「蛍、見に行くわよ」
 何かそういうことになった。





  何十年前の蛍





「先週やっと免許取れたの」
 杏が言う。俺はそれを隣の座席で聞いている。
「教習所ってダメよね、ブレーキ踏めとか横確認しろとか。いちいちうるさいっての」
「いや、それ当たり前だから」
 俺は不安に襲われる。こんな奴に命を預けていいものか。
「ま、こうして何とか取れたからいいんだけど。さ、行くわよ」
「安全運転でお願いします」
「大丈夫。こう見えて保育士さんだから」
 答えになってなかった。

 十代の自分が何を考えていたのかなんてもうあまり思い出せないし、恥ずかしくて思い出したくもない。
 ただ、一つの事実として俺と杏はその頃恋人同士だった。そして、今は違う。
 何を理由として別れることになったのか、実のところ俺にはよく分からない。多分杏の方もそうじゃないかと思う。そもそも理由があったのかも疑わしい。
 若い頃なんてそんなもんだ、と二十代の俺は少し大人ぶって考えてみる。三十になる頃には同じことを二十代の俺に感じているのだろうけど。

「蛍って、どっか当てはあんのか?」
「ん? そんなのあるわけないじゃない」
「やっぱりか。ま、いいけど」
「とりあえずもっと田舎の方に行って、良さそうな川を探すわよ」
 実際に走り出してみると、杏の運転はそう下手というわけでもないようだった。ただ、やはり少々無茶を好むきらいがあって、赤信号に突っ込む度俺の心臓は高鳴った。人はこれを恋とは言わない。
「ね、最近仕事どう?」
 幾つ目かの赤信号を抜けて、杏が言った。
「普通。良くも悪くも普通」
「おもしろくないわね」
「じゃあお前はどうなんだよ」
「普通。良くも悪くも普通」
 今の似てた? 杏が聞く。
 似てない。俺は答える。
「二人とも何も無いんじゃ、何も無いじゃない」
 杏が言う。何となく言いたいことは分かった。
「別にいいだろ。起きて、働いて、帰って、寝て。たまに金使って遊んで。安定した毎日」
「そういうのもいいけど、もっと何かこう、何て言うか……ああもう! 言葉出てこないけど、分かりなさい!」
 俺を睨みつけるようにして言う。
「杏、運転運転。とりあえず前向け」
「ああ、忘れてた」
 忘れるな。思ったけれど、口にしたらまた睨まれそうだったので胸の中に収めることにする。


 三十分も車を走らせると、周りは田畑だらけになった。
 人工の光は自分たちの車とたまに通る対向車ぐらいのもので、あとのほとんどは暗闇の中にあった。
「そろそろいい感じじゃない?」
「かもな」
 車の速度を緩めて、蛍、もしくは蛍のいそうな川を探す。
 何だかんだ言いながら、こうなってみるとまるで子どものようにわくわくする自分を認める。
 自然と会話が少なくなった。車の中で話したからといって外への影響がそうあるはずもないが、何となく声を潜めたくなる。
 静かな空気の中で、車のエンジンと虫の声が聞こえる。周囲に音が無いと、そのどちらもが驚くほど響くものだと知る。
「ね」
 耳元でささやくようにして杏が言う。
「車、降りてみない?」
 面白い悪戯を思いついたように。
「そうするか」
 全くそんな必要はないのだけれど、音を立てないようにゆっくりと降りて、ドアを閉める。
 車のライトが消えると、後にはもう人工の光はない。暗闇と、月と、虫の音。俺たちの住む町から、全くの別世界にまで来てしまったような気さえする。
「これだけ水田があるんだから、すぐ近くに水路もあるはずよね」
「ああ。蛍も、いるかもな」
 お互い自然と潜めた声になる。
 どこへ向かうともなく歩く。足下を携帯の光で弱く照らして。
「ん、虫除け持ってくるんだった」
「馬鹿、そんぐらい我慢しろ」
「わ、分かってるわよ」
 蚊にたくさん刺されて、酷いことになってるんだと思う。帰ったら大変だろうなと思う。
 でもまあ、今はそんなこと考えなくていい。痒みも我慢できる。
「ね、朋也」
 横を歩く杏の声。
「手」
「手?」
「そう、手」
「手が、どうかしたのか?」
「手、出して」
「ん? こうでいいのか?」
 言われた通り、杏側にある右手を差し出す。
「ん、しばらく借りる」
 差し出した俺の右手に、杏の左手が重なる。
 少し汗ばんでいたけれど、俺はそれを言わない。多分殴られるだろうから。
「なんだ、手繋ぎたかったのか」
「足下見えないから、こけないようにね」
「そうか」
「うん」
 手なんて繋ぐのいつぶりだろう。俺は思う。
 付き合っていた頃、そうして歩くのは普通のことだった。最初はやけに恥ずかしくて、でもその内に慣れた。手から少し進んで、腕を組むのが杏のお気に入りだった。
 恋人同士でなくなってから、一月もしない内にまた二人で会うようになった。映画を見たり、食事をしたり。酒の勢いを借りる形で寝たのも、一度や二度ではない。
 でもその間、一度も手を繋ぐことはなかった。何故だろう。よく分からない。ただ改めて考えると不思議な気がした。多分誰から見ても付き合っているような関係の二人。久しぶりに繋ぐ手。
「あ、朋也、あれあれ」
「ん?」
「あそこ、何か光ってない?」
 杏の指差す先、確かに淡い光の点滅がいくつか見えた。
「行くか」
「もちろん。このために来たんだから。ほら、行くわよ」
 右手が引かれる。そうされるまでもなく、俺は杏の横をついていく。
 光に向かって歩く。暗闇と、月と、虫の音と、少し先に見える光。
 期待と、不安と、後少しの何かにどきどきする。一歩、一歩、光に近づく。
 足音を立てないように。息を潜めて。
「あ」
 突然、杏の声。
「今、動いた」
「ああ、どうも本物みたいだな」
「朋也うるさいっ、蛍逃げちゃうじゃない」
 杏の言葉に、何だかな、と苦笑する。夢中になるとそれのことしか考えられなくなるのは、俺の知ってるどの年の杏も変わらない。
 ゆっくり、ゆっくりと近づいていく。光はもう目の前にある。どちらともなく、足下を弱く照らしていた携帯を閉じた。
 と、光の内の一つが俺たちの方へ飛んでくる。
「わぁ」
「声出しちゃ駄目なんじゃないのか」
「う、うるさいわねぇ」
 くく、と笑って俺もそれを見やる。
 俺たちの頭上、円を描くようにして踊る光。
 つられるように、またいくつかの光が動き出す。
「すご」
 杏が息を呑む。
「ああ」
 一言、そう返すのがやっとだった。
 目の前の幻想的な風景に、俺もまた飲み込まれていた。
「綺麗」
「ああ」
「来て良かった」
「ああ」
「ちょっと、あんたさっきからああばっかり」
 少し怒ったように、拗ねたように言う。
「いや、結構普通に感動してて」
「そっか」
「ああ」
「あんた、またああって」
 くすくすと笑う。
 暗闇と、月と、虫の音と、目の前を飛び回るいくつもの光。
「ね」
「なんだ」
「これでさ、多分思い出すでしょ?」
「何を?」
「夏の度に、この風景」
「それは、そうかもな」
 忘れられないだろうな、と思う。
 暗闇と、月と、虫の音と、目の前を飛び回るいくつもの光と、それに――
「今あんたが何考えてるか、当ててみせようか?」
「できるもんなら」
「ずばりあたしのこと。違う?」
「いや、当たり。お前、どうやった?」
「別にー」
 淡い光に照らされた杏の顔が見える。
 初めて会った時から比べると少し大人びたようで、でも、つり気味で悪戯好きそうな目も、綺麗だけど手入れの大変そうな長い髪も、あの頃からそう変わってはいない。
「ね」
「ん?」
「蛍が見つかったら、言おうと思ってたんだけど」
「ああ」
「もっかい、恋人やらない?」
 暗闇と、月と、虫の音と、目の前を飛び回るいくつもの光と、隣にいる杏。
 選択肢も浮かばない。
「ああ。それも、いいかもな」
「でしょ」
 この時期に取立ての免許、目の前の蛍、繋がれた手。
 まるで最初から計算されていたように、ぴたりとはまる。
「お前さ、こういう所なら俺が断れないって踏んでただろ? 蛍を餌にして」
「ん、半分正解」
「半分?」
「うん」
「もう半分は?」
 にやり、と悪戯が成功した時のような、相変わらずの笑みを浮かべて。
「だって、こうすればお互い忘れられないでしょ? 今日のこと」
「だろうな」
「初心忘るべからず。これで今度こそ大丈夫ね、あたしたち」
「……まったく」
 お前には敵わない。心からそう思う。
「好きよ、朋也」
「ああ、俺も」
「うん、ずっと前から知ってる」
 杏が俺の腕に抱きつく。
 三十になっても四十になっても忘れずにいよう、そう思う。そう決めた。
 そして何十年前の蛍を杏と二人で思い出せたのなら、それはきっとすごく幸せなことで。
 俺は、それを強く願う。











 第三期第十回クラナドSS祭り お題『光』 出展。
 お世話になったクラ祭り三期もとうとうラスト。
 でも割とやっつけ。反省。
 最後はやっぱり杏さんだろってことで。微妙な二人の距離感を楽しんでいただければ。
 ラスト、本編杏のラストシーンとオーバーラップしたりすると幸せ。
 感想会では二票いただきました。ありがとうございます。



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