記憶の中の幼い椋は、いつも泣き顔だった。
それはもちろん、多少の誇張はあるのだろうけれど。人の記憶というのは、そういうものだから。
でも、そうだとしても、やはり。
例えば、お腹が痛い時。
例えば、お気に入りの人形をなくしてしまった時。
注射、ピーマン、両親のちょっとした口喧嘩。
人一倍、感受性が強かったのかもしれない。少しの刺激で、すぐに泣いてしまう、そんな子。
涙をぽろぽろと流しながら「お姉ちゃん」と寄ってくる双子の妹を前にして、この子はあたしが守るんだ、なんてそんな考えを抱いたとしても、それは別段おかしなことではないと思う。幼いなりに、「お姉ちゃん」しようとしていたのだ。
何にせよ、あたしにとって椋という子は、泣き虫で弱気でそして何より可愛い、最高の妹だった。
*
――ピンポーン
突然、チャイムが鳴る。突然じゃないチャイムなんてあまり考えられないけど。
今家にはあたししかいない。
お父さんとお母さんは二人してどこかに出かけてしまった。いつまでも新婚のように仲の良い二人が嬉しくもあり、また現在進行形で彼氏不在のあたしにはちょっとだけ、いや、かなり羨ましくもある。
椋はというと、こちらはもっと本格的なデートだ。相手はもちろん、朋也。
岡崎、朋也。
あたしの去年のクラスメートで、そして――
……いったい……何だと言うのだろう。
――ピンポーン、ピンポーン、ピン――
待ちきれなくなったのか、チャイムがたて続けに鳴らされる。
居留守でも使おうかと思っていたが、何か急用なのかもしれない。しぶしぶ玄関に向かう。
「はいはい、今開けますよっ! そんなに何回も押さなくても……って、椋!?」
「あはは、帰って来ちゃった……」
ドアを開けた目の前にいたのは、新聞の勧誘でもましてや宅配便でもなく、現在進行形でデート中のはずの、椋その人だった。
「ど、どうしたの? またあのアホが何かした? ちょっと待ってなさい、今制裁を加えて来るから」
昨日の夜から今日の服を見繕って準備を整えていたこの子がこんなに早く戻って来たということは、何かしらのことがあったに違いない。そしてそれは九分九厘、あいつの方に責があるに決まっているのだ。
サンダルを履いて駆け出そうとする。
非常時に備えて靴箱の上に置いてある小中学生用の少し小さめの和英辞書も、もちろん忘れない。
「ちょ、ちょっとお姉ちゃん待って」
「何? 大丈夫、ちゃんとトドメはあなたに刺させてあげるわよ?」
「あのね、その前に話したいことがあるの」
さり気なく、朋也に制裁を加えることは容認した気がする。
椋が容認しようがするまいが、こんな状況になった時点であいつの半殺しは決定しているのだが。
「だからね、ちょっとお話、聞いてくれないかな?」
「え、あ、うん、うん、分かったわ。じゃああたしの部屋で、いい?」
先に椋をあたしの部屋に行かせてから、コーヒーを淹れるためにキッチンに向かう。
椋の様子を見るに、どうも簡単な話ではなさそうだった。わざわざあたしに改まって聞かせるような、話。
多分、というか間違いなく朋也のことなんだろう。
そうでもないと、あの子がこんなにも早く、ほとんどユーターンに近い時間で戻ってきた上にあたしに話を聞かせるなんてことはあり得ない。
心がざわつく。
心配。
そう、心配だ。
だってあたしは、あの二人を付き合わせた張本人で。
椋の、姉なんだから。
「お待たせ、椋」
「あ、お姉ちゃん、わざわざごめんね。ありがとう」
コーヒーカップを二つのせたお盆をテーブルの上に置く。
砂糖とミルク、それにスプーンがそれぞれ二つずつ。
スプーンの片方はあたしのだけれど、砂糖とミルクは二つとも椋のためのものだ。
あたしは、コーヒーに砂糖もミルクも入れない。
いつ頃からそうし始めたのかは覚えていないが、少なくとも今ではそれが当たり前となっている。
対して、椋はそれぞれを二つずつ使う。
コーヒーの苦味に、まだ慣れないのだろう。
あたしは、椋に砂糖とミルクを手渡そうとする。
「はい、椋」
「ごめんお姉ちゃん、今日は何も入れないで飲んでみたいから」
「そう。大丈夫なの?」
「うん、多分大丈夫」
差し出されたそれらに、手を振って、いらない、と意思表示をする。
かなり意外だったが、まぁそんな時もあるのだろう。
そんな時。
つまりは、今のような、時。
「う、苦い……」
カップに口をつけるなり、そう言う。
そりゃあ今まで人並み以上に甘いものを飲んできた椋に、いきなりブラックはキツイだろう。
「だから言ったでしょう?」
「どうしてお姉ちゃんこんなの平気で飲めるの? 苦くない?」
「その苦さがいい…って言っても無駄か。もうちょっと大人になったらきっと分かるわよ。で、いつもどおり二つずつでいいの?」
そう言って、砂糖とミルクをそれぞれ二つずつお盆から手に取る。
二つずつっていうのはいくらなんでも甘くなり過ぎじゃないかしら。いつもながらに、そう考える。
「うん。ありがと」
「全く、世話が焼けるわね」
「あはは、ごめんね……」
「……」
「……」
言ったきり、椋は黙りこんでしまった。
やはり、余程の何かが、あったのだろう。
傍目にも、落ち込んでいるのが分かる。
「……」
「……」
イヤな沈黙。
耐え切れなくなって、あたしから口火を切る。
このままでは、時間だけが過ぎていきそうだった。
「で、話って何なの?」
「……あのね、今日の、朋也君のこと」
そんなこと、最初から分かっている。分かりきっている。
先を、急かす。
「朋也が、何かしたの?」
「あのね。大したことじゃないの。ただね、ちょっとショックだったかな、って」
この子が「大したことじゃない」なんて言う時は、まず間違いなく「大したこと」が起こった時。
そんなことは、17年も双子を、姉をやってきたあたしにはもちろん分かっていた。
最近で言えば、朋也のことが好きだとあたしに告げた時。あの時も、やはり出だしは「大したことじゃないんだけどね」だった。
「いいから、何をされたのか言ってみて?」
「……うん。今日はね、いつもみたいに待ち合わせをして、映画を見るはずだったの。それで、待ち合わせの場所に行ったらもう朋也くんが先に来てて、あ、私も早めに行ってたんだけど、朋也くんはもっと早かったみたいで。え…と、待たせてごめんなさいって、そしたら、いつもは俺が待たせてるからって。ごめんなさいって言ったら、謝るなよって。俺はどれだけ謝らなくちゃいけなくなるんだよって、お互いちょっと笑い合って」
「……もうノロケは十分だから、さっさと本題に行く」
あたしに、朋也とのことを話す時の椋は、いつもこんな感じだ。何故か自然とノロケの話題になる。本人に自覚が無い分、始末が悪い。
彼氏居ない暦が、この世に生を受けてこの方地上で過ごしてきた年月とぴったりイコールの関係にあるあたしとしては、できればその手の話は御遠慮願いたい。
もちろん、椋が幸せそうに話をする様子は嫌いではない。というか好きだ。できれば、ずっとそうやって笑っていて欲しいと思う。
だけど。
やはりどうしても嫉妬に似た感情は生まれてくる。こればかりは人間の持つ本性としてしょうがないものだと思う。
だから。
決して、決して本当に嫉妬しているわけでは、ない。
ただ、羨ましい、と、そう思うだけ。
断っておくが、その羨望も、その具体的な相手ではなく「相手」がいるという事実に対して向けられたものだ。
第一、相手はあの岡崎朋也。
誰が嫉妬なんか、してやるもんか。
「それでね、じゃあ行こうって私が言ったら、ちょっと待って、って」
「……で?」
まさかいきなり別れよう、だとか。
いくら何でも、とは思うものの、相手はあのバカ。まさか、ということも考えられる。
「その前に渡したいものがあるから、って。プレゼントをくれたの」
「なんだ。良かったじゃない」
さすがに、そこまでのバカではなかったようだ。
むしろ、正直、少し見直した。
一度、あたしがわざわざ手を焼いて椋にプレゼントさせたことはあったが、自分からそれを行うとはなかなか殊勝な心掛けだ。やっと彼氏が板についてきたというところか。
「……うん、そうなんだけど……」
「何? それに何か問題でもあったの?」
「あのね、あのペンダント、覚えてる? 私とお姉ちゃんと朋也くんで一緒に遊んだ時の」
「あ〜あれね。もちろん覚えてるわよ。確かあたしはアメジストで椋はタンザナイトがいい……って、まさかあのバカっ!」
「うん。アメジスト、だったの」
さすがだ。やはりそこまでのバカだった。
よりによって、わざわざ双子の姉の選んだ方を買うなんて。
内気で弱気な椋でなくとも悲しいだろう。
「それで、以前欲しがってただろう、って。俺、ちゃんと覚えてただろう、ちょっとは彼氏らしいことできたかな、って。私、何も言えなくなって、走って帰ってきちゃった」
最悪だ。
もう救いようがない。
とりあえず今度会ったら八分の七殺しだ。半殺しなんて、甘過ぎる。
「だから、もしかしたらやっぱり朋也くんはお姉ちゃんのことが好きなのかなって……」
「……え?」
走る。
衝撃。
椋の、あたしから見れば被害妄想以外の何物でもない発想はもちろんだが。
それ以上に。
朋也があたしを好きだって、その言葉。
もちろん、本人から発せられたものではないし、何の確証もない。今回の件だって、ただ純粋に間違っただけのことだろう。あいつはそんな奴だ。
でも。
ただ、「朋也があたしのことを好き」、その言葉だけで。
あたしの心は、認めざるを得ないくらい、大きく、揺れた。
「な、な、何バカなこと言ってんのよ。そんなの意識せずに間違ったってだけでしょ?」
「でも、意識してないってことは無意識の内にそっちを覚えてたってことだし……」
「あ〜もう、そんなことないわよ。だって朋也ってそういうミス、日常からするような奴じゃない!?」
「お姉ちゃん、朋也くんのこと、よく知ってるね」
「だぁ〜っ!! だから、違うって言ってるのっ!!」
被害妄想だ。
それもかなり重度の。
こうなってしまえば、あたしから何を言ってもこの子は「そういう風に」受け止めてしまうに違いない。
頭が痛かった。
「だって、お姉ちゃんと朋也くん、昔から仲良いし……」
「だ・か・ら。あいつはただの元クラスメートで――」
「それで?」
「それで――」
それで、何だというのか。
ふと、考えてしまう。
元クラスメート以外の、何だというのか。
友達? 喧嘩相手? 彼女のお節介な姉?
あたしが、あいつの。
いったい、何だというのか。
あいつが、あたしの。
いったい、何だというのか。
「……初恋の、ううん、今でも好きな……相手」
「……え?」
再び、あたしは、言葉を失う。
思いもしなかった椋の言葉に。
「思おうと」さえしなかった、いや、むしろ無意識に思うことを避けていたともいえる――
――――事実に。
「……違う? お姉ちゃん?」
半ば確信した目で、椋が、問う。
普段は意識しなくとも、双子だけあってその顔はいつもあたしが鏡で見るそれとよく似ている。
だからそれはまるで――
――自分自身に問い詰められるような。
あたしは、いつしか、そんな錯覚に陥っていた。
「ち、ちが……」
違う?
いったい、何が。
何が、違うというのか。
「ごめんね、お姉ちゃん。私、知ってたよ。お姉ちゃんが、朋也くんのこと、好きだってこと」
「だ、だから、違うって言ってるでしょ?」
違う違う違う。
あたしがあいつを好きだなんて、認めない。認めちゃ、いけない。
「ううん。違うの。違うの、お姉ちゃん。無理してる。私のために、無理してる」
「無理なんか……」
「分かってたんだ。私、私が協力してって言えば、お姉ちゃんはきっと自分の気持ちを押し殺して、協力してくれるって」
「やめて、聞きたくない」
私は目を閉じて、耳を手で塞いだ。
恐かった。椋の話を聞くのが、恐かった。
自分の気持ちを知るのが、恐かった。
「私ね、お姉ちゃんには勝てる気がしなかったの。私よりずっと朋也くんに、近かった。だから、お姉ちゃんに協力して、って」
「やめてっ!!」
刺さる。胸に、刺さる。椋の話が、私の胸に、刺さっていく。
でもそれ以上に、きっと、この子は、自分自身の胸に刃を突き立てている。
「ずるくて、卑怯で。分かってるんだ。自分でも、ちゃんと」
「もういい。いいから」
「それでもっ! それでも、私は朋也くんのそばにいたかった。他では勝てないけど、私のこの気持ちだけは負けない自信があったから」
いつの間にか、あたしの頬を冷たい何かが流れていた。
椋の独白を聞きながら、あたしは。
気づいた。
気づいてしまった。
気づかないようにしていた、自分の、気持ちに。
そう。
あたしは。
きっと、ずっと。
朋也のことが――
――好きだった。
「がんばって、私のこと、好きになってもらうつもりだった。……でも、今日のことで、ちょっと自信がなくなっちゃった」
あはは、と乾いた笑いをみせる。
でも、弱気で泣き虫な、あたしの妹は、一滴の涙すら見せていなかった。
対するあたしの目からは、次々と新しい、涙。
「……」
何も、言えない。
椋の懺悔にも似た独白を聞いて、だからといって、何をしてよいのか、何をすべきなのか分からない。
どうして。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
ただ。
ただあたしはこの子に幸せになってほしくて。
「でもね、やっぱり私、朋也くんが、好きだから。もうちょっとがんばってみるよ」
「あた、あたしは……」
うつむくと、涙が床を濡らした。
あたしは椋みたいにはなれない。
自分の気持ちを知って、それで、妹の彼氏相手にどうしろというのか。
「だからね、お姉ちゃん?」
呼ばれて、ビクっと顔をあげる。
あたしよりずっとずっと強い、妹の顔があった。
「私は、朋也くんを、諦めたくない。でも、お姉ちゃんも、朋也くんが、好き。だから――
――勝負を、しよう?
笑顔、本当に笑顔で、椋は言った。
「……え?」
「私とお姉ちゃん、どっちが素敵な女性になれるかの、勝負」
「……勝負?」
「そう、勝負。朋也くんをかけた、真剣勝負」
そう言って、椋はあたしの身体を、包み込むように抱きしめた。
思っていたより、ずっとずっと大きな妹が、いた。
「ごめんね、お姉ちゃん。ずっと辛い思いさせてたね。ごめんね」
「……そんなこと、ないわよ」
妹に抱きしめられながら、姉は涙を流し続けた。
妹の声も、震えているような気がした。
どれぐらいそうしていただろうか。
気づくと、頬は既に乾いていた。
「だいたい椋のくせに生意気なのよ」
「だってお姉ちゃん、ずっと我慢してたでしょ?」
「もう、せっかくあたしが気を利かせてやってたっていうのに。どうなっても知らないわよ?」
「それは宣戦布告とみなしていいの?」
「さあ、どうかしらね」
「言っておくけど、朋也くんの現彼女は、私だよ?」
「それぐらいのハンデはあげるわ」
「言ってくれるね、お姉ちゃん」
しばらく、あたしたちは笑い合った。
なんだか、すごく笑いたい気分だった。
いつの間にか妹は大きくなっていた。
あたしの手なんて、もういらないぐらいに。
一人の女として、私のライバルになるぐらいに。
あたしよりもずっと、たくましく。
それが嬉しくて、でもちょっと悲しくて、寂しくて。
とにかく、笑いたい気分だった。
でも。
それでも。
あたしにとって、椋という子は。
「お姉ちゃん?」
「ん、何?」
「もしどんなことになってもね? 私は――
――お姉ちゃんのこと、大好きだよ?
何より可愛い、最高の。
――あたしもよ、椋
最愛の、妹だった。
第二期第一回クラナドSS祭り お題『愛』 出展。
初SS。祭り時のタイトルは「最愛の、人」 なんとなく変更。
今見ると結構拙い感じがするということは、恐らくこれを書いた時よりは成長できたということなのでしょう。
ペンダント間違えネタは結構ありふれたものだと思ってました。書くのためらったぐらい。ですが、思ったよりも(少なくともそのネタに関しては)高評価を頂けたようです。
どうやら僕は藤林姉妹が大好きらしいです。できればどちらも幸せになってほしいなぁとか思いながら書いてました。
僕の書く藤林姉妹は多分こんなんばっか。物語の中でぐらい幸せであってもいいと思います。
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