
その日、わたしはいわゆる「体験入学」のためにその高校を訪れたのだった。今年の三月まで兄と岡崎さんが通っていた学校。話によると、渚さんは病気による休学が影響して現在も生徒としてがんばっているということだった。
体育館での説明会を終え、構内の自由見学。地方から来たわたしには、もちろん連れ合いなんていなかった。渚さんに会えるかな、なんてことを考えながらぶらぶらと校舎内を見学する。
そして、出会ったのだ。
意図なんて無しに通った廊下。角から三つ目、何となく覗いてみた教室。合った視線。
そういったものを偶然というのか、それとも必然というのか、わたしにはよく分からないけれど。
第一印象はと聞かれたら、わたしは迷わずこう答える。
小動物、と。
何となく覗いた教室の隅の方。一人、席に座った女性。ぱっと目が合って、でもすぐに彼女は俯いてしまって、そろそろと顔が上がって、また目が合って。驚いたようにわたしを見つめる二つのくりくりとした瞳。
まるでリスみたいだ、とわたしは思った。
ぱちぱちと彼女の目が瞬く。どうしてか、わたしはそんな彼女から視線を外せなくなっていた。このままでも気まずいので、と、こんこんと教室の窓を叩いた。
その音にぴくん、と反応する彼女。わたしは窓に手を掛けてスライドさせてみる。鍵はかかっていなかったようで、がらがらと音を立てながら、すんなりとわたしと彼女の間のガラスはなくなった。
「部活動か何かですか?」 と、わたしは声をかけた。
ふるふる、と首を横に振る彼女。部活動というわけではないらしい。
「あの、ここで何をなさってるんですか?」
わたしの言葉に、彼女は一度視線を手許に下ろす。そうしてから、両手に持っている物をわたしに見えるよう差し出した。
彼女の手に握られていたのは、彫刻刀と、星型の木彫り。
「彫刻ですか?」
こくこく、と頷く。
「あ、美術の居残りとか?」
ふるふる。
「えーと、じゃあ……」
他の可能性を考えようとして。
突然の声に、思考がかき消された。
「わーーーーーっ!」
声の主は考えるまでもない、教室の中の彼女だった。
慌てたように立ち上がり、同じく慌てたように教室内をちょこまかと走り回る。奇声を上げながら。かなりのスピードで動いているのに、彼女が整列された机に一度も当たらないことにわたしは感心した。どうでもいいことだけれど。
と、不意に、彼女が立ち止まる。
わたしの方を見る。目が合う。
「わーーーーーっ!」
声を上げ、また、走り回る。
何だかなぁと思いながら、わたしはそれを見守っていた。普通に考えれば、目の前をちょこまかと動く彼女はかなりとてもすごく変な女性で、だからわたしは今すぐこの場を後にするべきなのだと思う。
でも、どうしてか。
わたしは、彼女に嫌悪感を抱かなかった。抱けなかった、というのが正解だったのかもしれない。
「あ、あのっ」 と、わたしは改めて声をかけた。
ぴた、と彼女の動きが止まる。
振り向き、わたしと目を合わせてから、彼女はおずおずと口を開いた。
「……ふ、風子のこと、見えるんですか?」
「はい?」 と、わたしは我ながら素っ頓狂な声。
「で、ですから」 確認するように、でも自信の無い様子で彼女は言う。「風子のこと、見えてるんですよね?」
わたしの頭の中を、いくつものはてなが飛び交う。見えているか、とはどういうことだろう。
まあ、もちろん、その質問に答えるのなら。
「はい、普通に見えてますけど……」
と、いうことになるのだけれど。
わたしの言葉に彼女は目を見開く。元からくりくりとした目が、更に大きく見える。
「ほ、ほんとですか?」
「はい。というか、質問の意味がよく分からないんですけど……」
「わわっ! 風子、復活しましたっ!」
わたしの疑問に答えることなく、彼女――恐らく「ふうこ」という名前なのだろう――は嬉しそうに言った。
復活?
わたしには、もう全くわけの分からない言葉だった。
招かれて、わたしも教室の中に入った。
「風子、伊吹風子っていいます。パワーアップして風子Zになってしまったかもしれません」
「え、えーと、わたしは春原芽衣です」
とりあえず自己紹介。名前の交換は出会いの基本だと思う。
「それでですね」 と、伊吹さんは言った。「芽衣さんは、風子のことが見えるんですよね? 風子、今ここにいますよね?」
さっきわたしが聞き返したことを考えるなら、これで三度目の質問だった。
「はい。今こうやって伊吹さんと会話してますから」
やっぱりどういうことなのかよく分からなかったけれど。でも、それだけ繰り返し確認するということは、彼女にとって何か意味があることなのだと思った。
「風子のことは、風子って呼んでください。今なら特別にふぅちゃんもオッケーです」
「あ、じゃあ風子さんって呼ばせてもらいますね」
この学校の制服を着た彼女は、もちろんこの高校の生徒なのだろう。ということは間違いなくわたしよりも年上のはずで、ふぅちゃん、だなんて呼び方はさすがにできなかった。正直な話、見た目はわたしと変わらないぐらいに見えるのだけれど。
「あの、風子さん」 わたしは問いかけてみることにした。
「はい、なんでしょう」
「どうして、わたしに風子さんのことが見えるかどうかなんて、確認したんですか?」
聞かずにはいられなかった。わたしにそんなことを聞いた理由。
私には、さっぱり事情が分からなかったから。
「それは……」 と、風子さんは言いづまる。
「えと、あの、もしかして言いにくいことですか?」
「……多分、話しても信じてもらえないと思います」
「へ?」
「だから、いいです。忘れてください。大切なのは、風子が復活して今ここにいるということです。風子Zです」
そう言う風子さんは、冗談を話しているようには見えなくて。
だからわたしは、頷くことしかできなかった。
「はい、あの、分からないけど、分かりました」
「ありがとうございます。芽衣さんはいい人です」
「そ、そんなことないです」
真正面から向けられた好意に、わたしは気恥ずかしさを覚えた。頬に熱を感じるのは決して気のせいではないだろう。
「そ、それで」 話を逸らすように、わたしは切り出した。「風子さんは、ここで彫刻をなさってたんですか?」
「はい。風子、この可愛いヒトデを――」 と、風子さんは手の中の彫刻を見つめる。
「ヒトデっ!?」
驚きの事実だった。わたしが星だと思っていたものは、夜空に輝くそれなどではなく、海底に張り付くヒトデだったらしい。
どうしてよりにもよってヒトデなのだろうか。少なくともわたしの常識でいえば可愛いものではないのだけれど。それとも、それが都会の常識なのだろうか。
そんなことを考えながら続きの言葉を待つわたしに、でも、声はかからなかった。
ほわっとした顔で右手に持った木彫りを見つめ続ける風子さん。その目はほんわかきらきらと輝いている。
目の前で手を振ってみても、一切の反応が無かった。
ああ、と思う。トリップって、こういうことを言うんだなぁ。
「――はっ。風子、ヒトデのあまりの可愛さに少しだけぼうっとしてました」
ようやく帰って来た風子さん。彼女の尺度では今のが「少しだけ」になるらしい。「たくさん」とか「ずっと」とかを見てみたい気もするし、見るのが恐い気もする。
「えーと、それで、風子さんはどうしてその」 わたしは少しだけ言葉にするのを躊躇ってから、口にする。「……ヒトデを作ってるんですか? 部活ではないんですよね?」
「はい。風子、部活動には所属していません」
風子さんは胸を張って言う。いや、別にそこ威張るところじゃないと思うんだけどな、わたし。
「じゃあ、趣味とかですか?」
「趣味といわれれば、確かに風子、これが趣味といえるのかもしれません。とても高尚な趣味です。町でアダルトと評判の風子にぴったりです」
ふんふんとすまし顔で頷く風子さん。アダルトってそういう時に使う言葉じゃないと思います。
「でも、目的もちゃんとあります。……芽衣さん、聞いてくれますか?」
上目遣いに、窺うようにして風子さんが訊ねる。
「あ、はい。それはもちろん」
「ありがとうございます。話すととても長くなるんですが」
その言葉にわたしは覚悟を固める。「少しだけ」のトリップがあの程度だったんだから、「とても長くなる」というそれがどれぐらいになるのか、わたしには想像もつかなかった。
覚悟完了。さあどんと来い!
「おねぇちゃんが結婚するので、このヒトデはそのお祝いなんですっ!」
「はい」
「つまりそういうことですっ!」
「へ?」
「おねぇちゃんもきっと喜んでくれますっ!」
――わたしの覚悟はまるっきり無駄だった!! 風子さん曰く長くなる話は、ものの十秒で終わってしまった!!
「えーと、あ、おめでとうございます。お姉さんは、いつご結婚を?」
気を取り直して、わたしはそう尋ねてみた。
「それが……」 と、風子さんは言いにくそうに。「まだ決まっていないんです。ごめんなさい」
それは誰に対する謝罪の言葉だったのだろう。
続けて、小さな、本当に小さな呟きが聞こえた。
“風子のせいで”
「え?」
「あのっ、芽衣さん」
わたしの疑問を打ち消すように風子さんから声がかかる。
「は、はい」
「おねぇちゃんが結婚するとき、結婚式に、来てくれませんか?」
「あ、はい。日取りを教えていただければ……」
「ホントですかっ! ありがとうございます。おねぇちゃんも、絶対に喜んでくれますっ!」
本当に嬉しそうに言う風子さん。
聞きたいことは他にもあったけれど。そんな風子さんの様子を見て、口をついて出たのは全然違う言葉だった。
「風子さん、お姉さんのことが大好きなんですね」
「はい。風子の、自慢のおねぇちゃんですからっ」
何だかすごくいいな、と思った。風子さんの、お姉さんに対する愛情がこちらにまで漏れて伝わってくるような気がした。
そういえば、おにいちゃんは今頃どうしているだろうか。ふと、そんなことを思う。きちんと、真面目に働いているだろうか。
「芽衣さん」
「はい?」
「これ、芽衣さんにプレゼントします」
そう言って風子さんが差し出したのは、今の今まで彫っていたのだろうヒトデ。手にはたくさんの切り傷。
「え、でも、これってお姉さんのために彫ってたものなんじゃ……」
「いいんです。おねぇちゃんのは、また作り直します。風子、これを芽衣さんに受け取って欲しいです」
「……はい、じゃあ貰っちゃいますね。ありがとうございます」
わたしは、風子さんの手からそのヒトデを受け取った。ずっと彼女の手の中にあったからか、それはほんのりと温かかった。
どのくらいの時間が経っただろう。
教室に掛けられた時計は止まっているらしく、でたらめな時間を指し示したまま動いていなかった。
そろそろ行かなければならない、とわたしは風子さんに伝える。
風子さんは寂しそうに、そうですか、と呟いた。
「あの、芽衣さん」 おずおずと、風子さんが口を開いた。「明日も、ここに来てくれますか?」
風子さんの目から見て取れるのは、たくさんの不安と、少しの期待。
少しの逡巡の後、わたしは返事をする。
「はい。明日以降はちょっと無理ですけど、明日までなら大丈夫です」
本当は、大丈夫なんかじゃなかったけれど。
今日はこの後古河家のお世話になって、そして日曜の明日には、岡崎さんと渚さんにこの町を色々と案内してもらうことになっていたけれど。
「明日は知り合いの人も連れて来ます。すごくいい人たちです。……いいですか?」
風子さんの期待を裏切ることが、わたしにはできなかったから。
「……はい。芽衣さんが一緒なら、多分、大丈夫です」
「楽しみにしててくださいね。絶対、すごく楽しいですよ」
「はいっ!」
こんな選択も、きっと、間違いじゃないと思えるから。
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