[PR]DoCoMopKI:^畚盆愾悦








 軽く声をかけてみたが、やはり杏はそう簡単に起きそうになかった。屋台の店主に手を貸してもらい、彼女を俺の背中に乗せる。
 杏は思っていたよりもずっと軽かった。普段の肉体労働を思えば、こいつを背負って歩くのぐらいどうとでもなるだろう。
 田舎という程田舎でもないが、決して都会でもないこの町。十二時を過ぎれば驚く程静かになる。一本向こうの通りを走る車の音が、時々響いては消えていった。
 ゆっくりと歩く道。申し訳程度にぽつんぽつんと設置された街灯は、つい二ヶ月程前に俺と芳野さんで点検した光だった。
 一歩足を出す毎に、杏のつけた仄かな香水を感じた。こいつもこんなのをつけるんだな、と意味もなく感心してみた。高校以来、何だかんだで、杏とはもう十年近い付き合いになる。あの頃想像していたよりも、杏はきちんと大人になっているようだった。
 ついさっきの電話を思い出す。こいつの妹、藤林椋。電話の向こうの彼女は、驚くぐらいに大人の女性だった。
 何となく取り残されたような気分になったのは、仕方の無いことだったと思う。あの頃の彼女たちは揃って大人になってしまった。俺はきっとそのずっと後ろの方を、一人、立っている。











光の下を歩くとき   六話













 ん、と耳元で声が聞こえた。
 背中でごそごそと動き出す彼女を落とさないよう、一度しっかりと持ち直す。
「ともやぁー?」
 耳のすぐ近くからの声は、かなりくすぐったかった。
「おう。起きたか」
「ともやぁー。ともやだぁー」
 言って、杏は俺にしがみ付く力をぎゅっと強める。
「おい、起きたなら自分で歩けよ」
「やぁー」
「やー、てお前な」
 ため息をつく。酔ったこいつは手がつけられない。普段とは違って邪気が無い分さらに質が悪い、なんて表現をすると怒られるだろうか。
「お前ん家、こっちでいいんだよな?」
「んー」
「全く。お前、俺がいなかったらどうしてたんだよ」
「あははっ、なに言ってるのよぉー。ともやは、ここにいるでしょー」
「いや、そういうことじゃなくて。……はぁ、もういい。このまま家まで送ってやるから、大人しく寝てろ」
「ねなーい」
 ぎゅっ、とまた強く抱きつかれる。諦めて、俺は歩くことに専念する。
 直に藤林に教わったマンションが見えてきた。この様子だと、最低でも玄関までは送ることになりそうだった。
「おい、あのマンションでいいんだよな?」
「んー」
「406号室だっけ?」
「んー」
 打てば響く返答。不安になって、違う質問をしてみる。
「50キロだっけ?」
「ぶぅー。ちーがーうー。そんなにおもくなーいー」
「いくつ?」
「よんじゅうろくー」
「なるほど」
 正否の判断はきちんと出来ているらしい。安心して、マンションの中に入る。
 一階の玄関には、いわゆるオートロックというやつがあった。俺にはどうしようもないので、杏に聞いてみる。
「おい、ここまででいいか?」
「やぁー」
「んじゃ、これ開けてくれ」
「かぎー」
「鍵?」
「ばっぐー」
 杏の持っていたバッグは、今俺が左腕に提げて持っていた。
「ほら、降りろ。バッグは俺が持ってるから」
「やぁー」
 はぁ、とため息をついて、俺は杏に言った。
「じゃあ左腕抜くから、しがみつけ」
「んー」
 俺に抱きついた腕に、ぎゅっ、と力が込められる。
 腰を曲げて杏が落ちないようにしてから、彼女を支えていた左腕を抜く。そのまま左腕を前に持っていって、杏の手にバッグを取らせる。
 俺が体勢を戻すと、杏はその中から鍵を取り出した。
「んー、これさしてー」
「分かった」
 杏から鍵を受け取る。自動ドア横の機械にその鍵を差し込むと、無事目の前のドアが開いた。
 エレベーターに乗り、四階のボタンを押す。
「女の一人暮らしなら、やっぱりオートロックは必須だよなぁ」
 一昔前は高級な建物にしか設置されていなかったオートロックも、最近では全く珍しくなくなった。俺のように男一人なら未だしも、若い女一人の生活に、俺の住むアパートのような防犯設備ゼロの住居は好ましくないだろう。
「ひとりぐらしぃー」
「ああ、一人暮らしだな」
 軽い浮遊感と共にエレベーターが停止する。開いたドアを通り抜け、背中の杏に聞く。
「右と左、どっちだ?」
「ひとりぐらしぃー、ひとりぐらしぃー」
「それはもういいって。ほら、どっちに行けばいいんだ?」
「あっちー」
 俺は杏の示した左の方に進んでいく。杏は俺の背中で一人暮らし一人暮らしと歌うように呟き続けている。
 ひとりぐらしーひとりぐらしー。
 404、5を通り過ぎ、406号室。アルファベットで藤林の文字。この部屋で間違いなさそうだった。
「ほら、着いたぞ」
「あけてー」
「いいのか?」
「んー」
 下でも使った鍵でドアを開ける。オレンジ色の柔らかい光が俺たちを迎えた。杏は玄関の電気をつけたまま出掛けているらしい。その気持ちを理解できるような気がした。誰もいない暗闇に一人帰ることの寂しさは俺もよく知っている。
 フローリングの上に敷かれたマット。そこに腰かけるようにして、背中の杏を下ろす。
「ほら、着いたぞ」
「んー。ありがとー」
「じゃ、行くから。ここで寝たりすんなよ」
「ぐー」
「おい、言ってるそばからっ」
「へへぇ、うそぉー」
「ったく」
 もう今日何度目かも分からないため息。これ以上酔ったこいつを相手にはしていられない。夜遅くに女の部屋に居続けるものでもないだろう。
 俺はドアノブに手をかけて、杏に声をかけた。
「それじゃ、今度こそ帰るな」
「……ね、ともや」
「ん?」
 振り返る俺に、杏はまるで独り言のような小さな声で言った。
「ひとりぐらしは、ちょっとさみしいね」
「……かもな」
 他にどういう言葉を返せばいいのかも分からず、俺はただそう言って頷いた。
「うん。おやすみ。ありがとね」
「ああ。おやすみ」
 玄関を出て、ドアを閉めた。エレベーターまで歩く。ボタンを押す。ドアが開いて、俺はその中に入る。
 ひとりぐらしは、ちょっとさみしいね。
 杏の言葉が胸にこたえていた。
 やるせないような、痛いような、そんな今の気持ちの正体を推測することは多分容易で、でも俺はそれに気づかない振りをした。














 目が覚めた。
 全身の気だるい感じ。夜中に杏を背負って歩いたことを思い出す。思った以上に身体にはこたえていたらしい。
 布団の中に入ったまま、枕元の携帯で時間を確認する。
 七時。せっかくの休みだというのにこんな時間に目が覚めてしまう自分が少し悔しかった。毎日の労働はこんなところでも俺に影響を与えている。
 手洗いに行き、そのまま冷蔵庫へ。冷えたお茶を容器から直接口にする。酔い醒めの、という程に昨日飲んでいたわけではなかったが、それでもやはり酒を飲んだ翌朝の水分は深く深く体内に染みこんでいくようだった。
 布団へと戻る。空気とお茶とで少し冷えた身体に、まだ温かさの残る布団は最高のパートナーだった。このまま泥のように眠ってしまおう、と考える。せっかくの二連休。一日ぐらいは惰眠を貪り過ごしたい。


 携帯の着信音。
 ――あれから僕たちは何かを信じて来れたのかな。
 俺が高校の頃にヒットした曲だった。あの頃の未来。望む望まぬに関わらず、確かに今俺たちはそこにいるのだろう。
「もしもし」 と、俺は電話に出る。寝起きではっきりと声が出なかった。
『あ、朋也、ごめん、寝てた?』
「杏か? あー、今何時?」
 一度起きて、その時はまだ七時だった。それから至福の二度寝に突入したのを覚えている。
『十一時。悪いわね、起こしちゃったみたいで』
「あー、いや、大丈夫。いい加減起きねーとな」
 思ったよりも大胆に眠ってしまったらしい。目が覚めるにつれて、空腹が襲ってきた。
『あのね、昨日のことだけど』
「ああ」
『またあたし、迷惑かけちゃったみたいで』
「まあ、気にすんな。でもお前、もうちょっと気つけて飲まないと危ないぞ?」
 あの酔っ払いモードを外で出すのは色々と危なっかしい。妙な男に連れて行かれても不思議はない。杏も容姿の整った女に違いはないんだから。
『うん。ありがと』 と、珍しく素直に杏は言った。 『でね、朋也』
「おう」
『昨日のお礼に、今日の夜、ご飯作ったげるから』
 まるで決定事項のように言う杏。
「いや、いいって」
『何でよ、いいじゃない』
 拗ねたようにそう口にする杏。厚意はありがたかったけれど、一昨日に朝夜と世話になったばかりだったから、杏の提案を受け取るのはどうしても躊躇われた。
『何よ、あんた今日の夜何か予定でもあるの?』
「それはねーけどよ」
『じゃあいいじゃない。決定ね。六時頃行くからよろしく』
「おい」
『じゃねー』
「おい、杏、ちょっと待」
 ツーツーツー。
 昨日の藤林といいこいつといい、藤林の双子姉妹にはこちらの返事を待たずに電話を切る癖があるらしい。
 ため息をついて、携帯を閉じる。
 飯を食ったら、軽く部屋を掃除しなければならない。








「お邪魔するわね」
「おう」
 宣言通りの六時に杏はやって来た。スーパーの袋を受け取り、台所へと持って行く。
「これ、かなり多くねーか?」
 袋を覗くと、そこには到底二人分とは思えないぐらいの食材があった。
「たくさん作って置いておけば、後でまたあんたが食べられるでしょ? コンビニの弁当よりよっぽど経済的で健康的よ」
「おっしゃる通りで。さんきゅ」
「ん」
 本当に、頭が上がらない。
 俺は袋から豚肉や魚、卵などを取り出して冷蔵庫に入れていく。その間にバッグを置いて薄いコートを脱いだ杏が、台所に入ってくる。
「で、どうする? もう、すぐに作っちゃう?」
「このために昼は軽くしたんだ。頼む」
「オッケ。待ってなさい、あまりの美味しさにあたしに平伏すぐらいの料理、作ったげるから」
 冗談でなく、現実にそうなってしまいそうで恐かった。
 俺は邪魔にならないよう、大人しく台所から出て行った。机の前に座り、つけっ放しだったテレビのチャンネルを適当に弄っていく。一巡した後に、音楽番組で固定。台所の方にも聞こえるように音量を大きくする。普段二十のところを二十八に。目盛がこれだけあれば、料理をしながらでもテレビの音は十分に聞こえることを経験から知っている。
「あ、この歌好き」 と、杏の声。
 最近よくテレビに出るようになった二人組の曲が流れている。
「マジか? 俺は、こいつらテレビに出始めてから何か個性が無くなったみたいで、どうも気に入らねーんだけどな」
「あーやだやだ。懐古主義なんて今時流行らないわよ」
「てめ、こいつらの初期の曲聴いたことあんのか?」
「う、それは、無いけど」
「いっぺん聴いてみろ。特に四枚目の――」


「正直美味かったです」 と、俺は言った。
 食後、俺は杏の前に平伏していた。
「よしよし。あたしの凄さが分かったみたいね」
 杏は機嫌が良さそうに、自然な笑みを顔に浮かべている。
「さて、朋也」
「はい、何でございましょう」
 平伏した体勢のままだったからか、自然とそんな言葉遣いになっていた。頭を上げ、平常通りにあぐらをかく。
「飲もっか」 と、杏は言った。
「マジか?」
「マジ。明日休みなんでしょ?」
「まあ、そうだけどよ」
 二日続けての酒は別に珍しいものでもないが、二日続けて同じ相手と飲むのは俺にとって随分と珍しいことだった。
「じゃあいいじゃない。それとも何、昨日のお酒がまだ残っててきついなんて、そんなヤワなこと言わないわよね?」
「バーカ、昨日誰がお前を運んだと思ってんだ」
「うん、だから飲むわよ」
 だからの使い方を間違えている気がした。が、そんなことを指摘したからといって杏が己の意見を曲げるはずもない。
「実は既におつまみも作ってあるのよね」
 その一言で、無駄な抵抗を止める決意ができた。
「オーケー。分かった。付き合おうじゃないか」
 わざわざつまみを作ってもらっておいて、それを無下にするわけにもいかない。喜んで飲ませていただくことにしよう。
 杏はにやと口元に笑みを浮かべる。
「それでこそ朋也。さ、飲むわよ」
 時刻はまだ八時を過ぎたところ。
 長い夜になりそうだな、と思った。




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