[PR]Id:lCIw祝烱銑悦x





 ――ピピピピピピ……

「……う〜ん」

 ピピピピピピ……

「もうちょっと……」

 ピピピピピピ……

「後5分だけ……」

 ピピピピピピ……

「……」

 ピピピピピピ……

「ああ〜、もう。分かったわよ、起きる起きる起きるってば」

 いつまで経っても鳴り止まないアラームに、藤林杏はしぶしぶとその身を起こした。
 一人暮らしを始める際に実家から持ち込んだ自身のベッド。その上から降りて、多少ふらつきながらもテレビの横に置いてある騒音の元凶、目覚まし時計の上部をやや強引に叩く。ちなみに、その時計も実家から持ち込んだ物の一つだ。
 決して好きになれないその音が止まったことを確認すると、目をこすりながら時計を覗き込む。
 ――5時37分。アラームは5時半にかけていたはずだから、実に7分もの間不快な音と戦っていたことになる。言い方を変えるなら、ベッドから抜け出すまでに7分、420秒もの時間を要したということ。
 朝に強いわけではないが、弱いという程のことでもない。ただ、睡眠という行為自体が好きなため、例えば目覚まし時計が枕元にでもあろうものなら、それが鳴り出した瞬間に激しく叩いて音を止めた後壁に向かって投げ捨て、その挙句また眠るといったことになりかねない。従って、時間通りの起床のためには時計をベッドから離れた所に置いておく必要がある。
 ――と、彼女は自分に言い聞かせている。朝に弱いという性癖は、どうしてか認めがたいものらしい。

 彼女の朝は、多くの女性にとってそうであるように、まずシャワーを浴びることから始まる。
 軽く体と髪を洗い、就寝中にかいた汗を綺麗に流す。
 浴室を出る頃には眠気は完全になくなっていて、用意しておいたバスタオルで体と髪を拭きながら、さっぱりとした頭で一日の予定を確認する。実際のところ、毎日の予定はあまり変わらないのだけれど。
 タオルを体に巻きつけて浴室を後にすると、今度はたんすの一番下、下着の入った段を引き出して今日身に付けるものを選ぶ。誰かに見せる予定があるわけではもちろんないが、だからといって手を抜きたくはない。気持ちの問題だ。さらに、現実に起こる確率は非常に低いとはいえ、もしかしたら、という思いがないわけでもない。三十路越え独身女の意地だとも言える。
 5分程考えた挙句薄い青で上下をあわせることに決めた。次に私服を選ぶのだが、ここでも全く同じことが繰り返され、この日の着替えにかかった時間は約20分。昔、それこそ高校時代に比べれば格段に早いものの、世の男性からは時間の浪費ととられるかもしれない。

 朝食は基本的にパンが主食となる。和食が嫌いだということではなく、朝の早い保育士という仕事柄、比較的手のかかる和食は彼女の朝食にはあまり向かないのだ。朝彼女が作るのはせいぜいオムレツかスクランブルエッグぐらいの簡単なものだけである。
 彼女の勤める幼稚園は、保護者の負担を減らす目的もあって昼には給食が出る。これは彼女ら保育士にとっても非常にありがたいことで、毎朝弁当をこしらえる必要がないことは彼女たちの朝を随分と楽にする。だからこそ、朝食に手をかけてその恩恵を無駄にしたくないと彼女は考えているわけだが。

 ――そういえばあの頃は毎日弁当を作っていた。
 ボールに割った卵を小さめのフライパンに落としながら、そんなことをふと考える。「あの頃」というのは、もちろん高校時代のこと。
 何度か「あいつ」に食べさせてやった経験もある。それはとても乙女チックなものとは呼べないものだったけれど。

   ――杏、おまえその弁当美味そうな。
   ――ホントホント、僕にも分けてくんない?
   ――えっ!? あ、うん、あ、ありがと。あ、あんたから褒められるなんて今日は雷かしらね。
   ――いや、別にお前を褒めたわけじゃないからな。弁当を作ったお前の母親がすげぇって話で。
   ――そのカツがいいな。うん、すごく美味しそう。
   ――何言ってんのよ。これはあたしが作ったのよ、あたしが。
   ――いやお前冗談はよせよ。お前がこんな
   ――は!? ってことは見た目はそこそこ良くとも中味が伴わないまるで杏のようなぐわあっっ!!
   ――で、朋也、あんた何か言ったかしら?
   ――イエ、メッソウモゴザイマセン。
   ――そんなに意外かしら……
   ――……。
   ――……ん、そうね。いい? 明日あんたの分も作ってきたげるから、よ〜っく味わって改めてあたしを敬いなさい?
   ――エンリョシテオキマス。
   ――あんたもさ、空、飛びたい?
   ――イエ、キョウサマノオベントウヲイタダケルナンテキョウシュクノキワミデアリマス。


 どうしてもっとこう素直に「弁当作ってきてあげる」って言えなかったのかしら。
 昔を思い出しながらくすくすと笑う。そんな時間が最近増えてきていることに、彼女自身気づいていた。そしてその理由にも。
 今ならそんなの簡単に……やっぱり言えないわね。
 変わったようであまり変わらない自分に、もう一度くすくすと笑う。それは情けないようで、でも、もしかしたら少し嬉しいことなのかもしれなかった。

 その日のオムレツは、いつもより大分焦げていた。










「杏せ〜んせっ」
「あら、久しぶりね」

 ほとんどの子どものお迎えが来て随分と寂しくなった広場を掃除する杏に、後ろから不意にかかる声。
 振りかえると、そこには肩にかかるかかからないかぐらい、短めの髪をした可愛い女の子の姿があった。髪の左側を結ぶ白いリボンは、杏が聞いた話によると彼女を真似したものらしい。

「久しぶりって、3日前にも来たんだけど」
「男子3日会わざれば刮目せよ、って言うじゃない」
「あの、あたし一応女の子なんですけど……」
「ふふ、冗談よ、冗談」

 女の子の名前は、岡崎汐。元園児で、早いもので卒園してからもう7年にもなる。

「杏せんせったら、昔っからあたしのこと男扱いするからなあ」

 ため息とともに、頭を軽く左右に振る。困ったものだ、とでも言うかのように。

「だって人形遊びとか言いながら、手に持ってるのは無骨なロボットのおもちゃって、そりゃそれで女の子っていうのが嘘でしょ」
「う、そりゃあ、そうだけど……」

 砂場のあちこちに落ちている遊具を拾い集めながら、汐はしぶしぶと応えた。

「これ、いつもの場所でいいんだよね?」
「ええ、ありがとね」

 拾い集めた遊具を、広場の隅に設置された倉庫へと持っていく。倉庫の中を軽く整理してから遊具を改めてしまう。月に一度は杏に会うために園を訪れる汐にとって、その作業は既に慣れきったものだった。
 倉庫の扉を閉めて戻ってくると、杏が声をかけた。

「本当に、いつもありがとね」
「ううん。これぐらい、朝飯前です。……ん?『夕飯前』が正確かな?」
「……どうでもいいわ、そんなの」

 ため息を交えて、呆れたように。

「うわ、何その言い方、ひどぉ」
「事実を言ったまでよ」
「うわ、余計ひどい」
「で、今日はどうしたの? また朋也と喧嘩でもした?」
「うわ、スルーですかっ」
「そろそろ帰る支度でもしようかしら」
「わわ、ちょっと待って待って待って」
「冗談よ。まだそんな時間でもないし」
「うう……やっぱりひどい……」

 よよよ、と演技がかった仕草でゆっくりと地面に崩れ落ちる。
 スカートに砂がつくことを気にする様子の全くない汐に、杏は思う。女の子を自称するなら、もう少しそういうところにも気を配りなさいよ、と。もっとも、それを口に出したところでほとんど意味をなさないことは経験上十分過ぎるほど分かっていたので、思うだけにとどめておいたのだが。
 30秒程の後、立ち上がってようやくスカートについた砂の存在に気づく汐。それを半ば諦めたように眺めながら、杏が言った。

「で、本当にどうしたの? 今日は当番じゃないから比較的早く上がれるわよ」
「ホント? 丁度良かった。今日はせんせにお願いがあるんだ……」










「あのね、杏せんせは結婚とかしないのかなって」
「ぶっっ!! ちょっといきなり何言って…」

 朋也が仕事で帰らないからと言って杏の家に泊まることを懇願した(もちろん朋也の許可は取ってある)汐に、杏は特に迷うことなく了承の意を出した。
 そんな汐が突然切り出したのは、杏が食後の紅茶を口に含んだ正にその瞬間のこと。恐らくタイミングを図ったであろう彼女の言葉に、杏は恐らくは期待通りであろう反応を返さざるを得なかった。

「あは、せんせっ、汚いよ〜」
「あ、あんたが急に変なこと言い出すから」
「ん? あたし何か変なこと言ったかにゃ?」

 言って、汐は少しわざとらしく小首を傾げた。
 その言葉尻や仕草は、少なくとも杏の目には、彼女をからかっているようにしか見えない。

「……汐ちゃん、もしかして喧嘩売ってるの? いいわよ、買ってあげる、いくら? いくらがいいの?」

 少しの沈黙の後、肩頬の引きつった笑みを浮かべながら杏が聞く。
 その笑顔の意味が分かる程度の賢明さは携えている汐は、あわてて口を開いた。

「違うの違う違う違うの、あのね、ホントに純粋に、そう思ったの。杏せんせ、結婚しないのかなって」
「だから、それは行き遅れに対する挑戦としか思えないんだけど?」
「いや、だって、杏せんせなら、寄ってくる男の人なんていっぱいいるでしょ?」

 その言葉を聞いて、ふぅ、と小さくため息をつく杏に、汐は安堵感を覚えた。どうやら今回は見逃してもらえたらしい。

「あのね、さすがに男なら誰でもいいってわけじゃないのよ? これでも女としてのプライドはまだ持ち合わせてるの」

 言いながら杏は目の前のカップを口に運ぶ。紅茶は少し冷めてしまっていた。






「じゃ、さ。うちのパパとかは?」
「ぶっっ!!」

 汐の一言に、杏はもう一度紅茶をはくことになった。
 あわててティッシュを一掴み、口元を拭いながら、杏は言う。

「な、何言うのよっ!!」
「あれ? やっぱり図星? 最近休みの日にうちにいないと思ったら、やっぱり杏せんせと一緒にいたんだ」
「ちょ、ち、違うわよっ!!」
「ムキになって否定するところがかなり怪しいんだけどなぁ」
「だから違うって言ってるじゃない!!」
「ふ〜ん……」

 火の無いところにも煙は立つ。それは30年を越える人生経験上、分かっていた。しかし、今回は「火」が存在しないこともなかったのだから、とてつもなく分が悪かった。確かに、この前の日曜は朋也と二人で喫茶店に入ったのだ。
 もしかしたら見られていたのだろうか。そんなことを考えながら、杏は話を逸らすことにした。

「だ、だいたいそういう汐ちゃんの方こそどうなの? 今年で中学生でしょ? 好きな人の一人や二人ぐらい」
「いえいえ、あいにくあたしファザコンなもんで」
「ああ〜、そういえばそうだったわね、昔から」
「だからさ、心配なんだよね。杏せんせ、知ってた? パパ、お見合いとかの話、全部断ってるんだって」
「あ、うん、聞いたことはあるわ」
「なんだ、やっぱり知ってたんだ。何かずるいな」

 杏は日曜に、ついこの前もそういう話を断ってきた、と朋也から聞いたばかりだった。

「あたしも最近さ、公子さん、知ってるよね、芳野さんの奥さんでママの元恩師の人、から聞き出して知ったんだけど」
「うん」
「芳野さんも、そろそろ新しい愛がどうのこうのって言い聞かせようとしてるらしいんだけど、パパ、頑なに拒否して、お見合いとか、そういう話すら聞こうとしないって」

 杏には、朋也の気持ちが十分に理解できた。
 だからこそ同時に、少しだけ胸が痛んだ。

「俺には汐がいれば十分だって、そんな嬉しいこと言っちゃってくれてるらしいんだけど。でも……」
「でも?」
「パパね、たまに眠りながら泣いてるの。それ見たらあたしも何かすごく悲しくなっちゃって。やっぱり、パパ寂しいのかなって」

 うつむく汐に、かける言葉が見つからない。
 その朋也の様子を頭に描くと、何とも言えない切ない気持ちが湧き上がってきて、とても何かを言う気にはなれなかった。





「でもさ、何だかんだ言っても、見ず知らずの女の人にパパを取られるのはすご〜く嫌なわけ。すご〜くわがままだと思うんだけど」
「……それで、あたしと朋也をくっつけようって? なるほど? 今日ここに来たのはそういうわけだったのね?」
「うん、その通りなんですね、これが」

 悪びれることなく、むしろ清々しいまでにはっきりと言い切る汐に、杏は不思議と怒る気も呆れる気も起こらなかった。ただ、ああなるほどなと納得すると同時に、目の前の少女は朋也のことが本当に好きなんだなと羨ましさにも似た気持ちを抱いた。

「あたしもよく知ってるし、信頼できるし、好きだし。せんせになら、パパをちょこっとぐらい貸したげてもいいかなって思うのです」
「あくまで『ちょこっと貸す』なのね?」
「うん、だってパパ、あたしのだし」
「言うわね。ふふ……」
「あはは……」

 あくまで真剣に話し続ける汐がおかしくて、隠しきれない笑いがこぼれた。それは伝染したように汐にも伝わり、二人は、しばらくの間笑い合うこととなった。



「でもね、汐ちゃん、その計画には一つ重大な問題があると思うの」
「ん? 何?」
「当の本人同士の意思が抜けてるわ。どうしようもないぐらい大きな問題、ね」

 諭すように言う杏の姿は、確かに彼女が日頃からそのような立場にあることを実感させる。

「あは、それなら大丈夫。だってパパは口ではいつもあんなこと言ってるけど、絶対杏せんせのこと好きだし、杏せんせもパパのこと好きでしょ? 違う?」

 確信めいた言葉。
 杏は少し驚いたように動きを止めて、しばらくの後、応えた。

「……そうね、あいつの方はどうか知らないけど、少なくともあたしはあいつのこと嫌いじゃないわ、ううん、好きだと思う」
「あれ、すんなり認めるんだね?」
「でもね、単に『好き』って言っても、必ずしも汐ちゃんが思うようなものではないかもしれないわよ?」
「……『LOVE』じゃなくて『LIKE』ってこと?」
「……逆に聞くけど、その二つの違いって、いったい何?」

 杏の問いかけに、汐は右手を口元にやって考える素振りを見せた。

「え、と、愛情と友情ってことじゃ、ダメ?」
「そうね、一般的にはそういうことになってるみたいだけど、じゃあ、その二つの違いは?」

 少し考えて、「そう言われると、よく分かんなくなっちゃった」と汐はギブアップを宣言した。続けて、「答えを教えて」とせがむ。

「答えってわけじゃないけど、あたしが思うのはね、多分、友情と愛情に境目なんてホントは無くて。どこで区切れるわけでもないけど、どっちが上でも下でも無いけど、ただ、一つ言えるのはね。愛情って、友情よりも、もっともっと切ないものなんだろうなって、そう思うの」

 言葉を選ぶようにゆっくりと話す杏の目には、興味深そうに頷く汐の姿が映っていた。
 少し言葉は足りない気もするが、自分の考えは多分伝わっているだろう。目の前の少女の様子から、杏はそう考えた。

「え、と、つまり、杏せんせはパパのことが好きなんだけど、それは友情ではあっても愛情ではない、そういうこと?」
「そうね」

 カップを手に取り、残った紅茶をゆっくりと飲み切る。既にそれは大分ぬるくなってはいたが、それでも、温もりの跡は確かに感じられた。
 中味の空になったカップをテーブルに置いて、汐に向かって軽く微笑みながら、杏は言葉をつなげる。


「かれこれ15年以上続くちょっと切なめの友情……ってとこかしら」


 言うが早いか、立ち上がってカップを流しに持って行こうとする杏に、少しの間をもって汐が口を開いた。

「……ちょ、ちょっと待って、せんせ、それって……」
「話はあれでおしまい。ほら、もう寝るわよ。明日も早いんだから」
「ね、ちょっと、せんせってば」

 聞く耳持たずといった様子の杏に、汐は纏わりつくように質問を浴びせた。









   ――……お前マジで作って来たんだな。
   ――当たり前じゃない。ほら、よ〜っく味わいなさいよ?
   ――ね、ね、杏、僕の分、僕の分は?
   ――は? 何であたしがあんたなんかに弁当こしらえなきゃなんないのよ、バカじゃないの?
   ――てかお前邪魔な。うるさい。
   ――あんたらオニっすねぇ〜!!
   ――3秒以内にあたしの視界から消えなさい? いい? い〜……
   ――ひどっ、てか短っ!! 無理、無理だってば。
   ――……〜ち、さん。はい、ゲームオーバー。てことで死刑執行。
   ――ちょ、今、2が無かったよ、ねぇ、ちょ、うわっ、くそぉ、覚えてろよっ!!
   ――お前それ完璧悪役の台詞な。て、もういねぇか。
   ――で、朋也、あんたは早く食べてあたしにきっちり謝った上でしっかり敬いなさい?
   ――あ〜、分かった分かった。ありがたく頂かせてもらいます。
   ――ほら、早く……


 ベッドの隣に敷いた普段は使わない布団の中。昔のことを思い出して、杏は笑いを押さえきれずにくすくすと声を漏らした。
 いつも使っているベッドは、今日は汐に譲った。譲るというよりはむしろ強引に押し込む形になったのだが。
 思い出したのは、やはり「あいつ」。自分の料理の腕を認めさせるために、「あいつ」に弁当を作ってきた時のこと。今考えるとかなり強引な理由だと、笑いの中には多少苦いものも交じる。
 きっと、自覚はしていなかった。あの頃には、既に自分が惹かれていたこと。弁当まで作っておいて、それでも、多分。
 杏は思う。なるほど、確かに自分は妹の言うように、恋愛というものに対して「不器用」だったのだろう。
 その上で更に考える。もしも。もしも、美味しそうに全て平らげた「あいつ」に対して、あの時もう少し素直になっていたら。勇気を持てていたら。


   ――どう、美味しかった?
   ――ああ、認めたくねぇけど、すげぇ美味かった。
   ――だ、か、ら。どうして「認めたくない」のよ?
   ――いや、だって俺の中のお前のイメージがこう……
   ――……ほう。あんたがあたしのことどう考えてるかよ〜く分かったわ。
   ――ちょ、ちょっと待て、杏、早まるな。だ、だから、それぐらい美味かったってことで……
   ――はぁ、まぁ今日のところは見逃してあげるわ。あんたの言うこといちいち気にしてたら疲れるし。
   ――でもな、美味かったのは本当だぞ?
   ――ふ〜ん。……でも、ホントに、正直な話、美味しかった?
   ――ああ。それは本当に本当だ。いいなぁ、弁当とか作れる奴は。学食なんかより全然いいよ。

   (……じゃあ、じゃああたしが……)

   ――……あ、あんたも料理ぐらい自分でできるようになりなさい? 今からの社会では男とはいえ必要なスキルよ。
   ――分かってるんだけどな。やっぱり面倒だし。
   ――ならぐだぐだ言わずに学食だの購買だので我慢なさい。
   ――ああ、だから分かってるっての。



 あの時違う一言を選べていたら、今の「友達」という関係も、少しは違っていただろうか。所詮過去のことだとは分かっていても、そんな考えを持たずにはいられなかった。
 だが、彼女の冷静な部分は、それすらをも否定する。
 仮に、もし仮に、今の自分が望むような言葉が出てきていたとしても。多分、自分はあの娘には敵わなかったのではないか。弁当を作る前とその後とで何の進展もなかった自分。知り合って間もなく「あいつ」と付き合い出したあの娘。そう。結局「あいつ」にとっての自分は、「友達」でしかなかったのだ。
 彼女が導き出した結論は、思った程自身を傷つけることはなかった。むしろ、自然なものとして、杏は自分の中でそれを認めることができた。15年を越す自身の気持ちが、想いが、彼女をそうさせたのだった。
 もしかしたら、考えている以上に自分は強くなったのかもしれない。そう、思った。










「ね、杏せんせ、まだ起きてる?」

 沈黙を破って汐が話しかけてきたのは、二人が布団に入ってだいたい15分程経った頃だった。

「ん? どうしたの?」
「……あのね、多分、パパもせんせと同じ気持ちだと思うの。……正直ちょっと悔しいんだけど」

 杏は何も応えない。

「だから、二人には上手くいってほしいなって、そう思うよ。ママにはちょっと悪い気もするけどさ」
「そう」
「ね、せんせ、だからさ、この際せんせの方からがつんと攻めちゃうってのは、なし?」

 きっと、いたずらっぽい、猫のような顔を浮かべているのだろう。
 声の調子から、杏はそんな様子を簡単に想像することができた。

「ないわね。だって、それって何だか渚に負けたみたいじゃない?」
「うん?」
「もういないあの娘に勝てるとは思わないけど、いや、実際もう一度負けちゃってるんだけど……」
「うん」
「……そう、だからね、少なくとも今度は負けたくはないなって。女の意地ね、もうここまできちゃうと」

 苦笑いを浮かべながら、わざと汐にも聞こえるように深くため息をつく。

「う〜ん、でも、パパあんなんだから、自分からはなかなか言わないと思うよ。ママのこともさ、あるし」
「だから、渚のことがあるからこそ、向こうから言わせるのに意味があるんじゃない」
「意地?」
「そう、意地よ」
「でもさ、それって結局パパのこと信頼してるってことじゃないの? それによっぽど自分に自信があるってこと」
「さぁ、どうかしら? でも……」
「でも?」


 一度言葉を区切って、更に一呼吸。少し、考えてみる。
 今の状況をあの頃の自分が覗けたとしたら、果たしてどう思うだろうか。  呆れるかもしれない。それだけでは済まずに、ちょっと怒りさえするかもしれない。いつまでお前はそんなことを続けるつもりなんだ、と。自分のことは、まるっきり棚に上げて。
 しかし。例えそうだとしても。


「もう少しぐらいなら、待ってあげるわ」


 友達よりも、ちょっと切ない関係。それに甘んじる自分は、変わったようで、変わっていないようで。
 ――でも、やっぱり、少しは成長したのかもしれない。

 そんな考えに行き着いたことが何だか嬉しくて、杏は汐に気取られないように布団で顔を隠しながら、くすり、と笑った。










 第二期第十回クラナドSS祭り お題『ともだち』 出展。
 また藤林さんですか。ですね。
 渚逝去後の展開としてある意味王道ともいえる、「杏と朋也が再婚、否定的な汐」 ハッピーエンドが好きな僕としては、朋也と杏の関係に肯定的な汐、というのもあっていいはずだと考えました。
 まず書きたかったのは、本編から15年分成長した杏。何度か文中にもありますが、「変わったようで変わっていない」あるいは「変わっていないようで変わった」彼女を感じ取って頂ければ、僕としては大成功といえます。
 加えて、朋也や秋生、早苗、そして杏の影響を受けて成長した汐。本編では幼い汐しか登場しないので、ほとんどオリキャラですね。どう捉えられるかビクビクしています。
 出発はそれだけ。後はアドリブで(ぉ
 初めて三人称的な書き方、会話主体の書き方に挑戦した作品でもあります。結果は……どうなんでしょ?


back





[PR]q掴:3N15~H