春が来る度に、足を向ける場所がある。
 特に何をするわけでもない。ただあたしはそこにしばらく立って、そして少しだけ昔のことを思い出す。
 涙は、流れない。もうそれだけの時間が過ぎてしまった。
 それが果たして幸せなことなのかそれとも悲しいことなのか、今のあたしには判断がつかない。
「ねぇ、あんたはさ、どう思う?」
――にゃぁ
 問いかけに、隣からは猫の鳴き声だけが聞こえた。







   『輝く時間を抱きしめて』







 始まりは、唐突だった。そして、終わりも。





 桜の咲き乱れるこの季節。晴れた日曜の午後は、理屈抜きに気持ちがいい。
 こんな日は、いつも学校に足を向ける。正確には、校門から校舎まで続く長い坂道が目的地。

「まさか、あんな奴を好きになっちゃうなんてねぇ……」
 いつもこの時期になると訪れるこの場所で、いつもこの時期になると考えることを今年も同じように考える自分に、少し苦笑する。
 この場所に来ると、自然と思い出すことがある。それは、唐突に始まって、そして唐突に終わった一つの恋。
 もしかすると、思い出すために足を運んでいるのかもしれない。そんなことを、ふと思う。
 思い出すことが幸せなのか。それとも忘れてしまうことの方が幸せなのか。自然と浮かぶ疑問に、敢えて、答えを考えない。
 もう少し時間が経てば、あるいは、答えを出す日が来るのかもしれない。
 ただ、少なくとも今あたしは、それを望んではいない。
 どちらが答えだとしても、きっとあたしは泣きたくなるだろうから。






 その昔友人から借りた漫画によると、恋はいつだって唐突なものであるらしい。
 なるほど、確かにその通り。あたしの恋は唐突に始まり、そして、唐突に終わったのだから。

 まだ学生だったある日。桜の綺麗な時期だった。
 いつものように長い坂道を下るあたしの横には、いつの間にか一人の男性の姿。ちょうど、その頃気になっていた男性に声をかけていたところだったので、その存在は邪魔以外の何物でもなかった。
「……あんた、だれよ」
 青年と呼ぶにはまだ随分と幼く、少年と呼んで差し障りのないような男の子だった。
 見知った顔ではない。もしかすると何処かで会ったことがあるのかも知れないが、少なくとも知り合いと呼べるほどではなかった。
「ああ、やっと気づいてもらえた。僕、志麻賀津紀。見覚えあるでしょ。昔、お世話になったの。覚えてる?」
「……見覚えもないし、世話した覚えもない」
「あ、そ。じゃ、どっかで話そうよ」
「……あんたね」
「何?」
「あんたのナンパのおかげで……勘違いされちゃったじゃないのぉーーーっっ!」

 出会いは唐突で、そして最悪のものだった。






「……さん? なぁ、美佐枝さんってば。おーい」
――にゃっ、にゃっ
 呼びかけられていることに気づいて、あたしは、遠くにやっていた意識を呼び戻した。
「……あんた、だれよ」
 隣の猫、その更に隣に、青年と呼ぶにはまだ少しだけ若く、けれど少年ともつかない男がいた。
 見知った顔。いつの頃からか年上のあたしになついてきた、知る限り2人目の変わり者、岡崎だった。
「ああ、やっと気づいた。つかな、美佐枝さん、『あんただれ』って、それは酷過ぎないか?」
「さぁねぇ。どうなのかしら」
「俺、すごいショックだったんだけど」
「そんなことあたしゃ知らないわ。人が考え事してる時に話しかけてくる方が悪いのよ」
 何故あたしなんかに構うのかは、分からない。
 最初は思春期故の気まぐれだと思ったが、こうして1年近くもつき纏うところを見ると、どうやらそうではないらしい。ますます、あたしには分からない。
「考え事って、昔の彼のこと?」
「さぁ、どうかしら」
 ただ、少なくともこうしてこいつと話している時間が、あたしは嫌いではなかった。
「相変わらず、そのことは何も教えてくれないんだな」
「当たり前じゃない。どうして女が自分の振られた経験なんかを嬉々として語るっていうのよ」
「何も嬉々として語れとは言ってないだろ?」
「じゃあ涙ながらに語れとでも言うの? それこそ絶対嫌よ」
「はぁ……なぁ、どう言えば教えてくれる?」
 昔の男のことを知りたがるこいつが、それでも不快ではない。多分あたしは、こいつのことを気に入っているのだろう。
「どう言えば諦めてくれる?」
 それでも教えないあたしは、きっと意地が悪いのだろうが、でも、教える気にならないのは本当のことだった。
「さぁ、どうかな。それは俺が美佐枝さんのことを好きじゃなくなるってことだから」
「じゃあ早くそうして頂戴」
「……美佐枝さんさぁ、そんなに俺のこと嫌いか?」
「そんなこと言ってないじゃない。ただ」
「『あんたにはもっと輝いてる子が似合う』だろ? もう何回も聞いたよ」
「分かってるなら、あんた、もっと有意義に時間を使いなさい。せっかくの日曜でしょ」
「仕事が無い日に、美佐枝さんとこうやって桜を眺める。これ以上有意義な時間、どこにあるってんだ」
 こいつの時間は、まだ輝いている。だから。
「転がってるわよ、割とそこら中」
 確かに岡崎のことは嫌いではない。でも、多分これからもきっと、あたしはこの場所で「彼」のことを想うのだろう。そんなあたしとこいつが、うまくやっていけるはずはない。
 輝く時間は、あの時のまま。もう、止まってしまったのだから。
――なぅ
 いつの間にか少し離れた位置に移動していた猫。鳴き声は、どこか悲しげなものに聞こえた。







「それでは、願いごとを発表します」
「うん……」
「志麻くん」
 おかしな子だった。
 突然現れたかと思うと、「願いごとを言って」などとのたまう。人をからかっているのかとも思ったが、でも、彼という人間を知るうちに、そんな考えはどこかにいってしまった。
 彼は、あたしの願いごとを聞いて、そしてそれを叶えるためにやって来たのだという。
 冗談みたいな話。でも、そんな彼を、あたしは好きになった。それはやっぱり、まるで冗談みたいな話だけれど。
「ずっと、いつまでも……」
 彼がどうして急にあたしの前に現れたのか、分からない。どうしてあたしの願いごとを叶えようとしてくれるのか、分からない。
 でも、その時のあたしにとって、そんなことはどうでもよかった。
「あたしのことを好きでいてください」
 願いごと。人の気持ちを操ろうとすることなんて嫌いだけど、でも、それが、あたしの素直な気持ちだったから。
「……志麻くん? どうして泣いてるの?」
「ううん……」
 彼は、涙を流していた。ぽろぽろ、ぽろぽろと。
「本当に、放っておけない子ね……ほら、拭きなさいよ」
「うん……美佐枝さん……」
「ん?」
「本当に……本当にありがとう」

 それが、彼との最後。本当に唐突な、終わり。
 今でもあたしは、彼の涙と、そして「ありがとう」の意味が分からずにいる。







 猫が舞い落ちる桜の花びらを追いかける。たまに前足を上げてまだ空中にある花びらを触ろうとする。
 そんな様子をぼんやりと眺めていると、隣から再び声が聞こえた。
「なぁ、美佐枝さん、知ってる?」
「さぁねぇ、多分、知ってるんじゃない?」
「まだ何か言ってないんだけど」
「ここの桜、本当は切られるはずだった、とかじゃないの?」
「げっ、やっぱり知ってた。つーか、どうして俺が聞こうとしてたことが分かるんだよ」
「簡単なことよ。あたしもちょうど同じこと考えてたから。ただそれだけ」
「おっ、以心伝心ってやつ?」
「お断り」
 もしも、ここの桜がなくなっていたとしたら。果たしてあたしは何を思っていたのだろうか。
「美佐枝さん、智代、分かるだろ?」
「坂上さん、だっけ? 一度あたしのとこ来たことあったわねぇ。確かあんたもいたでしょ?」
「ああ。あいつさ、がんばってたよ。桜、残そうって」
「ええ、知ってるわ。感謝しないと、ねぇ」
 あの時から変わらないこの風景。
 でも、もしかすると。変わってほしい、あたしは少しだけそんなことも思っているのかもしれない。
――なぅ
 狙っていた花びらにうまく前足を当てられなかったのが悲しかったのか、聞こえた鳴き声は弱々しかった。どうしてか、この猫は少し人間くさい。そんな気がした。


「美佐枝さんは、ここであいつを待ってるのか?」
「あいつって誰よ」
「例の男。シマくん、だっけ?」
 驚いた。
 どうして。どうしてこいつは、その名前を知っているのだろう。あたしには話した覚えなんてないのに。
「あんた、誰から聞いたの、そんなこと。こそこそと女の過去を探るなんて感心しないわよ」
「いや、その猫が、さ」
――にゃぁ
 まるで示し合わせたかのようなタイミングで猫が鳴いた。けれど、それにしても岡崎の言うことを信じる気になれるはずもなく。
「……春だものね。しょうがないか」
「嘘だと思ってるだろ?」
「当たり前じゃない。誰がそんなの信じるってのよ」
「……ま、信じてくれないならそれでもいいけど」
「何、もしかしてあんた、本気?」
「さぁな。正直自分でも信じられないようなことだから」
「……はぁ、そう言われると嫌でも気になっちゃうじゃない」
「そうだな。美佐枝さんが教えてくれたら、その時俺も詳しく教えるよ」
――うなぁ
 何が何だか分からないけれど。
 でも、何となく、嘘は言ってないような気がした。





 しばらく続く言葉のない時間。
 あたしは、ただ美しく咲き誇る桜をぼんやりと見ていた。何が気に入ったのか、岡崎はその間もずっと隣にいた。
 さっきまで少し離れた位置にいた猫が、あたしの足にその身を摺り寄せてくる。
 何となくそうしたくなって、あたしは、その子を抱いて胸元に寄せた。

 多分、あたしは岡崎の言う通り、この場所で待っているのだろう。
 あの時のように、彼がそこらからひょっこりと現れそうな気がして。
 でも、同時に、あたしの醒めた一部は、理解している。いくら待ったところで、彼が姿を見せることはないだろう。
 それでも、あたしは、この場所をなかなか離れられない。
 思い出にすがっているのかもしれなかった。


「美佐枝さんさ」
「何?」
「もしも今、願いが一つ叶うとしたら、どうする?」
 さっきの様子といい、こいつは、何かを知っているのかもしれない。そう思った。
「昔、それと同じ質問をしてきた奴がいたわ」
「その時は、何を願ったんだ?」
「さぁねぇ。恥ずかしくて教える気にもならないわ」
「恥ずかしいような願いごと、したんだな」
「あたしにだって、そんな時期もあったわよ」
「その願いは、叶った?」
「叶ってないんじゃない? もしも叶っていたのなら、あたしは今こうしていないはずだから」

 結局、あの「願いごと」は何だったのだろう。
 叶いもしない願い事なんて、あたしには必要なかった。ただあたしは、何でもない時間を一緒に過ごして、一緒に笑って、そうしたかっただけで。
 何がいけなかったのだろう。やはり、人の気持ちを少しでも操ろうとしたことが、いけなかったのだろうか。
 もうずっと、何度も繰り返して考えてきたこと。いくら考えても答えなんか出ないから、もう考えるのをやめようと思ったこと。
 昔は考えの度に落ち込んだ。涙も流れた。
 でも、もう涙は流れない。人の心を癒すものが時間だとすれば、もうきっとそれは十分に過ぎ去ってしまった。


――なぅ
 胸元から鳴き声。やはりどこか悲しげに聞こえる。
 そう感じるのは、あたしの気持ちがそうなっているからなのだろうか。
「あのさ、美佐枝さん。本当にその願いごとは、叶っていないのか?」
「はぁ……だから、もしも叶っていたなら、もっと違う風になってたって」
「こうは考えられないか。そいつはさ、多分、今でも精一杯願いごとを叶えてる最中なんだ」
「……あんた何言ってんの」
「くだらないと思えば、聞き流してくれればいい」
「さっきからあんた、さっぱり分からないわ」
「ああ、俺もそう思う」
 自分でも分からないなんて、本当にタチが悪い。
「……で、何だって?」
「美佐枝さんの知るそいつは、絶対に美佐枝さんを裏切るような、そんな奴じゃない。そうだろ?」
「まぁ、そうね」
「じゃあ、信じてやれよ。あいつは、きっと今でも、美佐枝さんのこと、好きなんだよ」
「……やっぱりあんた、何か知ってるでしょ?」
「さぁね。ただ」
 きっとこいつは、全部知っている。どうやったのかは分からないけれど、多分。そんな気がした。
「その猫が、そう言ってる気がしてさ」
――うなぁ
 冗談のようなその言葉が、今度は何故か冗談には聞こえなかった。


「岡崎、あんたさ、それってものすごく自分に不利な発言だって、気づいてるのかしら」
「ああ。それぐらい分かってる」
「はぁ……あんたも相当な馬鹿ねぇ。そこは『俺が忘れさせてやる』とでも言うもんよ、普通は」
「忘れられるのか?」
 少し考える。そして、考えるまでもなかったことに気づく。
「まぁ、無理でしょうねぇ」
「だろ? それにな、美佐枝さん」
「何?」
「まだ美佐枝さんが昔の彼のことを好きだとしても、俺は構わないよ。そいつと同じぐらいか、できればそれ以上に、俺のことも好きでいてくれれば」
「……あんた、正気? 自分以外の男を好きだっていう女と、やっていけるとでも思ってんの?」
「ああ、俺と美佐枝さんなら、きっと上手くいくさ」
「何を根拠にそんなこと」
「だって、俺は、その猫の気持ちが何となく分かるから」
「……あんた、話が全然繋がってないわよ」
「繋がってるさ、きっと」
「はぁ……さっきからあんたと話してると疲れるわ」
 ため息をつきながら、猫の背中を撫でる。猫は、いつの間にか気持ち良さそうに眠ってしまっていた。

 思えば、この猫とも、もう長い付き合いになる。
 この子からあたしのことを聞いた、そう岡崎は話していた。もしもそんなことが本当に可能だとしたら、なるほど、確かに適任だと思う。
 付き合ってきた時間の分だけ、この猫はあたしのことを知っているのだろうから。
 もしかすると、あたしよりもずっとあたしを知っているのかもしれない。

 あれから随分と長い時間が流れて。でも、これからもまたたくさんの時間は流れていくのだろう。
 そして、いつか、あの時よりももっと誰かを好きになることが、あたしにはできるのだろうか。
 そんなこと、今のあたしには分からないことだけれど。
 でも。
 もしも、唐突ではなく、ゆっくりと時間をかけて始まる恋があるのならば。
 ――あたしは、こいつみたいな奴を、好きになるのかもしれない。
 それはやっぱり、今のあたしにははっきりと分からないことだけれど。


「ねぇ、岡崎」
「何?」
「さっきの願いごとの話。今、叶うとしたらってやつ」
「ああ、それが?」
「それはさ、あんたが叶えてくれるって、そういうことなの?」
「……できる範囲ならな」
「そう。なら、とりあえず保留。有効期限はどのくらいなのかしら?」
「俺が美佐枝さんのこと、好きじゃなくなるまで、かな」
「だから、それはいつまでなのよ?」
 答えの予想は、ついていた。だから、きっと、あたしはそれを確かめたかったのだろう。
「多分、ずっとさ」



 空には、咲き誇る桜があって。
 腕の中には、何故かあたしになついた猫がいて。
 そして、隣には、ずっとあたしを好きでいるという、馬鹿みたいなこいつがいる。

 ――今というこの時間。もしかすると、少しは輝いているのかもしれない。

 ちょっとだけそんなことを考えて、あたしは、腕の中の猫をまた少し抱き寄せた。










 第三期第一回クラナドSS祭り お題『春』 出展。
 締め切りに間に合わずにMVP対象外となった問題作(笑
 実は、過去最短で書き上げたものでもあります。だというのにどうしてそんなことになったかと、単に締め切りを間違ったせいだったり(ぉ
 初の美佐枝さん。「春」と聞いてまず浮かんだのが、彼女の出会いと別れ。
 それ以外何も決めることなく、アドリブでハンドル切りました。お陰で序盤の伏線、回収できてません。だがしかし僕は謝らないっ!(笑
 ゲームの中で一番報われないキャラは彼女だと思ってますんで、いつか、もっとしっかりと書きたいなんて考える次第であります。筆力的にできるかできないかは別として。


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