擦り切れて、少しずつ消えていく。
 恐怖。どうしようもない恐怖。
 消えていく。自分が、世界が、消えていく。


 ――でも、それがどこか心地良い。







   狂愛歌







 コンコンコン。

 三回のノックに返事はなく、俺は一言断った後にノブを回して扉を開く。
 もはや見慣れた光景だった。
 壁際に配置された机。その上に置かれた一冊のアルバムをゆっくりとめくっていく女性。懐かしむように。慈しむように。
 開け放たれた窓から穏やかな風が入り、肩にまで伸びた彼女の髪を優しく揺らす。
「杏」
 一枚の絵画にも似た情景。触れるのは少し躊躇られたが、声をかけずにはいられなかった。あまりにも彼女を遠く感じた。
「……朋也?」
 振り返って俺の名を呼んだ。絵画は現実へと回帰していく。
「また、写真見てたのか?」
「忘れそうになるの」
 何をとは聞かなかった。それは一種の誓約だった。
 彼女のもとへと歩いていく。彼女は既に視線をアルバムへと戻していた。
 そこには彼女たち姉妹の写真がいくつも収まっている。幼い頃の二人は本当にそっくりで、まるで見分けがつかない。
「ねえ、朋也」
 写真へと目をやったまま、問いかける。
「なんだ」
「椋、あの子、どこに行ったのかしらね」
 問いに対して俺は何も応えずに、後ろから椅子越しに杏の身体を抱きしめた。


 椋の自殺から、既に半年が経っていた。







 双子としてこの世に生を受け、そして共に時を過ごしてきた姉妹。
 その連れ合いの自殺が、残された片割れにどれだけの影響を与えたのか、本人以外、理解の及ぶことではない。
 ただ、恐らくそれは想像を絶する哀しみで、痛みで、そして真実、心が壊れるほどの呪いだったのだろう。
 あの日から、彼女は笑わなくなった。







「朋也」
 抱きしめたまま、どれだけそうしていたのだろうか。
 不意に腕の中から聞こえた声に、俺は意識を手元に手繰り寄せた。
「椋は、もういないのかしら」
 戸惑い、不安。
 前を向いたまま、後ろにいる俺に顔は見せない。だが、そんな彼女の心情を想像することは容易だった。
「そんなことない」
 真実と嘘、正しいのはいつも前者であって、きっと本当のことを諭してやるのが本来であろう。
 ただ、俺は、許される嘘もあるのだと、そう信じていたい。
「夢を見るの。その中で椋が泣いてる。あたしはそれを見ながら何もできなくて、ただ外から見てる。そしたらね、椋の身体がだんだん薄くなって、消えるところで、いつも目が覚めるの」
 ぽつり、ぽつりと。窓の外を見ながら杏が言う。彼女の目が今何を映しているのか、俺には分かりそうもない。
 夢が何かを伝えることはよくあることだと聞く。ならば、彼女の夢は果たして何を意味しているのだろう。
「ただの夢だろ?」
「そう、かもしれない」
 俺の言葉に、杏は俯きながら呟くように応えた。







 あの日、俺は彼女から屋上に呼び出されていた。
 そこで、見た。
 彼女の最期。俺が見た最後の、笑顔。
 自殺。信じられなかった。信じたくなかった。
 どうして。どうして俺は――







「じゃあ、そろそろ帰るよ」
「今日も、行っていい?」
「ああ、待ってる」
 幾度となく繰り返されてきた会話。それの意味は、お互い既に分かりきっている。
 抱かれるために訪れ、抱くために待つ。俺と彼女との関係は、いつからかそんなものになっていた。
 互いを傷つけ、そしてそれを舐め合うために繰り返してきた。
 それは、俺たちにとって、純然たる愛の行為。
 これから先も、きっとその意味は変わらないのだろう。

 部屋を出たところで、廊下をうろうろと歩くボタンに気づいた。
 少し迷った後、抱き上げて頭を撫でてやる。
「なぁ、お前さ、もうあいつのこと嫌いになったのか?」
 あやすように、話しかける。
「そりゃな、あの時から、あいつは変わっちまったさ。でも、それでも、お前のご主人さまに変わりないだろ?」
 こっちの言うことを全て理解しているとは思わない。ただ、少しでも、少しだけでも気持ちが伝わるように。
「杏が笑うには、お前が必要なんだよ、ボタン」
「ぷひ」
 その返事は、俺の耳には喜んでいるように聞こえた。
 あの日から変わってしまった杏。それを否定するように、ボタンはあいつに近づかなくなった。
 そのことが杏をさらに追い詰めているのだとしたら、俺はこいつに話しかけることをやめるわけにはいかない。
「杏を笑わせてやってくれ。俺だけじゃ、駄目みたいなんだ」
「ぷひぷひ」
 やはり、喜んでいるように聞こえる声。今でも俺のことは好きでいてくれている、と少しだけ嬉しくなった。
「じゃあ、もう俺は帰らなきゃいけないけど、ボタン、頼んだぞ」
 分かっている。無駄なことだと。
 もう幾度も同じことをボタンに語りかけた。その全て、意味を為すことはなかった。
 それでも、ほんの少しでも可能性があるのならば、俺はこれからも無駄な努力を続けるのだろう。
 彼女の笑顔を、もう一度この目で見るために。


 玄関のベルが鳴って、俺は何の荷物も持たない彼女を中へ迎え入れる。
 何も言わずに彼女は部屋へと入り、俺が用意しておいた布団へと向かう。
 鍵を閉めてから向き合って布団の上に座ると、彼女はいつものように俺のズボンに手をやり、そして奉仕を始める。
 それは飽きるほど繰り返された、しかし恐らくこの先飽きることのない行為。
 しばらくの後、今度は俺が彼女の下半身を露わにし、愛撫も無しにそこを突き上げる。
「……っく」
 くぐもった声。その以前、彼女自身の行為による若干の緩和があったにせよ、痛みは相応にあるのだろう。
 だが、俺は止めない。否、止めることは許されない。それが彼女の望んだことだったから。

 互いを傷つけるための行為を、人は何と言うのだろう。互いを舐め合うための行為を、人は何と蔑むのだろう。
 だが、しかし。
 狂おしいほどの愛情を、その他にどう侵食させられようか。







 思い出す。

 自分の気持ちに気づく、ただそれだけのことさえできずに過ごした日々。
 何と愚かしいことだったのだろう。
 今ならはっきりと分かる。俺は、ずっと彼女が好きだった。
 そう。ならばきっと一言、ただ「好き」と口にするだけで、きっと違う今が広がっていた。
 なのに。
 何と、何と愚かな――







 果てると同時に、彼女は気を失ったようだ。それはいつものことだった。
 行為の処理をすませてから彼女と俺に布団をかぶせる。
 静かな寝息と、細やかな肌、そして狂おしい熱を感じながら、彼女の髪を指でゆっくりと梳く。また少し長くなったようだ。
 思う。何度この同じ情景に身を置いたことだろう。
 そしてその度に感じるわずかな痛みと、どうしようもない心地良さ。
 俺はきっと、永遠に彼女から離れられない。





 夢を見る。
 それは思い出。
 今もまだ脳裏に焼きついて離れない、愛しい彼女の思い出。

 寒い時期。
 俺と彼女が、フェンス越しに何かを言い合っている。


   ………ばか………何して……
   ……んね………急に……
   ……んなこ………いから………ない……に
   …………いて
   ……くらで………て……にかく……っちに……
   あた……馬鹿……………ない……った
   ……から……にっ
   ……トはね……たんだ………んたのこ………時に
   だか…………なら……いて………
   ………ントに………たし………持ち………ていな………に、あ……
   ………話を……
   でも………まい。これ………んたや…………けられな…………
   ……っ


 そこでどんな会話がなされたのか、ぼんやりとしか分からない。
 だが、そんな中最後の一言だけは、いやにはっきりと頭に響いた。


   『ばいばい、朋也。あんたのこと、ずっと好きだった』


 こっちを向いて、ふわりと笑う。
 ああ、思えば、彼女の笑顔はこれが最後だった。今では、そんな風に君は笑ってくれない。
 そして彼女は、その長い髪を風に遊ばせながら――
 ――空に、舞った


 その様は、それまでのどんな彼女よりも、美しく。
 まるで一枚の絵画を見ているような。
 故に何もできずに。手を出すことも、叫ぶことも。
 ただ、彼女を見つめていた。
 落ちて小さくなっていく、彼女を。







 思い出に、生きている。

 ――ならば、狂っているのは果たして誰なのか。







 ちらちらと差し込む光に、白濁していた意識が少しずつ覚醒する。
 カーテンの影がなびいて、太陽を点滅させていた。どうやら窓を開け放したまま昨夜を過ごしていたらしい。
 隣の女性に目をやる。夢の中よりもその髪は少し短い。
 だが、そんなことは俺にとって取るに足らないこと。彼女がいる。ただそれだけで、俺は幸せになれるのだから。
 そう。だから俺は、今日もまた彼女の名を呼ぶ。
 ――この狂おしいほどの愛情をのせて。

「おはよう、杏」

 彼女の目から流れ出る滴に、そっと口付けた。
 ああ、なんて、愛しい――










 第三期第三回クラナドSS祭り お題『思い出』 出展。
 前回の祭りでは甘いのと猫を書いたので、今回は暗いのに挑戦。
 そしたら何かすごく暗くなりました。まぁたまにはこんなのも。



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