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 働けという芳野さんの言葉通り、一日、何も考えずに働いた。
 朝起きた時から感じていた言いようのない無力感は、体を動かす間に少しずつ薄れていくようだった。確かに今自分が何かをやっている、という実感があった。
 週末ということで普段よりノルマが多かったことも、今日の俺にはプラスの方向に働いていたかもしれない。全てを終えて事務所に戻った時にはもう九時に近かったが、倦怠感は少なかった。
「飲みに行かないか?」
 と、着替えながら芳野さんは提案した。
 つい一昨日に全く同じ形の誘いを断っていたこともあった。久しぶりに明日明後日と続けて休めることもあった。そして何より、今日の朝のことがあった。
 いつもなら断るはずのその誘いを、だから、俺は有り難く受け取ることにした。
「いいっすね。付き合わせてください」
「よし、じゃあ行くか」
 頷く芳野さんが少し嬉しそうに見えたのは、多分気のせいではなかっただろう。
「奢りすか?」
「馬鹿野郎」 芳野さんは、ニヤリと笑って。 「そんな金があるなら、一人で二倍飲むさ」
「うわ、ひでえ」
「何言ってるんだ。ほら、行くぞ」
「ういっーす」
 そうやって芳野さんと軽口を言い合いながら、俺は久しぶりにいい気分で事務所を後にした。










光の下を歩くとき   五話













「で」 と、俺は言った。
「何よ」 と、杏は言った。
「何か最近よく会うな」
「確かに、ね。ま、そんなこともあるんじゃない?」
「みたいだな」
 芳野さんに連れられて来た屋台。隅の方に、どう見ても杏としか思えないぐらいに杏と同じ髪をした女性の姿があった。丁度隣に二つ空席があったので近づいていくと、やはり案の定、藤林杏その人だった。
「またお会いしましたね」
 そう声をかけたのは俺の右手側に座った芳野さんだった。俺を間に挟んでの言葉になる。俺を杏の右隣に座らせて、その更に右隣に芳野さんは位置取っていた。
 杏は既にほんのりと赤く染まった顔を芳野さんの方に向けた。
「あ、その節はどうも」
 少し恥ずかしそうに、そんな形式張った返事をする杏。その様子が俺には何ともおかしかった。
 くく、と声を押し殺して笑うと、杏が鋭い視線を浴びせてきた。
「何よ」
「いや、お前でもそんな言葉使うんだなぁ、と」
「あんたね、あたしを何だと思ってんのよ」
「言っていいのか?」
「答えによっては血を見ることになるでしょうけど、それでも言いたければ」
「こわっ」
 いつも通りの軽い会話。高校の頃から何の遠慮もなく楽に話せる相手だったから、こうやって会うと今でもすぐにジャブを打ち合うことになった。
 ふふ、という笑い声が聞こえて、俺と杏は揃って声の主であろう芳野さんの方に目を向ける。
 芳野さんは、目を細めて楽しそうに言った。
「仲、いいんだな」
 そんなど真ん中な言葉に、一瞬、止まってしまう。恐らくそれは正しい意見だったけれど、素直に認めるのも気恥ずかしかった。
「そらもう、犬と猿も驚く程に」
 俺の返事に、少しむっとした杏の声が続く。
「そしてあんたは馬と鹿の混合物ね」
「んだとこら」
「芳野さん大変でしょう? 馬と鹿の世話って」
「そうだな。だが、だからこそやり甲斐はある」
「へえ」 納得したように何度か頷いてから、杏は改めて俺に視線を向ける。 「だって、朋也」
「てめ、このやろ」
 杏の視線を受け止め、ぐっと睨み付ける。が、彼女はすぐにするするっと抜け出した。
「ん、何? あたしは馬と鹿の飼育について芳野さんに意見を求めただけなんだけど」
 いけしゃあしゃあとそう抜かす杏を、更に強く睨む。
「……お前いつか泣かす」
「うわあ、か弱い女の子に向かってひどぉい」
「はっ。女の子って年かっての」
 む、と今度は杏が俺を睨みつける。俺はそれをかわすために芳野さんに声をかけようとする。
 と、右に視線をやると、芳野さんが腹を抱えて俯いているのに気づいた。その肩がぷるぷると小刻みに震えている。
「よ、芳野さん?」
「だ、大丈夫ですか?」
「い、いや、大丈夫。くくっ。平気、平気だ。くく、くくくっ」
 くく、という声が漏れるように聞こえた。
 つまり。
「笑ってる……みたいだな」
「何かツボに入っちゃったのかしら」
「くくっ、お前ら最高だ」
 それからしばらくの間、芳野さんの笑いは止まらなかった。



 杏のペースは相変わらず速かった。酒をゆっくり楽しむ、という考えが無いのかもしれない。例えあったとしても、こいつにはそんな飲み方は似合わない気もした。
「ともやー、あんたねぇー、ちゃんとのんでるのぉー?」
「飲んでる飲んでる」
「へへぇ、ならゆるしてあげるぅー」
 一昨日と同じく、酔うと甘えるようになる杏。椅子を俺の方に寄せているらしい。確実に、ここに来た時よりも距離が近かった。
「あー鬱陶しい。離れろ離れろ」
 いくら腐れ縁の杏だとはいえ、整った容姿の女性には違いないから、近づかれるのは正直そう悪い気分ではなかった。が、他人に、特に芳野さんに見られる状況でそれを許す程、俺は豪胆な性格をしていない。
「ぶぅー。あによぉー、そんなにあたしがきらいなのぉー?」
「んなこと言ってねーだろ」
「じゃあすきぃー?」
「どうだかな」
「ぶぅー。けちー、ともやのけちー」
 芳野さんはそんな俺たちを見ながら楽しそうに笑っている。
 今日飲んでいる間中、芳野さんはそうやって笑い続けていた。笑い上戸の素質もあったのかもしれないが、原因の大半は俺と杏の会話だろう。俺が昨日までに見た芳野さんの笑う姿を全部足し合わせても、今日一日の分には、恐らく、及ばない。
「くく、愛されてるな、岡崎」
「勘弁してくださいよ」
 楽しい酒であることに違いは無かった。でも、それ以上に疲れる酒でもあった。
 芳野さんだけでなく、他の周囲からのにやにやとした視線も、なかなか無視できるものではなかった。冷たい目で見られるよりはまだ随分とマシではあったけれど。
 相変わらず纏わりついてくる杏を適当にあやしながら、ふと、普段こいつはどういう風に飲んでいるのか、と不安になった。特に今日のように外で飲んだ際が心配だった。誰彼構わず絡むようなことはさすがに無いと思いたい。
「岡崎」 と、不意に芳野さんから声がかかった。
「はい」
「たまには、こうやって誰かと飲む酒も悪くないだろう?」
 芳野さんの誘いをいつも断っていたことを差してのことだろう。今もこうやって気にかけてくれる芳野さんに、申し訳なさと、それ以上の感謝を思う。
「はい。一人で飲むより、ずっと楽しいっす」
 芳野さんがにやりと笑って、俺も照れくささを隠して、同じように笑った。



 日が変わるのを合図にしたような形で、今日の飲みはお開きとなった。
 酒量や酔いの具合、時間からいくと、本当は一軒ぐらい梯子したいところだった。が、隣で眠る杏をそれに連れて行くわけにもいかない。先日のことといい、どうも酔うとすぐ眠ってしまうタイプのようだ。
「藤林さんの家は分かってるのか?」
「こいつの妹の方とも知り合いなんで、そいつに聞いてみます。駄目だったら、こいつ叩き起こすまでですし。まぁそう遠くは無いみたいなんで、何とでもなりますから」
 一度眠った杏をこちらから起こすなんてことは、出来るだけ避けたい手段だったけれど。
「そうか。じゃあ、後は任せるな」
「うっす」
 屋台を出て行く芳野さんを見送ってから、俺も店主に一声かけて暖簾の外へと出る。携帯を取り出し、もういつ以来になるかも分からない相手の名前を引っ張り出した。
 藤林椋。
 看護師になった彼女。結婚して子どもを儲けてから一時休職していたが、最近また勤め始めたと聞いている。見事なまでに旦那を尻に敷いていると杏は笑いながら話していたが、高校の時の藤林しか知らない俺に、彼女のそんな姿を想像するのはなかなか難しいことだった。
 通話ボタンを押す。四回目のコールで彼女が出た。
『もしもし』
「こんな時間に悪い、俺、岡崎だけどよ。久しぶり」
『はい。お久しぶりですね』
 杏とはまるで正反対に、穏やかで優しい声だった。俺の知る頃から全く変わらない。
「元気か?」
『はい。岡崎くんも、お元気なようで』
「ああ、さんきゅ。えーと、あんな、何か偶然杏と会って飲んでたんだけど、杏の奴、潰れやがって」
『あはは、お姉ちゃん、自分で思ってる程お酒強くないですからね』
 一昨日といい、今日といい、やはりそういうことらしい。
「みたいだな。一人がんがん飲んで、勝手に寝ちまいやがった」
『ごめんなさい、お姉ちゃんが迷惑かけて』
 もう随分と会っていないというのに、電話の向こう、苦笑いを浮かべる藤林の姿が実にリアルに想像できた。酔ったこいつの世話にも慣れているのかもしれない。
 酔い潰れた姉を、やれやれなんて口にしながら介抱する妹。そんな様子を思い浮かべて、俺は笑いを堪えきれなかった。
『岡崎くん?』 と、一人笑う俺に藤林の声がかかる。
「あ、ああ、いやまあそれはいいんだけどよ。こいつの家、教えてもらえないか? 送ってくからさ」
『はい。えーと――』
 藤林から杏の家を教わる。
 仕事柄毎日この町を駆けずり回っているから、この辺りの地理には詳しい自信があった。教わった場所は、ここから歩いてだいたい十二、三分というところか。遠ければタクシーを使うつもりだったが、その程度なら酔い醒ましを兼ねてこいつを背負って歩くのも悪くはないだろう。
「ありがとな。じゃあこいつは責任持って、ちゃんと家まで送るから」
『はい、ありがとうございます。でも』 藤林は弾むような口調で加えた。 『わざわざそんな面倒なことしなくても、岡崎くんの家に連れて帰ればいいんじゃないですか?』
「勘弁してくれよ」
『女の子がそういう隙を見せるのは、相手に心を許してる証拠ですよ。特にお姉ちゃんの場合は』
 そう言う藤林の口からは、くすくすと楽しそうな笑い声が漏れている。
 俺はため息をついた。藤林って、こんな奴だったか?
「女の子って年でもないだろ」
 杏に言ったことを同じ日に藤林にも言うことになるとは思わなかった。さすが双子、とよく自分でも分からない納得。
『酷いですね、岡崎くん。女の子はいつまで経っても女の子なんですよ? 大切にしてくれないと、すぐに壊れちゃいます』
「お前、ちょっと変わったよな」
 変わらず楽しそうな、からかうような藤林の言葉に、俺は正直な感想を漏らした。
『変わったというよりは、素の自分を出せるようになったのかもしれません』
「それを、変わったって言うんだろ」
『ですか?』
「多分な」
 俺は変わらないな、と思った。
 あの頃から少しも。
 自分が成長したようには思えなかったから。
『岡崎くんは、相変わらずちょっとかっこいいですね』
 だから、その一言に、ドキっとした。
「ちょっと、ね」
『全部かっこいいよりも、そっちの方が素敵ですよ』
「そうなのか?」
『はい。何となく、安心しました』
「そうか」
 藤林の言うことはよく分からなかったけれど、頷いておいた。
 彼女は、また楽しそうな口調で。
『私と不倫でもしませんか?』
 いきなりの、あまりに予想外な言葉。
 一瞬、俺の時間が止まった。
 今言われたことを咀嚼して、返事をする前に、藤林の方から声がかかった。
『あれ、もしかして本気にしましたか?』
「勘弁してくれ」
『残念。振られちゃいましたね。でも、その気になったら、いつでも言ってくださいね』
 はぁ、とため息をついた。
 十年と経たない間に、随分と差をつけられたものだった。今の藤林には全く敵う気がしなかった。杏どころの話ではない。どう考えても、姉以上に敵に回したくない相手だった。
 あの藤林がこんなに人を手玉に取るような女性になるなんて、あの頃誰に想像できただろうか。「見事なまでに旦那を尻に敷いている」という杏の言葉を思い出した。今なら一も二もなく頷くことができる。
『ふふ。それじゃあ、お姉ちゃんのことよろしくお願いしますね』
「オーケー。責任持って、杏の家に、きちんと、送る。それから、俺は、自分の家に、帰る」
 一言一言ぶちぶちと区切って、分かりやすく説明してやった。
『残念です。岡崎くんが私のお義兄ちゃんになってくれたら、私結構嬉しいんですけどね。それじゃあ、おやすみなさい』
 最後にまた一つ爆弾を落として、藤林はさっさと通話を切ってしまった。
 ツーツーという機械音相手に文句を言うわけにもいかず、俺はまたため息をついてから、眠り姫を迎えるために屋台へと戻った。




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