机の引き出しから、一冊のノートを取り出す。
最初のページの、一番上。ただ一つだけ貼られた、プリントシール。
顔を赤くしながら慌てている男性。その首に手を回して、私は、自分でもびっくりするぐらい楽しそうに微笑んでいる。
もう飽きるほど何度も見たはずなのに、でも、いつも気づけばそれを眺めている。
どうして自分がそんなことをしているのかが分からないほど、子どもというわけでもない。ちょっと考えればすぐに答えは出てくること。
重症だ、そう思う。
恋の病なんてよく言うけど、なるほど、確かにこれは病気に近いのかもしれない。
たった数日一緒にいた、ただそれだけ。こういうものは、もっと長い時間をかけて育まれていくのだと思っていた。
歳だって、離れている。もっと先になれば気にならないのだろうが、少なくとも、中学2年、今の私にとって4年という隔たりはあまりにも大きい。
そして、もっと致命的なこと。私と彼、住んでいる場所があまりにも違う上に、付き合いと呼べるようなものも一切ない。離れた所に住んでいる兄を通しての知り合い、言ってみればそれだけの関係だから。
「望み、ないなぁ」
自分で言って、悲しくなる。寂しくなる。
でも。
「……会いたい、です」
シールの中の彼に向けて。恥ずかしいなんて気持ちは、とうにどこかに行ってしまった。
春に兄を訪ねた時。予定よりも随分と長く向こうに居座って、挙句学校まで休んでしまったから、当分の間、お父さんもお母さんも私が向こうに行くことを許してくれそうにはない。
後悔は、していない。結果的に私は囚われの身――なんていうと少し大げさか――となってしまったが、それでも、私の行動はきっと間違っていなかったと思う。それぐらい、私にも、そして兄にも意味があったはずだから。
そう。だから、当面の問題は。
「はぁ、どうしたらいいですか? 岡崎さん」
私の気持ちをどうすべきか、という――
「芽衣ーっ、陽平から電話よーっ」
思考は、母の声によって止められた。
兄から電話なんて、珍しい。いつもこっちからしか掛けない上、すぐに電話を切ろうとするのに。
「はーい、今行くーっ」
ノートをそっと机にしまう。自分の部屋を出て、気持ち、小走りで電話へと向かった。
「もしもし、お兄ちゃん?」
『あ、芽衣? あのさ、来週、盆前に岡崎の奴連れてくるから、よろしく。じゃーね』
「……え、ちょっと……」
用件だけを伝えるなり、早々に電話は切れてしまった。
普段なら、兄の不精さに怒るなり嘆くなりするところ。
でも。
――岡崎さんが、うちに、来る?
「わー、大変大変っ。準備、準備しなきゃっ」
冷静に考えれば、それはあまりにもせっかちなことだったのだけれど。
素敵な夏になればいい。
そう、思った。
夏の終わりのシンデレラ
時間が過ぎるのは、本当に早かった。
私と、兄と、岡崎さん。自転車で競争し、川で水をかけ合い、空き地でボールをぶつけ合い。トランプを並べた縁側ですいかを食べて、そのままちょっとお昼寝をして。まるで、小学生がそうするように。
間違いなく、私は浮かれていたんだと思う。久しぶりに「おにいちゃん」と遊べることに。岡崎さんが、そばにいることに。
戸は全開、気持ちよく通る風。畳の上で、何をするでもなくごろごろと転がる二人。連れ出すのは毎回私の役目だった。
そんな子どもみたいなことやらないよ。そう言う兄をうまく挑発して、その気にさせる。岡崎さんは、そんな私たちを半ば呆れ気味に、でも、きっと楽しそうに見ていた。
やれやれ、芽衣ちゃんは元気だな。言いながらも、勝負事になった時一番真剣だったのは多分岡崎さんだった。
楽しかった時間。その中で、改めて確認した。
私は、岡崎さんのことが、好き。
自転車の二人乗り。分け合ったすいか。すぐ横で聞こえた寝息。
楽しかった。でも、ずっとドキドキしていた。前みたいに振舞えているか、ずっとそれが不安だった。
知られたら、その時に全部終わっちゃうんじゃないかって。「妹」のままいられたら、どれだけ楽だろうって。
縁側で風を受けながら食べているのは、やっぱりすいかだった。
二日目。最後の夜だった。
「このすいか食べたら、花火やろうよっ」
「お、いいな、いかにも夏っぽくて」
「……」
「……おい、芽衣?」
「……あ、おにいちゃん、何?」
「花火、お前もやるだろ?」
「うん、もちろんっ」
朝になれば、岡崎さんは街へと帰ってしまう。それで、お終い。
――二日間だけの、シンデレラ。
考えて、ちょっと可笑しくなる。灰にまみれた娘。私の場合、それは泥だったろうか。
いつか、岡崎さんとの会話を思い出す。
――芽衣ちゃんも、見た目は子供っぽいけどな
――ええっ。そんなぁ、けっこうおおきくなったのに……。まだ、子どもですか?
――色気とは無縁だな
――がーーーん……ショック
――しばらくすれば背も伸びるよ。芽衣ちゃん可愛いから、きれいになると思うぞ
――えっ、本当ですか?
――おおきくなったらな
――は、はいっ、頑張っちゃいますっ
この二日間を思うと、自己嫌悪が私を襲う。自分でも分かるほどに、私は子どもだった。
もっと大人だったら。もっと早く生まれていたら。ああ、もう少しは違ったのだろうか。
「芽衣ちゃん?」
「あ、は、はい」
「花火、行くか」
「はいっ」
岡崎さんの声に、鬱になりかけた思考を中断する。
「あれ、おにいちゃんは……」
地面に置いていたサンダルに足を伸ばす時になって、初めて気づく。
発案者だったはずの兄の姿が見られなかった。
「ああ、何か腹痛いとか言って、これだけ渡してトイレに篭っちまった」
言いながら、右手に持った花火セットを軽く持ち上げる。兄がいつの間にか用意していたらしい。
「はぁ、すいかの食べすぎですよね、絶対」
「ああ、間違いないな」
目を合わせて、ひとしきり笑い合う。
そうしながらも、私は、兄の情けなさに心の中でこっそりと感謝していた。わざわざ前もって用意していた花火に参加できなくて、すごく可哀想だとは思ったけれど。
それぐらいは、きっと許されるはず。
魔法の解け際、これがきっと最後の夢になるだろうから。
ぱちぱちぱち。
小さな音を立てて瞬く線香花火。
もう何本目だろう。数を積む度に、交わす言葉は減っていく。
綺麗だけど、でもどこか寂しい音と輝き。
ぱちぱちぱち。
ふと、顔を上げて横の岡崎さんの方に目をやる。
ぱちぱちぱち。
手元の花火を見つめる横顔。
悲しげな光がぼんやりと彼を照らす。
何を考えるの。思うの。
ねぇ、岡崎さん。
――私、隣に、いるんだよ?
私と、岡崎さん。ただ兄を通しての繋がりは、思うよりずっと弱い。
明日になれば、彼はここを離れて自分の街へと戻る。
新しい学期を迎えて、これまでと変わらない毎日を過ごすのだろう。
高校三年だっていうのにろくに勉強もせず、きっと兄と一緒に笑って過ごすのだろう。
馬鹿みたいに、普通な毎日。
でも。
――その中に、私はいない。
考えると、すごく寂しくなる。悲しくなる。
どうして。ねぇ、どうして。
私は、そこにいないの。いられないの。
「……うん? どうかしたか?」
かかる声。
焦点を合わせると、私の方を向く岡崎さんと目が合った。
はっとして、頭を左右に振る。
「あ、違う、違うんです。ただ、ちょっとぼーっとしちゃってたみたいで」
「そっか。こっち見てるから、何か虫でもついてるのかと思った」
「え、あ、ごめんなさい、全然そんなのじゃないんです」
「あー、謝らなくていいからさ。それよりほら、花火」
「はい?」
「ほら、最後の一本」
袋の中に残ったそれを取り出して、私の方に差し出す。
手元を見る。私の持つ花火は既にその光を失っていた。
「あっ、ごめんなさい」
言う私に、構わない、と岡崎さんは頭を軽く左右に振る。
「ありがとうございます。じゃあ、今日のラスト、いきますね」
受け取った線香花火の先端を、大分短くなったろうそくへと近づける。
ぱちぱちぱち。
音を伴って、火が灯る。それを確認してから、役目を終えたろうそくの火に息を吹きかけた。
手元の光だけが、私たちを包む。
「綺麗、ですよね」
「ああ」
ぱちぱちぱち。
儚げに、瞬く。
「本当に、綺麗……」
言葉の後に残る、静寂。
少し離れたところから聞こえる虫の音と、ぱちぱちという花火の音。
ただ、二人で一本の線香花火を見つめ続ける。
これで、最後。
シンデレラの時間も、これで、
――最後。
「ねぇ、岡崎さん?」
「うん? どうかしたか?」
「私……」
手元の線香花火に目をやったまま。
決して大きくはない声。
「……岡崎さんのこと、好きです」
ねぇ、岡崎さん。
聞こえてますか?
私の気持ち、伝わってますか?
「……今度は、偽物じゃなくて、本当の恋人になりたいです」
どきどきと、自分の鼓動がひどく耳につく。
間。
本当は、極短い時間だったのだろう。
でも、それは、私にはいやに長く感じられた。
「ありがとう。芽衣ちゃんにそう言ってもらえて、すごく嬉しい。
芽衣ちゃん、妹みたいで、俺も好きだよ。でも……」
ぱちぱちぱち。
線香花火が、手元で弱く光を放つ。
寂しい音だと、悲しい光だと。そう、思った。
「……ごめん、恋人とか、そういう風には見れない」
半ば予想通りの答えだった。
私が岡崎さんに寄せるものと、彼が私に寄せてくれるもの。
違うものだって、分かっていた。
「……そうですか。やっぱり、そうですよね」
「……ごめん」
「あはは、謝らないでくださいよ」
「そっか」
「はい。岡崎さんは、何も悪くなんか、ないです」
ぽと、と火玉が落ちて、消える。
瞬間、辺りが真っ暗になって視界が利かなくなる。
良かった。そう思った。
「……あの、少しだけ、一人にしてもらえませんか?」
泣いてるところなんて、見せたくなかった。
「分かった。先に家の方、戻ってるな」
すっと立ち上がって、歩いていく。
小さくなっていく足音を聞きながら、私は嗚咽を我慢していた。
まだ。もう少しだけ、我慢。足音が完全に聞こえなくなるまでの。
シンデレラの魔法は、もう解けてしまったけれど。
それぐらいの意地は、きっと許されると思った。
――かつかつかつ
別の足音に気づく。
それは遠ざかるどころか、私の方に近づいてきた。
「芽衣」
「……おにいちゃん?」
腹痛を訴えて休んでいたはずの、兄だった。
「お腹、もういいの?」
「……振られたのか?」
「え?」
「岡崎のこと、好きなんだろ?」
「な、なんで……」
「これでも僕はお前のおにいちゃんだからな。それぐらい、見てれば分かるさ」
「そっか……そっか、うん……おにいちゃん……」
必死に堪えていた涙。
「……振られちゃった、私」
止まらない。
後から後から。
落ちてくる。
――落ちてくる。
「芽衣、お前には向こうでもたくさん迷惑かけたからさ。だから」
兄の声に俯いていた顔を上げる。
暗くて、どんな顔をしているのかは見えなかった。
「胸ぐらい、貸してやるよ」
「……っ」
我慢できなくなって、正面から兄に抱きつく。
「……ぅ……おにい……ちゃん……」
嗚咽。
昔よりずっと広い兄の胸の中。声をあげて、泣いた。
兄はその間中、何も言わずに頭を撫でてくれた。
私がもっと小さかった頃、その時のまま。
優しかった。優しかった。
「……ひ……うぅっ……いちゃん……おにいちゃんっ……」
「それじゃあ、世話になったな。おばさんとおじさんにもよろしく言っててくれ」
「うん。僕も一週間ぐらいしたらそっちに戻るからね」
「戻って来なくていいけどな」
「別れ際だってのに、あんた相変わらずひどいっすねぇ」
三日目の朝。予定通り、朋也は春原家を発つ。
家の前で交わされる会話は、まさにいつも通りのものだった。
「じゃあ、もう行くけど、えーと……」
「うん?」
「その、芽衣ちゃんにも、ありがとうって伝えといてくれるか?」
「どうして僕が? 自分で言えばいいじゃん」
「ちょっと、事情があんだよ」
少し伏目がち、言いにくそうな朋也に、陽平は笑う。
「ははっ、何言ってんだよ」
「馬鹿、本当に笑えるようなことじゃねぇんだ」
「違う。違うよ、岡崎。お前、分かってないんだ」
「は?」
「僕の妹をさ、あんまり舐めないで欲しいねっ」
そう言って、陽平は、やはり自信溢れる様子でくっくっと笑う。
意味が分からずに、朋也が陽平を問い詰めようとしたところで、玄関から激しく戸の開く音がした。
中から、芽衣が飛び出してくる。一気に陽平の隣を抜け、朋也の目の前に。
「うー、黙って出て行くなんてひどいじゃないですかっ」
ひどくご立腹の様子。
何と言ったものかと、朋也は言葉に詰まる。
「……いや、その……」
「……昨日のこと、ですよね?」
「まぁ、そう、だけど……」
自分よりも随分と小さい少女に問い詰められる様子は、恐らく傍から見て笑えるものなのだろう。
芽衣の後ろ、陽平が必死に声を抑えている様子から、朋也にも容易に推測できた。
「私、諦めてませんから」
「はい?」
思わず、素っ頓狂な声。
そうさせるほど、その芽衣の言葉は、朋也を驚かせた。
「昨日、おにいちゃんが言ってたんです。岡崎さん、意外と押しに弱いタイプだって」
「……え?」
「だから、まだ諦めてあげません。今はまだ駄目かもしれないけど、前、岡崎さんも言ってくれました。『芽衣ちゃん可愛いから、きれいになると思うぞ』って。私、覚えてます」
「……あ……その……」
「覚悟してください。とびっきりの美人になって、岡崎さんを見返してあげます」
「……う…………」
言葉がでない。
トドメを刺すように、芽衣の後ろから陽平が口を開いた。
「言っただろ、岡崎。僕の妹を、舐めるなって」
嬉しそうな彼の言葉に、朋也はいつもの調子どころか、一言すら返すことができなかった。
ただ、呆然と成り行きを見つめている、そんな様子の朋也に、芽衣が再び声をかける。
「岡崎さん」
「え、あ、うん」
改めて芽衣と向き合う。
「耳、貸してください」
片手を自分の口に添えて耳打ちの態勢を作る芽衣。
その彼女に、朋也は軽く屈むことで応える。
芽衣は、口に添えていた手を離して。
ちゅっ、と。
朋也の頬に、軽く口付けた。
「め、芽衣ちゃん?」
「あは、とりあえず今はこれで我慢してあげます」
舌をちょんと出して、悪戯っぽく笑う。
しかし、その顔は、恥ずかしさ故かほんのりと赤く染まっていた。
「ちゃんとしたちゅーは、恋人になってからです」
楽しそうに笑う。
いつか、偽の恋人を演じた時にも似たように笑っていたと、朋也はそう思い出した。
「その時は、そっちからちゅーしたくなるような、そんな女性に、私、なってます。……だから」
朋也に向けて、手を伸ばす。人差し指で、ちょん、と彼の唇に触れて。
「……覚悟してくださいね? 『朋也』さん?」
「……は、ははっ、そうか。ああ、分かった、分かったよ。覚悟しておこうじゃないか」
「はい、そうしてください」
揃って、破顔した。
机の引き出しから、芽衣は一冊のノートを取り出した。
最初のページの、一番上。ただ一つだけ貼られた、プリントシール。
微笑みを浮かべながら、それを眺める。
しばらくの後、突然、思いついたようにそのノートを顔に近づける。そして、その中の小さな小さな想い人に、唇を触れさせた。
「……っ」
途端、ぼっと顔が赤く染まる。
ノートを机の上に置く。ノートを持っていたその手で顔を扇ぎながら、取り繕うように、開け放たれた窓の向こうへと視線を送る。
気持ちのよい青空。
雲は、ゆっくりゆっくりと、歩くように。
耳に聞こえるのは、じーじーという蝉の声。
うーん、と一度大きく伸びをする。まだまだ、これから。
シンデレラの魔法は、もう解けてしまったけれど。
泥にまみれた女の子だって、がんばれば、きっと自分の力でお姫様になれるから。
「さて、どうやってお父さんとお母さんを納得させよっかな」
夏の終わりには、まだ少し早い。
第三期第五回クラナドSS祭り お題『夏』 出展。
芽衣ちゃんまだ書いてなかったので、書いてみようと思い立ちました。
春原もまだ触れていなかったので、関連して出しちまおうと。芽衣が前向きでいられるのは、きっと「おにいちゃん」がいるからだと思うのです。
気ままに書いた結果、まさに僕ちっくな話になったかなぁ。少なくとも僕の中ではそう。 悲しいまま終わらせるのは苦手っす。
感想会では五票いただき、みのりふさんの「水銀灯」とMVPを分け合っちゃいましたっ。みなさん本当にありがとうございました〜。
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