寒くなったな、と直幸は思う。
かじかんだ指先に食い込む袋の痛み。中には二、三日分の食料品といくつかの雑貨が入っている。
全て史乃の指示通りに買ってきたものだった。品目を見るに、どうやら今日か明日あたり鍋が出てくるようだ。
はは、これではまるで子供のおつかいだな。
母親に言われて買い物に出かける息子。浮かんだ考えに苦笑を禁じえない。
結局、母は母で、息子は息子だった。それはいくつの年になっても変わることがない。ここに住むようになって、直幸は強く実感していた。
そしてそれはつまり――
思い出すことがある。
まだ小さかった朋也と、今よりは幾分若かった自分。直幸は今でも鮮明に覚えている。
幼稚園からの帰り。
もうすっかり暗くなった中を、二人、手を繋いで歩いた。
「ごめんな、朋也。父さん遅くなって」
「ううん。おとうさん、おしごとしてるから」
母親がいない。そのことでどれだけ朋也に負担を強いているのか、直幸には分からなかった。
分かろうとはしていた。それでもきっと、分からないことの方がずっと多かった。
「おとうさん、て、つめたいよ。だいじょうぶ?」
「ああ。朋也の手があったかいから、大丈夫だ」
続けて、朋也はその日幼稚園であったことを楽しそうに喋り出す。時折相槌をうちながら、直幸もそれを楽しそうに聞いていた。
帰り道の過ごし方はいつも変わらない。途中、スーパーに寄って夕食の買い物をする。
「今日は何が食べたい?」
「うーん……あったかいのがいい」
「そうだな。じゃあ鍋にするか」
「うん。きょうは、おみそっ」
そう料理が得意でない直幸にとって、冬の鍋は心強い味方だった。
事前に必要な作業といえば、材料を洗って切るぐらいのもの。水炊き、味噌、醤油など、味自体の変化も簡単だった。
手軽に作れて飽きの来ない。岡崎家の食卓では、週に二度は鍋が用意された。
材料を取って回る間、今日は朋也にお菓子を選ばせた。二日に一つ。それが父と子の約束だった。
買い物を終えて、スーパーを出る。一時忘れていた寒さに身が震えた。
「さむいー」
「うん、早く帰ろうな」
手を繋ぐ。今度はお互いに温かい。
大きい袋を直幸が、小さい袋を朋也が空いている方の手で持った。
「重くないか?」
「うん。おとうさん、おもくない?」
「ああ、これぐらい大丈夫だ」
「おとうさん、ちからもち」
嬉しそうに朋也は言う。
「朋也も、大きくなったらな」
「おとうさんぐらい?」
「もっともっと大きくなるさ」
「ほんと?」
「ああ。きっとな」
自分よりも、もっともっと。
それが直幸の願いだった。妻を亡くして、ただ一つ、直幸を支える未来だった。
涙は全て流してしまった。だから自分は大丈夫だと、そう自分に言い聞かせた。
辛いことも、悲しいことも。全てこの子のために乗り切っていくと、誓って言うことができた。
「じゃあ、ぼくがおとうさんよりももっとおおきくなったら、おとうさんのぶんも、ぜんぶもってあげるね」
でも、時々、こぼれ落ちそうになる。
悲しさではなく。寂しさでもなく。
我が子の優しさに、泣きそうになることがあった。
「……そうだな。楽しみにしてるよ」
「うん。すぐにおおきくなるから、まってて」
「そうか。じゃあ、今日もいっぱい食べなきゃな」
「うん。いっぱいたべる」
繋いだ手の優しさ。
忘れない。直幸はそう思った。
後悔はある。父親として、もっとできることがあった。やるべきことがあった。
けれど、もう一度やりなおしたいとは思わない。
それは今の朋也を、幸せな家庭を築き上げた息子を、否定してしまうことだから。
一人きりの帰り道。直幸はゆっくりと歩く。
急ぐ必要はなかった。凍えるような寒さも、一人ならばそう気にすることもない。
ふと、視界に入る白い粒。
それの意味に思い至って、直幸は空を仰いだ。
「……もう、そんな時期なんだな」
ゆらゆらと、視界を雪が舞っていた。
綺麗だな。
自然とそう思って、同時に、そんな感想を持ったのは久しぶりだと気づいた。
こんなにも美しいというのに。
病んでいたのだと改めて認識する。世界の美しさに思い及ばぬほど、自分は病んでいたのだ。
――それでも、もし言い訳が許されるならば。
直幸は思う。
忘れたことはなかった、と。
繋いだ手の優しさ。一時たりとも、それを忘れたことはなかったのだ。
駄目な人間だっただろう。駄目な父親だっただろう。
でも、それでも。
「……風邪、ひかなければいいが」
――いつだって、幸せを願っている。
「ただいま」
「おかえりなさい。外は雪が降ってきたみたいね」
「ああ」
二人で直幸が買ってきたものをしまう。作業をしながら、史乃が言った。
「さっき、朋也さんたちから電話があったわ」
「そうか。何て言ってた?」
「元気にしてるかって。ふふ、一昨日も同じことを聞かれたわ」
史乃が柔らかい笑みを浮かべて続ける。
「優しい子たちね。あなたがいなかったから、もう一度かけてくるそう」
二、三日に一度は直幸と史乃の元に、朋也たちから電話があった。
内容はいつも変わらない。特に用件があるわけではないが、それは直幸にとっても大切な時間だった。
買ってきたものをしまい終え、史乃の入れたお茶で一息つく。
下半身はこたつの中。冷えた身体が温まっていく。
――プルルルル
お茶を飲み終わる前に、電話の音が鳴り響いた。
「おれが出よう。きっと朋也たちだろう」
「ええ、お願いね」
テーブルの上に置かれた電話の子機。それに手を伸ばす。
「はい、岡崎です」
『おじいちゃん?』
「ああ、おじいちゃんだ」
『おじいちゃん、げんき?』
「ああ、元気だよ。汐は元気か?」
『うん、しおはげんきだよ。きのうね、ようちえんでかけっこして、しお、いちばんだった』
「ほう、それは凄い」
『だからしおはげんき。パパもママもげんき』
「それは良かった」
『あ、あのね、きょうゆきがふってるんだよ』
「そう、そっちも降ってたんだな。こっちも降ってるよ」
『おじいちゃん、さむくない?』
「今こたつの中にいるから大丈夫だ。汐は平気か?」
『しお、つよいこ。ぜんぜんへーき』
「そうか。偉いな」
『うん。しお、えらい。あ、パパにかわるね』
『汐、ちゃんとできたな。よしよし、偉いぞ。……親父、変わりないか?』
「ああ。聞く限り、朋也も元気みたいだな」
『もちろんだ。一家を支える大黒柱が倒れるわけにはいかないだろう』
「そうだな。渚さんも体調の方、大丈夫なんだろう?」
『ああ。あいつも昔よりずっと強くなってる。何て言ったって、母親だからな』
「そうか。それは良かった」
『ええと、それで、親父』
「なんだ?」
『その……風邪ひくなよ、父さん』
――ああ。
まったく、敵わない。
それは、そう、おれが言おうとしていたことだってのに。
いつだってそうだった。お前は、優しさで、おれを泣かそうとする。
後悔はある。父親として、もっとできることがあった。やるべきことがあった。
けれど、もう一度やりなおしたいとは思わない。
朋也は、息子は、こんなにも優しい人間に育ってくれたから。
「……ありがとう。朋也、お前も、気をつけろよ」
『おう。じゃ、そろそろ切るな』
「ああ。じゃあな」
『それじゃ』
通話を終えて、直幸は子機を置こうとする。
でも、手が震えて、うまくいかなかった。
「……直幸」
史乃が言う。
「親の前でなら、子供は泣いていいものよ」
その言葉に、耐え切れなくなる。
もう耐えなくてもいいんだと、そう悟る。
それは、ずっとこらえ続けていた、そしてやっとたどり着いた――
――涙だった。
第三期第八回クラナドSS祭り お題『冬』 出展。
直幸さん書いてみました。祭り当日に書いたんでちょっと短め。
親ってすごく偉いんだと思います。
感想会では二票いただきましたっ。感謝感謝っ。
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