
手を伸ばせば届きそうな距離に、二人の姿があった。
「 」
「 」
彼女たちの口が動いているのが分かる。俺に何かを伝えようとしているのが分かる。
なのに、その声が聞こえない。聞いてやれない。
直に、二人の姿が薄くなって。
手を伸ばす。でも触れられなくて。
そうして、目が覚めた。
光の下を歩くとき 三話
またこの夢か。ぼんやりとした頭で最初に思ったのはそれだった。
次第にはっきりとしていく意識。
そして気づく違和感。
――懐かしい匂い。
半ば反射的に起き上がり、台所に目をやる。そこにある後ろ姿。
「渚っ!」
言ってしまってから、自分の声に気づく。ありえない光景を幻想していたことに気づく。
俺の言葉が聞こえたのだろう。台所の人影は、一瞬目に分かる程大きく身体を震わせて、でもすぐにこちらを振り向いた。
「おはよ」
何処か寂しそうな顔。多分、俺の見間違いではないだろう。
普段左横の髪をリボンでほんの少しだけまとめている彼女は、料理のためか今はポニーテールの形に髪をまとめていた。
「杏?」 一瞬戸惑ったが、すぐに思い出す。 「ああ、昨日飲んだんだったな」
「うん」
「で、お前がそこにいて、この匂いってことは」
分かってはいたが、一応確認のために聞いてみた。部屋に漂う味噌の匂い。朝の味噌汁なんて、もう一月は作っていなかった。
杏は照れくさそうに小さく笑って、口を開いた。
「朝ご飯。昨日迷惑かけたから、せめてもの罪滅ぼしっていうか」
「あーまぁ確かに昨日のお前は」
「ストップ」 と、杏は俺の言葉を遮った。 「忘れなさい。っていうか忘れてください。お願いします」
「なるほど。買収ってわけか」
「うん、そんな感じでよろしく」
時計を確認する。六時。飯を食う時間は充分にある。目覚ましが鳴る前に起きたのだから、当然といえば当然か。
少しだけ頭が重かった。本格的な二日酔いとまでは無いが、確かに昨日は少々飲み過ぎたのかもしれない。
立ち上がって、顔洗ってくる、と杏に一声。
すぐに食べる? もう準備はできるけど。
おう、よろしく。そう返事をして、洗面所に向かう。
冷たい水で顔を洗う。鏡に映る自分。少し冷静になって考える。
酔い潰れてそのまま寝てしまった杏。お互い、外泊うんぬんが問題になるような子どもではないし、やましいことがあったわけでもない。それは杏にも分かっているだろう。確かに多少の気まずさは認めるにせよ、それはそう致命的な問題ではない。
ただ――咄嗟のこととはいえ、台所にいた杏の後ろ姿を、味噌汁の匂いを、渚のそれと重ねてしまったこと。そして何より、渚の名を口にしてしまったこと。
一番大きいのは、それだった。
「ただいま、と」
部屋に戻った時には、机の上に大分配膳がなされていた。
そこでようやく昨日の惨状を思い出す。
「あー、昨日の片付けしてくれたのもお前か」
「ええ。まぁそれぐらいはね」
「すまんな」
「いいわよ、そんなの」
「何か手伝うか」
「あ、じゃあお茶持っていって」 悪戯っぽく杏は付け加える。 「いくらあんたの部屋とはいえ、冷蔵庫にお茶ぐらいあるでしょ?」
「そりゃ、な」
冷蔵庫を開け、お茶の入った容器を取り出す。机を確認すると既にコップは用意されていたので、それだけを持っていく。
机の前に座る。目の前に並んでいるのは、ご飯、味噌汁、ほうれん草のおひたし。おひたしは、一昨日買って冷蔵庫に入れておいたものだろう。
「あんた買い物とか滅多にしないでしょ? 冷蔵庫の中、何も無いんだから。本当はあと一品ぐらい作りたかったんだけどさ」
言いながら、杏が皿を一枚持ってくる。それを机の上に置くと俺の対面に座った。皿の上に乗っているのは卵焼きだった。
「普段より砂糖抑えたんだけど、まだちょっとあんたには甘いかも」
「いいからとりあえず食おうぜ。冷める前に」
「うん」
「それじゃ、いただきます」
「召し上がれ。あたしも、いただきます」
杏の用意した朝食は文句のつけられない出来だった。
鍋で炊かれた飯は普段俺が炊飯器で用意する飯とはそもそも比べ物にならなかったし、味噌汁は冷蔵庫にあった余り物の野菜で作ったとは思えない程に美味かった。ふわふわとした卵焼きは杏の言うように俺には少し甘かったけれど、その分飯が進んだ。
結局、茶碗二杯半の飯を食って俺は朝食を終えた。
「ごちそうさま。やっぱお前料理上手いな」 と俺は杏に言った。
「……うん、ありがと」
でも、杏からの返事は何処か弱々しかった。当たり前、とか、感謝しろ、とか強気な言葉が返ってくると思っていたから、俺はつい拍子抜けしてしまう。
「どうした? 素直に礼言うなんて珍しい」
「うん」
やはり、様子がおかしかった。
どうしたものかと考えあぐねる俺に、杏は遠慮がちな声で言った。
「あのね」 呟くように。 「あたし、やっぱり余計なことしちゃったかな、って」
何となくそれで杏の言いたいことは分かった。
「別に。そら、まぁ少しは思い出すけどよ」
嘘だった。起きて渚の名前を叫んでしまってから今の瞬間まで、ずっと渚と汐のことが頭にあった。
許されないことだと分かっていながら、それでも記憶にある渚の味と杏の味とを比べずにはいられなかった。俺が汐に作ってやった味噌汁や卵焼きもこれぐらいの出来だったら、と考えずにはいられなかった。
「うん、それならいいんだけど」
普段の勢い無くそう言う杏。こいつがこんな状態だと、どうもこっちの調子まで狂ってしまう。フォローしたくても、言葉が出てこない。
気まずい空気がしばらく続く。他にやりようも無いので、俺は切り出した。
「ほら、杏、お前今日も仕事だろ?」
「うん、もちろんそうだけど」
「一回家帰るんだろ?」
「ええ、そのつもり」
「じゃあ片付けは俺がやっとくから」
そろそろ帰らないとまずいんじゃないか、とは直接的に杏を追い出しているようで言えなかった。が、言外の意図を察したらしく、彼女はこくりと頷いた。
「うん、じゃあよろしく。あたしそろそろ行くわね」
「おう、ありがとな。飯、美味かったぜ」
「ん。あたしも迷惑かけたわね」
「ま、あれぐらいならな」
唯一の手荷物であるバッグを持って、席を立つ杏。見送るため、俺も同時に立ち上がる。
玄関で、再度別れの挨拶。本当ならアパートの下辺りまでは行きたかったけれど、誰に見られて噂されるとも限らない。
「それじゃ、またね、朋也」
「おう、また」
間接的にとはいえ、結果的に部屋から追い出すような形になってしまった。が、その辺りは多分杏も分かってくれているだろう。あの空気の中に居続けても互いに辛いだけだから。
杏が階段を下りていくのを見届けてから、俺は部屋へと戻った。
久しぶりに、二人分の食器を片付けなければならない。
歩いて事務所へと向かう間、昨日の夜から今日の朝にかけてのことを何度も思い返していた。
結局、突然杏がやってきた理由はよく分からないままだった。口では「酒を飲みに来ただけ」なんてことを言っていたが、昨日のあいつの様子を思うに、それだけでなく何らかの目的はありそうだった。
もしかしたら、と俺は思う。
俺に説教しに来たのかもな、と。
それは何の根拠も無い考えだったけれど。
事務所には既に芳野さんの姿があった。
芳野さんは、俺が挨拶するなり、
「今日はちゃんと飯食ってきたみたいだな」 と口を開いた。
「はい。久しぶりにちゃんとした朝飯食ってきました」
「そうか。いいことだ。久しぶりにマシな顔をしている」
何処となく今日の芳野さんは機嫌がいいようだった。普段よりも少し柔らかい雰囲気を感じた。
「着替えたらすぐ行くぞ。今日は割と早く終わりそうだ」
「了解っす」
作業服に着替えて、俺たちは事務所を出た。
午前の仕事は普段より早めに切り上げた。次の現場に移動する途中に行き付けの定食屋があったからだ。
芳野さんは絶対にそのようなことを口にしないが、多分、芳野さんは俺に気を使って、公子さんに弁当を作ってもらわないのだと思う。渚がいた頃には、俺も芳野さんもそれぞれに弁当を持って来ていたからだ。
そんな風に気を使ってもらわなくてもいいです、とは言えなかった。実際に芳野さんが弁当を持ってきたとしたら俺は随分困ることになる。芳野さんを外に待たせて一人定食屋に入るわけにもいかないから、毎日コンビニということになるだろうか。それは遠慮したい事態だった。
本当なら公子さんの弁当を食べたいだろうに、芳野さんは俺のためにそれを抑えてくれている。いくら感謝しても足りないぐらいだけれど、それを口にするわけにもいかなかった。黙って受け取るのがこの場合の礼儀に違いなかった。
二人揃って日替わり定食を大盛りで注文する。ほとんどのメニューを経験して、結局行き着くのはこの日替わりだった。時間が無い時や離れた現場での仕事時を除くと毎日のようにこの店を利用しているから、従業員ともすっかり顔馴染みになっている。
席に着いて、すぐに用意された水をまず一口。落ち着いてから、俺はずっと気にかかっていたことを聞いてみた。
「そういえば芳野さん、杏のやつと知り合いだったんですね」
「きょう?」 と、芳野さんは俺に尋ね返した。
知り合いではなかったのだろうか。昨日杏の話の中に出てきた「よしのさん」は、間違いなくこの人のことだと思ったのだけれど。
「えーと、青みがかった長い髪で、この辺をちょこっとリボンでまとめてる」
俺は左の横髪を指差しながら、そう特徴を挙げてみた。
「ああ」 と、芳野さんは頷いた。 「藤林さんのことか」
「そうっす、そいつです」
「知り合いという程でもないが、まぁ、昨日ちょっとな」
昨日というと、俺の家に乗り込んでくる前だろうか。いきなり俺のところにやって来たのも、芳野さんが何か関係していたのかもしれない。
というか、関係していたとしか思えなかった。
「何かあったんすか? あいつ、昨日いきなり俺の家に来たんすけど。酒飲みに来た、とか言って」
そんな俺の言葉を受けて、芳野さんは一瞬固まった後、耐え切れないようにくくっと笑い出した。あまり人前で笑うことのないこの人にしては随分と珍しい光景だった。
「そうか。くくっ、いや、実に彼女らしい」
「やっぱり、何かあったみたいですね」
はぁ、と漏れるため息を隠せなかった。
芳野さんと杏。あまり想像したくはないコンビだった。どう転んでも俺に勝ち目は無さそうだった。相手にしたくないという意味では、オッサンと早苗さんさえ上回る。
「まぁ、何があったかは、一応秘密ということにしておくのがいいだろう」
「……そすか」
そう言う以上、芳野さんから何かを聞き出すことはできないだろう。
何だかなぁ、と考えあぐねていると、従業員がやって来て、注文していた日替わりを二つ俺たちの前に用意していった。
それで、杏に関する話は自然と終わりになった。
いただきます、と手を合わせて、俺たちはそれぞれ自分の昼食と向かい合った。
朝芳野さんが言っていたように、今日は早い時間にあてられた仕事を終えることができた。
事務所からの帰り道。腕にはめた時計で時間を確認する。六時半。普段のことを思えば結構に早い帰宅となる。
久しぶりに晩飯は作るか。そう考えて、スーパーへと向かう。
汐がいた頃には毎日下手くそながらに料理をしていた。出来合いのものでは済ませたくなかった。長い間放棄していた「親」を必死で取り戻そうとしていた。それはとても短い期間ではあったけれど。
何を作ろうか考えながら、自動ドアをくぐる。かごを持ってまず向かうのは肉の売り場。並んだものを見て今日のメインを決めるつもりだった。
魚介類の売り場を簡単に眺めながら、その先に続く目的の場所へと歩いていくと、そこには見慣れた後ろ姿があった。
「杏?」 と俺はその背中に声をかける。
「えっ」
振り返って、俺を確認する。
「あ、朋也」
「おう」
「何、あんたも買い物? って、そりゃそうよね」
自分の言ったことにつっこみを入れて、苦笑気味に杏は言った。
「まあここにいるんだからな」 と、俺も軽く笑いながら言う。
「でも」 杏はお得意の悪戯っぽそうな顔で。 「あんたがスーパーのかご持ってるのって、すんごい違和感あるわよね」
「言うな。自覚してる」
くしし、と杏は口に手をやってわざとらしく笑う。
悔しいことは悔しかったが自覚があるだけに非難のしようがない。目の前の相手は無視して並んだ品を見ることにする。
「晩ご飯?」 ひとしきり笑い終えたのか、杏がそう聞いてきた。
「ああ」
「へー、あんたも作るのね」
「そりゃ、たまにはな」
「ふーん。何作んの?」
興味深そうに杏は聞いてきた。本当に俺に料理ができるのか疑問に思っているのかもしれない。
「今考え中」
逃げているようだが、事実だから仕方がなかった。
だから変わりに、杏の方に聞いてみる。 「お前は?」
「シチューにしようかな、って。今日は飲むつもり無いしね」
「お、いいな。俺もそうすっかな」
最近寒くなってきたことだ。俺も今日は酒を飲むつもりはなかったから、シチューというのはなかなかに魅力的な案だった。
何か思うところがあったのか、杏は口元に手を当てていつもの考える仕草。
しばらくの後、言った。
「じゃあどうせだし、あんたの分も一緒に作ったげよっか?」
「は?」
突然の提案に、間の抜けた声を出すことしかできない。
「同じメニュー作るなら、別々に用意するのも何か馬鹿らしいじゃない。だから、あんたの分も作ったげていいわよって言ってんの」
「って言われてもなあ」
正直、嬉しい案ではあったけれど。
「そこまで世話になんのも、ちょっとな」
ただでさえ今日は既に朝飯を作ってもらっていたのだから、それはなおさらのことだった。
「別に気にしなくていいのに。一人分作るのも二人分作るのも変わんないんだしさ」
杏は二、三年前から一人暮らしをしていると聞いていた。実家にいると親に甘えてしまうから、という理由はいかにも杏らしかった。
「いや、確かに手間は変わんねーけどだな。やっぱ、迷惑はかけらんねーよ」
返す当ての無い善意を受け取るのは憚(はばか)りたいところだった。渚を失ってから、そして汐を失ってから、俺がどれだけ多くの善意に支えられてきたことか。
もうこれ以上人の迷惑にはなりたくなかった。人の足を引っ張って生き続けるような、そんな情けない男にはなりたくなかった。
「分かった」
俺の意思が伝わったのか、杏は思ったよりも素直に頷いてくれた。
そして、言った。
「じゃああんたが作って。それならいいでしょ? "手間は変わんねーけどだな" なんだし。あたしの手間が浮いて万々歳じゃない」
悪戯っぽくそう口にする杏は、嫌になるぐらい晴れ晴れしい顔をしていた。
天を仰ごうにも、コンクリートが邪魔だった。
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