった。渚に続いて汐を亡くして、死んだようにただただ毎日うなだれていた俺を仕事に連れ出してくれたのも、この芳野さんだった。
「何も考えなくていい。働け」
 放っておいてくれと言う俺を文字通り外へと引っ張り出し、作業服へと着替えさせ、そう命じた。最初は反発もした。それでも無理矢理働かされた。
 今考えれば、そのことに、俺はどれだけ救われていただろう。そして救われ続けているだろう。
 多分、芳野さんに連れ出されなければ、俺はあのまま腐って死んでいた。もしその前におっさんと早苗さんが助けてくれたとしても、何時までもうなだれる毎日を過ごしていただろう。いくら強かろうと、オッサンも早苗さんも、俺と同じ失った身なのだから。
 仕事の間は何も考えられなかった。余計なことを考えていれば容赦ない怒声が芳野さんから飛んできた。ただ言われるままに働いた。そうする内に、少しずつ痛みが薄れていくような気がした。
 やるべきことがある。それが今の俺を支えている。そう、自覚していた。



「おい岡崎」
「はい、何すか」
 今日の仕事を終えて事務所に戻り、普段着へと着替えている時のことだった。
「一杯、付き合わないか」
 芳野さんはそうやってよく俺を誘ってくれた。自分でも分かる程に付き合いの悪い俺に、それでも声をかけてくれた。
「すいません、今日見たい番組があるんで」
 もちろん、嘘だった。
「そうか。残念だが」
「すいません。また今度、お願いします」
「ああ」
 多分、芳野さんも俺の嘘に気づいているのだろう。だからこそ、一度断りの言葉を口にした俺をさらに誘うことはしなかった。
 人前で、特に芳野さんの前で酒を飲みたくはなかった。
 アルコールが回ると、普段抑えている感情が表に出やすくなる。俺は芳野さんの優しさに甘えてしまうだろう。弱音を吐いてしまうかもしれない。泣いてしまうかもしれない。
 芳野さんに、これ以上の迷惑をかけたくはなかった。
「それじゃ、失礼します。また明日もよろしくお願いします」
「おう、気をつけてな」
「お疲れさまでした」
 言い残して、俺は事務所を出た。


 ゆっくりと歩く俺に、十月の夜風が狙ったように吹きつける。朝晩は特に最近めっきりと冷えるようになってきた。少し早いけれどそろそろこたつを用意してもいいかもしれない。
 帰ったら久しぶりに燗でもつけよう、と考える。普段は面倒だからあまりやらないのだけれど、帰りがけ芳野さんに誘われたからだろうか、今日は手間を覚悟の上でも熱い酒を飲みたい気分だった。
 途中、いつも通りにコンビニに寄る。仕事が早く終わった時にはスーパーで食材を買って自分で料理を作ることもあるが、大抵の場合はコンビニの弁当で晩飯を済ませている。今日は弁当の他に、熱燗に合わせておでんを数種買った。
 左手にコンビニの袋をぶら提げ、家までの道を歩く。
 代わり映えのしない毎日だった。起きて、働いて、食って、飲んで、寝て。それは安定とはまた少し違うだろう。
 それでも、俺は生きている。
 ぐるぐると回る日常。不思議な気分だった。今ここに自分がいるということに何ともいえない違和感を覚えた。本当の俺は渚や汐と一緒に昼寝でもしていて、ここにいる俺は夢の中の幻ではないかとさえ思った。

「朋也?」

 足下を見て歩いていたからだろう。そう声がかかるまで、俺はその人物に気づくことなく自分の意識の中に入っていた。突然呼ばれた名前に、情けなくも身体がびくりと反応していた。
「と、朋也?」 覗き込むようにして杏が言った。
「あ、いや、杏か。ちょっと考え事してたから」
「そ」 取り繕う俺に小さく笑って、続けた。 「久しぶり、になるのかしら」
「さあな」
 最後に会ったのがいつのことだったか、よく覚えていない。
「仕事帰り?」
「ああ」
「ふーん。大変よね、遅くまで」
「今日はそう遅くもないさ。それに」
 と言いかけて、止めた。
「それに、なによ」
「いや、何でもない」
 ――働いている方が気が紛れるから。
 二年も経ってまだそんなことを言いたくはなかった。余計な気遣いをさせたくなかった。
「まぁ、いいけど。ねぇあんた、それ」 俺の持った袋を指して杏は言った。 「夕飯なんでしょ?」
「ああ」
「そんなんばっかじゃ身体壊すわよ」
「なんだ、心配してくれんのか」
「馬鹿。幼稚園の先生としては、そういうの気になっちゃうだけよ」
「そうか」
 よく分からないけれど頷いておいた。
 杏は何処か少しイライラとしているようだった。高校からの付き合いになるから、その辺りの機微を察することは容易だった。が、原因の分からない俺にはその場から逃げることしかできなかった。
「じゃあ、おでん冷めるからそろそろ行くな。また、今度」
「ええ」
 杏は短く言うと、俺より先にずんずんと進んで行った。やはり、あまり機嫌は良くないらしい。恐らく彼女にそんな気はないのだろうが、肩を怒らしているようにも見えた。
 相変わらずな彼女に一つその場で苦笑してから、俺は家路を辿った。




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