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妙なことになったな、と思った。
シチューの下準備として、食材を切る俺。それを後ろから横からふんふんと眺める杏。
スーパーでのやり取りの結果、俺が押し切られる形で杏を家に招くことになっていた。強引なところは高校で初めて会った時から全く変わらない。
「だあーっ」
耐え切れず、俺は叫んだ。
「じろじろ見るなうろうろするなっ。少しは落ち着けっ。気が散るっ」
「い、いいじゃない、あんたがどれだけ出来るのか見てみたいしさ」
「じゃあ部屋から見てればいいだろっ」
杏がいると、ただでさえ狭い台所がさらに狭くなる。うろちょろとされると一層のことだった。
秋も深まるこの頃だとはいえ、動く度に互いが避けなければいけない状況はあまりに暑苦しいものだし、何より、鬱陶しいことこの上ない。男同士でないのが不幸中の幸いといったところか。
「何よ、ケチね」
「ケチはどっちだ。どうせそこにいるなら、見てないで手伝えよ」
「あ、それもそっか」
気づいていなかったらしい。
「あたしは作っちゃいけないって思い込んでた。そうよね。一緒に作れば問題無いのよね、うん。何で気づかなかったんだろ」
さっぱりとした顔で言う。
つまり、自分で料理をせずただ見ている状況に落ち着かなかった、ということらしい。人に任せるぐらいなら自分で全てやってしまいたい。そういうことだろう。考えれば、高校の時から杏はそういう奴だった。クラス委員なんかをやっていたのも、そんなこいつの性格の表れだったのだろう。
「じゃ、朋也、包丁の方はあたしが引き継ぐから、鶏肉炒めてて」
「了解」
こうなればもう俺はただのアシスタントということになりそうだった。逆らう必要もない。少なくとも料理に関しては、こいつの言う通りに動くのが最も効率的に違いない。
「塩コショウした?」
「オーケー」
「バター敷いた?」
「うし」
「強火で一気に、でも少しも焦がさないようにね」
「分かってる、任せろ」
包丁を持った手を軽快に動かしながら的確に俺に指示を出す様は、何というか、さすがの一言だった。
「そろそろ玉ねぎと人参、行くわよ」
「よっしゃ、来い」
誰かと一緒に並んで料理をするのは初めてだったけれど、これはこれでなかなかに楽しいかもしれないと、そう思った。
光の下を歩くとき 四話
メインのホワイトシチューに、それを煮込む間に作った簡単なサラダ。今日の主食となるフランスパンは、適当な大きさに切ってからレンジで温めておいた。
小皿に取ったシチューを渚と汐に上げて、りんを鳴らす。久しぶりに手作りのものを上げてやることができて、少し嬉しかった。
目を閉じて、手を合わせる。
ほとんど杏が作ったようなものだから、そのシチューちゃんと美味いぞ、安心しろよ。
祈り終わって目を開けると、こっちを見ていた杏と目が合った。
「じゃ、食べましょうか」
「だな」
机に戻り、二人揃っていただきますと挨拶をする。
シチューを一口。煮込み具合を見るために何度も味見をしたから、口にする前から味はもう分かっていた。美味い、なんてわざわざ声に出すのはわざとらしいだろうが、渚と汐に報告した通り、それはきちんと美味かった。
「でも意外。あんた、結構ちゃんと料理できるじゃない」
「まあな。これでも練習してるんだ」
「ふーん」 と、感心したように杏は漏らした。
汐のためにがんばった経験が、今でも随分と大きく影響していた。が、口にすることでもないので、そのことには特に触れないでおく。
今朝のこともある。渚や汐のことを話題に出すのはなるべく避けたかった。
「でもその割には冷蔵庫空だし。あんたも、もっと料理すればいいのに。そっちが健康にもいいし、経済的だし」
「そりゃあ、言われなくても分かってるけどな。でもお前、仕事終わって家帰って、八時過ぎ。それから飯作るのは結構辛いぞ?」
「まぁ、確かにそれはね」
「だろ?」
それに、と俺は思った。
自分のためだけに飯を作ることほど味気ないものはないから。
九時前には片付けまでを終えて一段落つくことができた。
このまま落ち着いてしまいたいところだったが、あまり遅くまで居座らせるわけにもいかないだろう。俺は切り出した。
「お前、そろそろ帰った方が良くねーか?」
朝の時とは違い、気まずい空気にあるわけでもなかったので、そんな直な言葉を選んだ。
「なーに? 食べるだけ食べたらすぐポイ、なわけ?」
楽しそうに言う。
が。
「お前、絶対その台詞外で言うなよ」
「は? あんた何言っ」 一瞬詰まった後、すぐに顔を真っ赤にして杏は言った。 「ち、ちがっ、そういう意味で言ったんじゃないわよっ」
「いや、分かってるけど」
自覚無しの言葉だからこそ、なお性質が悪かった。外でさっきのようなことを何の気なしに吹聴されたら、どうにも取り返しのつかないことになってしまう。
楽しげな様子で気づかない内に自爆する杏の姿がやけにリアルに想像できてしまい、俺はついため息を漏らした。
「あーもう、変なこと言わないでよ」
まだ赤い顔の治らないまま、杏が言った。
それに付き合っているといつまで経っても先に進まないので、本題に戻ることにする。
「で、そろそろ帰った方がいいんじゃないか?」
「ん、ま、そうね」
「家まで送る」
「ううん、いいわよ。まだそんなに遅いわけでもないしね」
「そうか? じゃ、下までな」
「うん。ありがと」
揃って立ち上がる。杏がバッグを持ったことを確認して、玄関を出る。歩くとカツカツと音の鳴る階段を下りていく。
アパート前には、申し訳程度に備え付けられた電灯がある。点滅こそしてはいなかったが、もう随分と弱くなっていることが一見して明らかだった。
「あんた、自分とこのぐらい、ちょいちょいって直しちゃえばいいじゃない」
頭上の光を見上げて杏が言った。
「無償でやる程、俺もお人好しじゃないからな。面倒だし」
「ふーん」
自分から振っておいて、そう興味のある事柄でも無かったらしい。返事は淡白だった。
何だかな、と俺は苦笑を隠せない。目の前のこいつは昔から実に自分本位なやつだ。
「ね」 呟くように杏は言った。
「ん?」
「また……」 と、そこで杏の言葉が止まった。
「また?」
「……あ、ううん、やっぱ何でもない」
「は? 何だよそれ」
「いーの、気にしなくて」 微笑んで、杏は言った。 「じゃね、朋也。また今度」
気にしなくていいとは言われても、もちろんそういうわけにはいかなかった。けれど、帰るというのを引き止めるわけにもいかない。
「ああ、またな。気、つけろよ」
「うん、ありがと。おやすみ、朋也」
「おう、おやすみ」
杏は満足したように頷くと、背を向けて歩き出した。
最初の角を曲がるまでその背中を見送ってから、俺は部屋へと戻った。
寝るまでの間、ずっと、杏が何を言いかけたのかが気になっていた。
また、あの夢を見た。
布団の中に入ったままだった右手を顔の前に持って来る。
握る。開く。
また握る。また開く。
壊れた肩から続く手。一体俺はこの手で何を掴んで来たのだろうか。
思い返しても、浮かぶのは、掴みきれなかった大切なものばかりだった。
抱きしめたかった。そして謝りたかった。
幸せにしてやりたかったんだ。嘘じゃない。本当に、本気で、命をかけてそう思っていたんだ。
あいつらは、誰よりも幸せにならなきゃいけなかった。こんな俺が一人だけ残って、それであいつらは消えてしまって、そんなの、許されるはずがない――
布団から出て、渚と汐に手を合わせた。
とてもそんな気分ではないが、無理にでも飯を食わなければならない。これ以上芳野さんに心配をかけたくはなかった。
買っておいた味付海苔で茶碗一杯の飯を何とか消化する。美味いとも何とも思わなかった。食べている間中、どうしても昨日の朝食が思い出されて、それを振り払うのに苦労した。
もう一度渚と汐に手を合わせてから、俺は家を出た。
「ひどい顔してるな」
挨拶を交わした後、着替える俺に対して芳野さんの第一声はそれだった。
「そうすか?」
「ああ」
「ちゃんと朝飯は食って来たんすけどね」
「昨日は割とマシな顔してたんだがな」
今日と昨日との違い。それは分かりきっている。
でも、もちろん、口にするわけにはいかなかった。
「大丈夫っすから、行きましょう。昨日楽だった分、今日はきついんじゃないすか? ただでさえ週末なんですし」
「ああ、確かに多少はな。まぁそう大したことでも無いが」
「じゃあ先行ってエンジン温めときます」
壁にかかった車の鍵を取って、事務所を出た。
車に入り、エンジンをかける。振動が伝わる中、俺の頭はぐちゃぐちゃだった。
今日と昨日とで違いがあるとすれば、それは、杏の存在としか考えられない。
あいつがいると「マシな顔」になって、いないと「ひどい顔」になる。多少の自覚はあった。杏がいる時は自然に普段より楽な気持ちでいられる自分に気づいていた。
結局、誰かに頼らないと生きていけないのか。迷惑をかけながらでないと生きていけないのか。
「岡崎」 と、声がかかった。
「あ、はい」
「俺が運転する。席、空けろ」
「え、いや、俺やりますよ」
昨日、一昨日と芳野さんに運転してもらっていたから、今日は俺がやるつもりだった。
「今のお前に、命を預ける気にはならないな」
芳野さんの言葉は辛辣だった。が、その判断はきっと正しいのだろう。
俺は一度車から降りて、改めて助手席側に回った。
「すいません、俺……」
何を言えばいいのか分からなかった。
ただ、一人でごちゃごちゃ考え込んで、それで芳野さんに迷惑をかけて、役に立たなくて、そんな何の価値もない、何の意味もない自分が悔しかった。
歯痒かった。
悲しかった。
「岡崎」
「……はい」
「具合が悪い奴がいれば、それを他の誰かがフォローするのは当然のことだ。感謝するなとは言わんが、あまり重く考えるな」
「でも、俺、本当に足引っ張ってばっかで」
芳野さんの言葉が、嬉しかった。不器用だけど、俺を慰めてくれようとする気持ちが直に伝わってきた。だから、弱音なんて吐きたくなかったのに、つい甘えてしまった。
そんな俺に、
芳野さんは。
「足ぐらい、引っ張らせてやるさ」
と。
そんなことを言うのだ。
「なあ、岡崎」
「……はい」
芳野さんは、にやりと笑って。
「たかだかお前に引っ張られたぐらいで倒れてしまう程、俺はヤワな生き方をしてきちゃいない。そうだろう?」
言葉にならなかった。
こんな人に、俺は見守られている。そばにいてくれている。
それの何て心強いことか。
嬉しいことか。
温かいことか――
「さあ、仕事だ。岡崎」
「はい」
「とりあえず今は、何も考えなくていい。働け」
そう言う芳野さんに、はい、としっかり返事ができた自信は無かった。
だってそれはいつか聞いた言葉だったから。どん底にいた俺を救ってくれた言葉だったから。
だから、もうしばらく。もうしばらくの間は。
この人に、迷惑をかけさせてもらおう。
そう、思った。
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