久々に燗をつけた酒。ゆっくり、弁当とおでんを消化していく。
 一人きりの食事にもすっかりと慣れてしまった。寝る時間さえ頭に入れていれば、後は何の気兼ねも必要無い。食べたいものを食べ、飲みたいものを飲み、寝たい時に寝る。
 怠惰な食事、と例えばさっきの杏が見たら言うのかもしれない。それを否定するつもりもない。
 高校の頃は、だいたいの場合夕飯の時には春原がいた。俺がいつも押しかけていた、というのが正確な言い方だろうか。肩がいかれるまでは普通に親父と一緒に飯を食っていたから、渚がいなくなって、俺は実質初めて一人きりの食事を日常的に経験することになったのだ。
 一人の食事は思った以上に味気ないものだった。買ってきた弁当を一人で食べる度に、どうしようもない寂しさが襲ってきた。
 慣れた今でも、その寂しさは変わらず俺を襲う。
 ただ、やり過ごす術を多少覚えただけの話だ。











光の下を歩くとき   二話













 とっくりに酒を入れ、三度目の燗をつける。明日のことを考えると、今日はこれともう一杯で最後にするのがいいだろう。
 壁にかけた時計は丁度十時を指している。この分だと十二時には充分眠れそうだ。
 そんなことを考えながら台所の壁に身を預けていると。
 ――突然、チャイムが鳴った。
 こんな時間に何だ、と疑問に思いながら玄関へと向かう。時間が時間なので警戒が必要だろう。念の為に覗き窓から外を窺った。
 そこには――むっつりとした顔の、杏の姿があった。
 再び疑問に思いながらも、鍵を開け、ドアを開く。
「杏? どうした、こんな時間に」
「その顔、あんた、飲んでるんでしょ?」
「ああ。悪いか?」 少しだけむっとして、俺は言った。
「悪くない。あたしも飲む」
「は?」
 展開についていけず呆然とする俺に、杏は構わず続けた。
「で、入っていいのかしら?」
「あ、ああ、別にいいけどよ」
「それじゃお邪魔します、と」
 杏を中に入れ、ドアを閉める。彼女はブーツを脱ぐと、早速部屋に上がりこんだ。
 慌てて俺はその後を追う。何が何だか、酔った頭はまだついて来ていなかった。
 うわ、汚い。遠慮無くそんなことをのたまう杏。
 俺が言い返す前に、続けて口を開いた。
「あんた何飲んでんの?」
「あ、ああ。今、燗つけてるけど」
「あたしも貰っていい?」
「いいけど」 と俺は言って、台所へと向かった。そろそろ酒も充分に温まったはずだ。
 食器棚から杏の分のコップを取り出す。布巾を持った手でやかんの中からとっくりを持ち上げて、コップと一緒に部屋へと持っていく。
「で」 机の前に座り、手に持った二つを置いてから俺は杏に話しかけた。「どうしたんだ?」
 不審には思ったが、長い付き合いで気心も知れた相手。飲みたいというのなら付き合ってやるのもいいだろう。酔っているせいで多少気持ちが大きくなっているのかもしれない。
「別に。ただお酒飲みに来ただけ」
「んなわけないだろうが」 言いながら、杏のコップに半分程まで酒を注いでやる。
 ありがと、と小さく口にした杏は、俺の手からとっくりを半ば奪い取るような形で受け取った。
「やっぱ、分かる?」 ちょっと照れくさそうに、今度は杏が酌をする。光の下で見ると杏の顔が赤らんでいるのが分かった。既に少し酔っているようだ。
 杏のコップと同じか少ないぐらいに酒が入ったところで、とっくりが空になった。二人で飲むのに一合のとっくりはちょっと小さ過ぎる。
「そりゃ、な。いくら非常識なお前でも、こんな時間にそれだけじゃ来ねえだろ」
「非常識って何よ」
「常識ある人間が辞書投げるかよ。それもオーバーハンドで」
「それは」 杏は言い詰まって、繕うように。 「まぁ、そんなこともあるわよ」
「ねーよ」
 自然と、笑みが浮かんだ。こんな意味の無い会話を楽しめる知り合いを、俺はそう多く持っていない。
 これまで杏と二人で酒を飲んだことはなかった。が、酒を飲む相手としてなかなかにいい奴かもしれない。
 芳野さんは、少し近過ぎて、そして甘えたくなるぐらいに大人過ぎる。
「じゃあ、とりあえず乾杯?」 と杏が言った。
「何にだよ」
「お酒が飲めることに?」
「なるほど」
 二人笑って、全く色気の無いコップを小さくぶつけ合った。



「別にね」
 一口酒を飲んで、軽くため息をついてから、杏は言った。
「大した用があったわけじゃないのよ、本当に」
「大したことない用はあったのか?」 と、俺は揚げ足を取ってみた。
「ええっと」
 口元に手を持っていき、考える素振りを見せる。昔から変わらない仕草だった。
「……今言うことでもないか。いきなり過ぎるし」
 ぶつぶつと呟く。考え事をする際独り言を口にする癖も未だ健在らしい。
 今言わなかったらいつ言うのだろう、と疑問に思ったが、そう大した問題でも無さそうなのでとりあえずしばらくは放っておくことにした。
 コップに注いだ酒を口にする。先ほどまでよりも美味く感じるのは、恐らく錯覚ではないだろう。酒は「場」で飲むものだ。そう言ったのは芳野さんだっただろうか、それともおっさんだっただろうか。
「あ、えーと」
 ようやく考え事を終えたらしい。少し頬を染めて、杏が言った。 「何の話、してたっけ?」
「別に。大した話はしてなかった」
「そう? ま、いっか」
 へへ、とちょっと恥ずかしそうに笑う。
 そんな彼女に俺は苦笑を禁じえなかった。皮肉のつもりだったのだけれど、多分杏はそれに気づいていないだろう。
 杏がコップを持って、口に運ぶ。
「あっ」
 が、それを途中で止めた。手に持ったコップを机に上に置く。そうして、顔の前で手を合わせた。
「ごめんっ。渚と汐ちゃんに手合わせてなかった」
「あ、ああ」
 そういえば、と思い返す。突然の訪問で呆気に取られてしまい、俺もそのことに思い至らなかった。すまん、と心の中で二人に謝る。
 対面に座っていた杏が立ち上がり、位牌の前に向かった。
 線香を上げ、りんを鳴らす。
 りんの音(ね)が細く静かに響く中、杏は二人に手を合わせる。
 俺はコップを持ったまま、杏が汐の幼稚園の先生だったことを今さらに思い出していた。彼女はどんなことを祈っているのだろうか。もちろん、俺にそれを知る術はない。尋ねる必要もない。
 ただ、渚も汐も喜んでくれるといい。
 そう思った。


「結構長かったな?」 と、戻って来た杏に声をかけた。
「うん」 はにかみながら杏は言った。 「色々とね。挨拶とか、報告とか、あと確認とか」
「確認?」
「色々あるの、あたしにも」
「そうか」
「うん」
 そう言う杏の顔には小さく笑みが浮かんでいたから、決して悪い話ではないのだろう。
 酒を一口。目を瞑って、俺はあいつらのことを思った。
 幸せにしてやりたかった。してやるつもりだった。叶わない夢だったとは思わない。思いたくない。
 だから悪いのは、きっと、俺だった。
「朋也」
「ん?」
「ここ」 と、杏は自分の眉間を指して言った。 「しわ、寄ってる」
「そうか?」
「うん。考え事するなとは言わないけど、それじゃ、お酒美味しくないわよ」
 お前が言うな、と思ったけれど、素直に認めることにした。それは全面的に正しい意見だったから。
「だな。わりぃわりぃ」
「うん。……あ、追加のお燗、つけていい?」
「おう。ちょっと待ってろ」
「いい、あんた座ってて。あたしやるからさ。いきなりお邪魔しちゃったし、これぐらいはやらなきゃね」
 ここは厚意に甘えておくべきだろう。そう考えて、頷く。
「そうか。じゃ、頼むわ。酒は台所に置いてあるから」
「了解」
「あーそうだ」 と、俺は思いついて言った。 「食器棚に、とっくり、二合のやつがあるから今度はそっちで頼むわ」
 これじゃ小さ過ぎる。机の上にある一合とっくりをぶらつかせながら、そう加えた。
 そもそも俺が初めに買ったのは二合の方だった。一人では何かと使い勝手が悪かったので、今使っている一合のとっくりを改めて購入したのだ。
「オッケー。あつめ? ぬるめ?」
「あつめ。冷めりゃぬるめになるだろ」
「違いないわね」
 くく、という押し殺した笑いが俺のところまで漏れて聞こえた。



 壁時計は十二時を示していた。そろそろ寝ないと明日に差し支えがあるだろう。
 杏が来る前から一人で飲んでいた分、後半はペースを落としていた。杏はそんな俺を相手に最初と変わらない勢いで飲み続けていたから、どう控えめに見ても酔っているようだった。
「おーい、杏」
「よしのさんがねぇー」
「は?」
 突然出てきた名前に俺は驚く他ない。
 特に交流があったようには思えなかったが、実は知り合いだったのだろうか。それとも、俺の知る芳野さんとは別の人物のことだろうか。
「朋也のことをねぇ、しんぱいしてたぁー」
 やはり俺の知るあの芳野さんらしい。
「芳野さんってお前、知り合いだったのか?」
「あー、もしかして朋也ぁ、誤解してるぅー? あはっ、確かにすてきな人だけどぉー、違うんだよぉー」
 語尾を伸ばして、甘ったるい声。酔うと人に甘えるようになるタイプのようだ。
「そらお前、芳野さん結婚してるしな」
「ぶぅー」 と、杏は頬を膨らませた。
「ぶぅ、ってお前、キャラじゃねーだろ」
 苦笑する。普段の杏からは考えられない、幼く見える姿だった。
「朋也はねぇー、もっと人に甘えるべきなんだってぇー。ほらほら、甘えなさーい。あたし、よーちえんのせんせーだからっ」 そう言って、えへんと胸を張る杏。
「できるわけねーだろ、そんなこと」
「ぶぅー」 と、杏はまたわざとらしく頬を膨らませる。 「けちー。朋也のけちー」
「けちって、お前な」
「なによぉー。ほんとは甘えたいんでしょー。甘えなさいよぉー」
 その言葉に、一瞬、ドキッとする。
 それは確かに俺の本心だった。そしてとても魅力的な誘惑だった。
 人の優しさに自分を曝け出せたならそれはとても幸せなことだ。渚は弱いところも駄目なところも全部曝け出した俺を優しく包んでくれた。経験があるだけに、杏の言葉は、とても甘美なものだった。
 でも。
「俺にゃ無理だ」
「なんでぇー。どうしてよぉー」
「俺にはもうそんな権利なんて無いんだよ」
 こんなことを言うなんて俺も酔ってるんだなぁ。言い訳するようにそう挟んで、また続けた。
「渚も汐も守れなかった。幸せにしてやれなかった。そんな俺にさ、意味なんて無いだろ。人に優しくしてもらう価値なんて、あるわけないんだよ。もう充分皆に優しくしてもらってるさ」
 愚痴っぽく、そして湿っぽくなってしまったのは、まぁしょうがないことだと思う。そもそも杏から振ってきた話なんだから。
 そう、俺は何も守れなかった。幸せにすると約束しておいて、結局何もできやしなかったのだ。

「あんた、馬鹿じゃないの?」

 物思いに浸る俺に、杏から声がかかった。
 彼女の目つきは鋭くなっていた。それまでの口調から一変、瞬間にして酔いが醒めたような、そんな口ぶりだった。
 立ち上がり、叫ぶようにして杏は言う。
「意味が無い? 価値が無い? そんなの、その辺にいくらでも転がってるじゃないのよ。今、こうしてるのだって……」
 と、そこで突然止まった。座り込み、俯いて、頭を抱える。
 不審に思って、俺は下の方から杏の顔を覗きこんだ。
「頭、いたい」 ぽつりと、杏はそう呟いた。
「そら、お前、あんだけ酔ってるのに急に大声とか出すから」
「うぅ」
 俺は台所へ向かい、水を持ってきてやった。
 それを飲ませてから、まだうぅうぅと唸る杏に言う。
「ほら、外でタクシー拾ってやるから。そろそろ帰らないとまずいだろ」
「うぅ。むりー。立ちたくないー」
「そんなこと言っても、お前」
「朋也ー、けーたいとってー」
 また少し甘えモードに入っているらしい。
 やれやれ、と小さくため息をつく。机の上に置いてあった杏の携帯を取って、杏の手に握らせる。
 ありがと、と呟くと、杏は折り畳み式のそれを開いて何かを操作する。すぐにまたパタン、と閉じて、俺に言った。
「じゃあ、おやすみ朋也ー」
「は?」
 杏の言葉を咀嚼して、おい、と声をかける時には既にすーすーという寝息が聞こえてきた。
「勘弁しろよ」
 頭を抱える。一度寝付いた杏を無理矢理起こした時の恐さは、高校時代からしっかりと理解していた。しょうがない、とまた一つため息をつく。
 押入れから布団を持ってきて掛けてやると、無意識の内か、杏の手がそれをぎゅっと握り締めた。やはり寒かったらしい。念のために、一枚、毛布を足下に置いておく。
 机の上の惨状はとりあえず忘れることにする。目を覚ました後の俺に期待しよう。
 今日の酒のことや明日のこと、杏のことと色々考えたいことはあったが、それらも極近い未来の自分に丸投げすることに決めた。結構な時間飲み続けていたから、いい加減俺も眠かった。
 なるべく杏から離れた位置に、布団を被って横になる。

 『ほんとは甘えたいんでしょー』

 杏の言葉が、耳に残っている。




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