「買い物に行ってくるけど、アスカ、何か買って来るものある?」
シンジが声をかけたのは、昼食を食べてからまだ一時間と経たない頃だった。
彼の右手には最近使うようになった買い物袋がある。第三新東京に越してきてからというもの、彼の「主夫」としてのスキルは日々磨き続けられていた。
「んー、そうねぇ。今は抹茶のアイスが食べたい気分かしら」
リビングのソファーに転がったまま、アスカはいかにも気だるそうに答えた。
赤色のタンクトップに同じく赤色のショートパンツ。肌の露出は水着のそれと大差ない。そんな同年代の男からすれば生唾ものの格好も、毎日多くの時間を彼女と過ごすシンジにとっては、今さら何か特別な感情を抱かせるものではなかった。
「分かった。あったら買ってくるよ。抹茶のアイスだね」
随分と気の抜けたアスカの様子に内心苦笑しながら、シンジはそう口にした。
「アンタバカぁ? あったら、じゃなくて、絶対に買ってくるのよ。いいわねっ?」
「はいはい」と、シンジは適当に返事をする。
「何よその返事。ちゃんと分かったのっ?」
そんな彼が気に食わなかったのだろう。眉を吊り上げて、アスカは非難するように言った。無論、ソファーに転がったままの態勢で。
「分かってるよ」
今度こそシンジは苦笑を隠しきれない。彼女のそれがあくまで表面的なものであることを彼は知っていた。怒った振りをして言うことを聞かせる。少し子供っぽいそのやり方も、種が割れてしまえば可愛いものでしかない。
「抹茶のアイスを絶対に買ってくる。それでいいんだろ?」だから、シンジは従うことにした。
「そうそう、分かってるじゃない」
打って変わって、機嫌良さそうに頷くアスカ。「いってきます」と言うシンジに、「いってらっしゃい」と素直に返すところからも、それは容易に知れることだった。
いつかの子守歌
事情を知る一部では世界の終焉とされていたサードインパクト。そんな地球規模の危機を未然に防いだのは、わずか14歳の子どもたちだった。公にその事実が明かされることこそなかったがそれは半ば公然の秘密といえるようなもので、現実には多くの人間が、「チルドレン」と呼ばれる彼らの功績を認めていた。
とはいえ、彼らは英雄であるとともに、まだ14歳の子どもでもあった。本来ならば戦後(と表現して良いだろう)の雑務が山として存在するところ、彼らチルドレンはいち早く自由な日々を手にしている。最後まで子どもたちに頼らざるを得なかった大人たちの、それが小さくも大切な意地だった。
シンジは、そういった事情の全てとまではいかなくとも、おおまかなところはだいたい理解していた。現在も戦後処理に連日動き回っているミサトやリツコ、加持(死んだということにして裏で色々やっていたらしい)などには申し訳ないと思いつつも、ようやく手に入れた平穏な毎日を彼は噛みしめるようにして過ごしている。
買い物のために商店街へと向かう道中を、シンジはいつもゆっくりと景色を眺めながら歩く。いつかミサトが口にした言葉が今も彼の胸には残っていた。僕が守った街。そんなことを考えて、シンジは、誇らしいような、でもちょっとくすぐったいような気持ちになる。
しばらくの後、昨日も訪れた商店街にシンジは今日も辿り着いた。
毎日のように通っているからだろう、既に馴染みとなっている顔にシンジは何度も声をかけられた。彼らとて第三新東京に住む人間であるから、先の使徒戦においてシンジの果たした功績については大なり小なり聞き及んでいる。でも彼らは必要以上にシンジを英雄扱いしない。平穏な日々を望む彼のことを誰もが知っていた。
シンジは行きつけの肉屋に顔を出した。昨日の晩は魚の煮付けを作ったから、今日のメインは肉料理にするつもりだった。彼自身は二日続けて魚料理でも構わないと考えているのだけれど、同居人の少女はその辺り非常にうるさいのだ。
陳列された肉と価格を相手にしばしの睨めっこ。今日は久しぶりにハンバークにしよう、と彼は決めた。合挽き肉を六百グラム。三人の分量としては随分と多い。けれど、それぐらい用意しないと満足しない女性が二名程いるのだから、多少値段と手間が大きくなろうと、シンジもそこで妥協はできなかった。何より、自分の作ったものを美味しいといって食べてくれるのは彼にとって何ものにも代えがたい喜びだった。
つけあわせの野菜などを二つ隣の八百屋で揃えてから、シンジは帰宅の途へと就く。
行きと同じように、ゆっくりと景色を眺めながらシンジは歩く。彼はそういう緩やかな時間が好きだった。常に使徒を警戒し、訓練に追われ、使命に潰されそうになりながら過ごしたあの期間。もちろん嫌な思い出ばかりというわけではない。大切なものをたくさん手に入れたのも間違いなかった。でも、それでもやっぱり自分には平凡な日常が一番だ、とシンジはそう考える。
そういえば、とシンジは思う。アスカはどうなのだろう、と。
才能に恵まれ、そしてそれに負けない努力をしてきたアスカは正に天才と呼ぶに相応しい存在だろう。そんな彼女は、さしたる動きも無い今の日常をどう考えているのだろうか、と。
「帰ったら聞いてみよ……あっ、やば」
突如、彼の歩みが止まる。顔をしかめて、続けた。
「……アイス、忘れてた」
アスカに頼まれていた抹茶のアイス。その存在をシンジはまるっきり忘れてしまっていた。最近どういうわけか抹茶にハマっている彼女のことだ。このまま帰ればお仕置きされるのは目に見えている。
コンビニに寄るしかないか、とシンジは考えた。アスカが一番好きなのはこれまたどういうわけかサーティワンのアイスで、恐らく、というよりは間違いなくそれを期待していることだろう。でも今さら商店街に戻るのはあまりにも億劫だった。だから次善の策として、彼はコンビニのハーゲンダッツを採用することにする。ハーゲンダッツよりもサーティワンの方が好きだという彼女の好みがシンジには理解できない。
コンフォート17からそう離れていないコンビニにシンジは入っていった。
そこで彼は、アイスと、それから二つ別のものを買った。
「おっそーい」
ただいま、というシンジの声に対する返答はそれだった。アスカはリビングに仁王立ちして待っていた。もちろん、それが表面だけで、決して本当に彼女が怒っているわけではないことを、シンジはきちんと分かっている。
「ごめんごめん、それよりアスカ、今日はハンバーグにするから」
だから、そうやって話を逸らすことにした。
「ほんとっ。よし、なら許したげるわ」
嬉しそうにアスカは言う。くるくるとよく表情が変わるなぁ、とシンジは改めて思う。それだけ感情に素直なのだろう。彼にはそれが少し羨ましくもあった。
買い物袋を冷蔵庫の横に置き、シンジはそこからアイスと付属のスプーンを取り出した。
「はい、アスカ。言われた通り、抹茶アイス」
「ちょっとバカシンジ、アンタ、アタシがサーティワン好きなの知ってるでしょ?」
予想違わず、文句を言うアスカ。それに対して、シンジは事前に考えていた言い訳を披露した。
「あそこはここからちょっと距離があるから、歩いて帰ってくるまでに溶けちゃうかもって思ったんだ。溶けたアイスなんてアスカも嫌だろ?」
詭弁だった。ドライアイスを使えば解決することでしかなかった。
「う、まぁ、そうね。仕方ない、許したげるわ。値段的にはこっちが高いんだしね」
そんな詭弁にアスカは見事欺かれる。アイスを持ち帰った経験が無い故の敗北だった。持って帰って食べるぐらいならその場で全部食べてしまいたいし、他人のために買うなんて言わずもがな、アンタのものはアタシのものが信条の彼女だった。
言い訳が上手く通用したことに満足して、シンジは買ってきたものを冷蔵庫へと詰め込み始める。アスカは早速アイスの蓋を開けて、それを一口含みながら、覗き込むようにしてシンジの様子(というよりはむしろ詰め込まれる品々)を見ていた。
荷物を冷蔵庫へと移し終え、今度は食器棚を開く。
「コーヒー淹れるけど、アスカも飲むよね?」
「ええ」頷いてから、アスカは言った。「でもちょっとシンジ、アンタ、まだ袋の中に何か入ってるわよ」
冷蔵庫と食器棚の間、いつもの位置に置かれた買い物袋の中には、アスカの言うようにまだ何かが入っているようだった。明らかに空気ではない膨らみがそこにはあった。
「これは」シンジは少し言いにくそうに続けた。「別に冷蔵庫に入れるものじゃないから、いいんだ」
そんな彼の様子に何かひっかかるものがあったのだろう、アスカは追及を止めなかった。
「ふーん。何買ってきたの?」
「ちょっとね」
そう言って目を背けるシンジに、彼女の興味は更に強くなる。
「まだるっこしいわね。見せなさいよ、それ」
「いや、勘弁してよアスカ」
どうせちょっとエッチな本とかだろうけど、と予想を立てつつ、アスカはシンジが隠そうとする買い物袋を半ば無理やり手に取った。女の子とはいえ全く興味が無いわけでもないのだ。
袋の中を覗き見る。
彼女の予想は、大きく外れていた。
「花とワイン? 何それ、全然隠すことないじゃないのよ」
赤い花とボトルワイン。至って普通の買い物で、特に隠す必要は無いように感じられる。
「うん、そうなんだけど」
シンジの答えは相変わらず鈍かった。さては、とアスカは一つの可能性に思い当たる。
「もしかしてアンタ、それを誰かにプレゼントするとか。うわぁ、意外とやるわね、シンジって」
からかい口調のアスカに、シンジは顔を真っ赤にする。色々なことを経験して多少成長したようには見えても、人というものはそう簡単に変わらないものだった。
「そ、そんなわけないだろっ。こ、これは……」
「これは?」
シンジは一瞬悩んで。
それから、躊躇いを振りきるように、口を開いた。
「明日、母の日だから。母さんのお墓に添えようと思って」
あの墓にユイはいない。それは分かっていた。
でもきっと繋がっているだろう、とシンジはそう思う。エヴァは既に凍結され、チルドレンといえど(むしろ操縦者であるチルドレンだからこそ)手の届くところに行くことは許されない。だとすれば、母に一番近い場所はあの墓地に違いなかった。
「ふーん」
アスカにはそれ以上追及することも無かったし、そもそもシンジの言葉に対して何かを言うことはできなかった。
エヴァの中に眠るユイとキョウコ。シンジと同じように、アスカもその存在を理解していた。誰から教わったわけでもない。使徒との戦い、その極限のところで、自分をずっと守ってくれていた存在に気づいたのだった。
だからといって、母親に対する感情がそれで全て奇麗なものになったわけではない。アスカは今でも、人形を見る母親の姿を忘れてはいない。自分を置いて行った母親の姿を忘れてはいない。例えそれがエヴァに魂を残した結果だったとしても、だ。
ただ、母親に対する感情が随分と柔らかくなったのも、間違いのない事実だった。
「ま、喜んでくれんじゃない? アンタのママもさ」
「……ありがとう、アスカ」
アスカは気づいていた。シンジが花とワインとを隠そうとしていたのは、母親に対する自分の感情を考慮してのことに違いない、と。
普段から気を使い過ぎる程に使うシンジの、でもそういったところが今では嫌いではなかった。昔はそれさえ気に入らなかったのだけれど、自分も少しは変わったのだろうか、とアスカは思う。
「じゃあ、コーヒー淹れるから」シンジはくすくすと小さく笑いながら続けた。「あ、アスカ」
「何よ」
笑うシンジの様子が気に入らなかったのか、アスカは憮然として言う。
「あんまり考え事してると、アイス溶けちゃうよ」
「あ、やばっ」
シンジの言葉に、アスカは、手に持ったアイスの存在を思い出す。器を傾け、溶けかけた部分を飲み込むようにして口の中へと入れ込む。そうしてから、彼女は右の拳を握りしめた。
「こーのバカシンジっ、そういうのはもっと早く言いなさいよっ」
ごん、と鈍い音がリビングに響いた。
その晩は何故か宴会になった。
久しぶりに早く帰宅できたミサトの「今日は飲むわよ」という言葉が始まりだった。ハンバーグを始めシンジの用意した料理もそれに拍車をかけることになった。
料理が半分程なくなった頃、シンジの買ってきたワインをミサトが目聡く発見した。激しい攻防戦の結果、ワインは見事守り抜かれた。決め手はアスカの援護だった。シンジはアスカに感謝し、アスカはシンジに新しい服を要求した。いつものことだった。
最初に潰れたのはアスカだった。ミサトに対抗してハイペースで飲み続けたのが原因だろう。ソファーを占領してすーすーと寝息をあげるアスカの様子に、シンジとミサトは顔を見合わせて微笑んだ。
「静かにしてたらこんなに可愛いのにねー」と、アスカの頬をつつきながら、ミサトが言う。
「でも、やっぱりアスカは元気じゃないと」シンジは正直にそう答えた。
「あれれ、もしかしてシンちゃん、アスカにホの字?」
「ち、違いますよ」酔いのせいだけではない顔の火照りを感じながらも、シンジは静かに続けた。「ただ、あの時みたいなアスカは、もう見たくないから」
「……そうね」
アラエルによる精神攻撃を受けた時の彼女の様子を、シンジは今でも忘れることができない。まるで幼い子どものように泣き叫ぶアスカ。使徒を倒した後も以前とは全く違う態度を取るようになったアスカ。
あの頃を知ればこそ、今の何でもない日常が、再び手に入れた笑い合える関係が、何にも代えがたいとても大切なものだと思えるのだ。
「どんな人だったんでしょうね、アスカのお母さんって」と、シンジは漏らすように呟いた。
「とても優秀な人だったと聞いているわ。魅力的な女性だったとも」
「アスカのお母さんなんだから、きっとそうだったんでしょうね」
シンジは十年後、二十年後のアスカを想像する。自分なんかとは比較もできない、色々な意味でとにかくすごい人物に違いなかった。
「シンちゃんは」聞いていいことなのかどうか一瞬迷って、ミサトはやはり聞いてみることにした。「お母さんのこと、どう思ってるの?」
「……そうですね」
シンジは目を瞑る。そうやって母親のことを考える。
「エヴァの建設に関わったんだから、やっぱりすごい人だったんでしょうね」
「……そう」呟くようなミサトの声は随分と鈍かった。
ミサトが聞いているのはそういうことではない、とそれぐらいのことはシンジにも分かっていた。だから、続けた。
「エヴァに乗ってると、たまに母さんの存在を感じたんです。ATフィールドを張る時なんか特に。アスカじゃないですけど、だから、ああ、僕のこと守ってくれてるんだな、って思ったんです」
「……そう」先ほどと同じ呟きを、今度は違ったニュアンスでミサトは使った。
シンジの言葉から、彼が母親に対してそう悪い感情を持っていないことが分かった。ミサトにはそれだけで十分だった。
親を憎むなんて悲し過ぎるから。自身の経験を顧みて、ミサトは強くそう思うのだ。
「明日」
「ん?」
「……母さんの墓に行ってきます。母の日なんて今まで意識したことなかったけど、全部終わった今なら、ちゃんと向き合えるような気がして」シンジは少し照れくさそうに言った。
「シンちゃん……」
どうしてこの子はこうも強くあれるのだろう。ミサトは思う。そして、それを強要したのが自分たち大人だとすれば、その罪はどれだけ深いだろう、と。
ミサトは目から零れそうになる涙を耐えるのに必死だった。出来ることならば、ぎゅっ、と力の限りシンジを抱きしめてやりたかった。ただ、それをしてしまえば自分の涙はもう止められないということも分かっていて、だから動きかけた腕に言い聞かせてそれを堪えた。
この子は、この子たちは、誰よりも幸せにならなければならない。世界に幸せの方舟があったとして、この子たちはその搭乗を誰よりも優先されるべきだ。ミサトは改めて自覚する。私たち大人にはそれを見守る責務がある、と。
「……ミサトさん?」
黙り込んだミサトに疑問を覚えたのだろう、シンジが下から顔を覗きこむようにして言った。
「ううん、何でもない」ミサトは軽く首を横に振って、続けた。「ごみん、じゃあそろそろ寝るね。悪いんだけど、アスカお願いできる?」
「あ、はい。大丈夫です。ベッドに運んでおきます」
これ以上この場にいたら、ミサトは嫌でも泣き出してしまいそうだった。それを避けるために結局またシンジを頼ることになってしまったけれど、それは仕方のないことだった。年長者として、簡単に家族に涙を見せるわけにはいかなかった。
「ごめんね、ありがと。じゃあおやすみ、シンちゃん」
「はい、おやすみなさい、ミサトさん」
リビングを後にするミサトを見送ってから、シンジは立ち上がる。寝るまでの間に少しだけでも片づけておこうと考えた。
自分の寝室から持ってきた毛布をアスカに掛けてやる。そうしてから、シンジはしばらくの間彼女の眠る姿をぼんやりと眺めていた。
アスカのこと。自分のこと。アスカの母親のこと。自分の母親のこと。ミサトと話したせいだろう、アルコールのせいであまりはっきりとしない頭の中を、色々な考えがぐるぐると回り続けていた。
シンジは目を瞑る。そうやって、遠い日の母を思い出そうとする。その顔を思い出そうとする。その声を思い出そうとする。その腕の温もりを思い出そうとする。その全て、上手く行くことはなく、シンジはため息をつく。
瞼を開くとそこには目の前で眠るアスカの姿がある。眠ってる時はいくらアスカでも無防備なんだよなぁ、とシンジは思う。何か悪戯でもしてやろうかと考えて、後の報復に身を震わす。
シンジは二、三度首を横に振ると立ち上がった。机の上に残っていた皿を流しへと持っていく。
水道を捻り、桶に水を溜めていく。水が溜まるまでの、ほんの僅かな手持ち無沙汰な時間。
彼は、ある歌を口ずさみ始めた。
眠れ 眠れ 母の胸に
意識して歌い出したわけではなかった。
ただ、自然と、その歌が口から出てきたのだった。
眠れ 眠れ 母の手に
水の溜まった桶の中から皿を取り出し、スポンジでこすっていく。
自分が子守歌を歌っていることに気づいたのはようやくその頃のことだった。
こころよき 歌ごえに
シンジはそんな自分に驚き、でも構わずに歌い続ける。
どこか懐かしく、温かく、同時に少し切ないメロディーが、彼の口から紡がれる。
結ばずや たのし夢
静かなリビングに、シンジの優しい歌だけが流れ続ける。
まだぼんやりとしている頭に、どこか懐かしいメロディーが染み込んできた。
アスカは目を瞑ったままそれに聴き入った。その声はどこまでも優しくて、アスカはどうしてか自分が泣きそうになっていることに気づいた。
何の歌だろう、とアスカは思う。強力な眠りへの誘惑と戦いながら、彼女はその歌に集中する。
眠れ 眠れ 母の胸に
眠れ 眠れ 母の手に
おぼろげな頭で何とか歌詞を理解する。
そうして、気づく。
ああ、これは子守歌。道理で眠くなるわけね。
あたたかき その袖に
つつまれて 眠れよや
心地よい声に包まれながら、アスカは思う。
この歌、アタシも知ってる――
Schlafe, schlafe, holder, suser Knabe,
突然聴こえてきた歌声に、シンジは驚いて歌うことを止めてしまった。同時にそれまで動き続けていた皿洗いの手も止まる。
彼は後ろを振り向く。ソファーの上で眠ったような姿のまま、アスカの口から、シンジが歌ったそれと同じメロディーが、違った言語によって紡ぎだされていた。
leise wiegt dich, deiner Mutter Hand;
美しく、澄んだ声だった。
ドイツ語なのだろう、その歌詞を聞き取ることはできない。が、それも子守歌であることは明らかで、何よりそれを歌う彼女の声にシンジは聴き惚れていた。
sanfte Ruhe, milde Labe
シンジはそこに自分と母親の姿を想像する。
アスカとその母親の姿を想像する。
誰もが笑って、幸せに過ごせた時間を想像する。
bringt dir schwebend dieses Wiegenband
歌が終わる。
静かな時間が、彼らの間を流れる。
「ごめん、アスカ。起こしちゃった?」
何と声をかけようか迷って、結局シンジの口から出てきたのはそんな平凡な言葉だった。途中だった洗い物を放り出して、彼はアスカの座るソファーの方へと向きなおる。
シンジの顔には苦笑が浮かんでいる。もしも子守歌でアスカを起こしてしまったのなら、これほど本末転倒な話はない。
アスカは、ふるふる、と首を横に振ることで返事をした。
ほっと息をつくシンジ。眠る彼女を起こしてしまった時の恐怖を彼はよく知っている。
シンジは冷蔵庫からオレンジジュースを取り出す。酔いつぶれて眠った彼女だ。喉が渇いているに違いない、とシンジは考えた。
飲む? シンジが聞く。
ありがと。アスカが答える。
ジュースの入ったコップを受け取ると、アスカはそれを一口に飲み干した。ふぅ、と小さく息をついて、空になったガラス製のそれをぼうっと眺める。
シンジはそんなアスカの様子を横目に、ソファーへと腰を下した。
「ねえ、シンジ?」
横に座ったシンジをアスカが呼ぶ。どこかふわふわとした空気が今のアスカにはあった。まだ眠いのだろう、とシンジは考える。
「ん? どうかした、アスカ?」
「さっきの歌」
「あ、ああ」シンジは恥ずかしそうに鼻を掻いた。「何か、無意識の内に歌っちゃってたみたいで」
「違う」と、アスカは首を横に振った。
「え?」
「……アタシ、歌ってた」
ぽつり、と。呟くように、アスカは言った。
シンジにはその言葉の意味を捉えることができない。
「アスカ?」
「……アタシ、さっき、歌ってた。歌えたのよ」
アスカの声は震えていた。
そんな彼女に何を言えばいいのか、何を言うべきなのか、シンジには分からなかった。だから、彼は「うん、凄く上手だった」と、素直な感想を述べるに止めておいた。
アスカは、自分の肩を、ぎゅっ、と抱いた。
「思い出したの」と、アスカは言った。
「思い出した?」
シンジの問いかけに、アスカは、こく、と頷いた。
「――ママが、歌ってくれたの」
その言葉に、シンジは目を大きく見開く。
アスカの口から彼女の母親のことを聞かされるのは、アラエルの件以来、初めてのことだった。
「ママが歌ってくれる歌が好きで、だからアタシはずっと聴いてたかった。でもそれを聴いてるとすごく眠たくなって、あったかいママの腕の中で、アタシ……っ」
シンジは見た。
アスカの両の瞳から、静かに、涙がこぼれ出る。
「……ママ」
自分の肩を抱くアスカの腕に、また、力がこもる。
何を言えばいいのか、シンジにはまだ分からなかった。何を言うべきなのかも分からなかった。ただ、やらなければならないことは分かった。
否。
自分から、そうしたい、と思ったのだった。
シンジは横に座るアスカの肩に手をかけると、自分の方へと優しく引いてやった。彼女はそれに抵抗することなく、シンジの胸に顔を押しつけた。
「ママ……っ」
押し殺すようなアスカの声が聞こえた。シンジは彼女の背中の方まで手を回して、しっかりと彼女を抱きしめた。
アスカの震えが伝わってきた。シンジは抱きしめる手に力をこめる。そうすることで少しでも彼女の力になれればいいと思う。
シンジは目を閉じる。
まだ幼いアスカをその腕に抱き、子守歌を歌う彼女の母親の姿を想像する。
誰もが笑顔でいられる、そんなどこまでも優しい世界を想像する。
眠れ眠れ 可愛いわが子
シンジは、アスカを抱き締めたまま歌いだした。
囁くように。でも、しっかりと届くように。
一夜寝ねて さめてみよ
ぴくん、と胸の中のアスカが小さく反応する。
シンジは彼女の頭に手をやって、優しく優しく撫でてやる。
くれないの ばらの花
アスカのお母さんもこんな風にしてまだ小さい彼女を抱いていたのだろうか。シンジは思う。
そうであればいいと思う。アスカの記憶にそんな優しい時間が存在していることを、シンジは強く願う。
ひらくぞや 枕べに
アスカの震えはいつの間にか治まっていた。
でも、シンジは彼女の頭を撫でる手をまだ止めはしなかった。
歌が終わり、小さなしじまがその場を支配していた。
嫌な沈黙ではなかった。少なくともアスカにとってはそうだった。シンジにとってもきっとそうだろう、と彼女はそう信じた。
しばらくの後、口を開いたのは彼女の方だった。
「……ママも、こうして歌ってくれたわ」
「うん」と、シンジが相槌を打った。
「何で忘れちゃってたんだろ」
アスカは自分に言い聞かすように呟いた。「ママだって、最初からずっとアタシを見てくれなかったわけじゃないのに」
両親の不和、実験中の事故、結果、母親の自殺。
決して恵まれた環境ではなかった。不幸と表現したとして、誰も何も言わないだろう。
でも。それでも。
――幸せな時間も、確かに、そこには存在していたのだ。
「自分でも歌えるようになるぐらい、ママの歌、たくさん聴いてたはずなのに。アタシ、そのこと、忘れてた」
アスカはシンジを見上げる。複雑な表情を浮かべる彼の顔が見えた。それの意味が分からないほど、付き合いの浅いアスカではない。
小さく苦笑いを浮かべて、アスカは言った。
「何アンタが困ってんのよ。別に慰めもフォローもいらないんだから。アタシはただ事実を確認しただけ。同情されることも心配されることもないわ」
ちょっとだけ泣いちゃったけどね。心の中でそう付け加える。
シンジは表情を緩めないまま、うん、と小さく頷いた。彼女の言うことをそのまま受け入れてはいないようだった。
そんな様子に、アスカはまた苦笑する。まぁその方がシンジらしいけど、と考える。
アスカはシンジの胸から身体を離す。いつまでもそうやっているわけにはいかなかった。本当は少しだけ名残惜しかったけど、惣流・アスカ・ラングレーとしてのプライドもある。
「でも」アスカは泣かされたことの仕返しをすることにした。「アンタって意外と積極的よね」
「えっ」
シンジの顔が強張る。
アスカは、にまり、と悪戯っぽい顔を見せる。
「まさかいきなり抱き締められるなんて。しかもこういう時に限って、力、強いし」
「だ、だってそれは……」
言い詰まるシンジに、アスカの笑みは一層深くなる。
「それは?」
「アスカが……」
「何、アンタ、アタシのせいにしようっていうの? 自分から抱き締めておいて。サイッテーの男ね」
「……何でもないです。確かに僕から抱き締めました」
がくん、と力無く頭を垂れるシンジ。
アスカは満足した。
「ま」だから、彼女は言った。「そんなに嫌じゃなかったし、許してあげるわ」
アスカは微笑んで。
それから。
ありがと、と小さく呟いた。
墓参りに行くシンジに、何故かアスカもついてきた。
理由を尋ねると、アスカは「アタシも母の日しようと思って」と言った。これから行く共同墓地に、もちろん、彼女の母親の墓があるはずもない。シンジにアスカの言葉の意味は分からなかったけれど、かといって、ついてくるなと言うわけにもいかず、だから今二人は並んで歩いていた。
シンジの手には昨日買ったワインが、アスカの手には同じく彼の買った赤い花がある。自分の荷物なのだから自分で持つとシンジは言ったのだけれど、アタシが持った方が絵になるでしょ、とアスカに言われると彼はそれ以上反論できなくなった。それは紛れもない事実に違いなかったから。
「そういえばさ」と、隣を歩くアスカにシンジは話しかけた。「あの子守歌って、もともとドイツの歌なんだよね」
「へえ、そうなの?」
「確かシューベルトの曲だから。もともとドイツ語だったのを、和訳したんだと思う」
「ふーん」
アスカは流すように言った。チェロを嗜むシンジとは違い、彼女にはそういったことに関する興味があまりない。
が、アスカはすぐに何かを思いついたようだった。シンジの方を見て、彼女は言った。
「シンジ、アンタ、ドイツ語覚えなさい」
突然の命令だった。
「え?」
「そんで、今度はドイツ語で歌うの。アタシが眠れない時とかに」
さも名案という風に、うんうん、と何度も楽しそうに頷くアスカ。
無茶苦茶だった。少なくともシンジにはそう思えた。
「そしたら……」
アスカは、小さく小さく。
――特別に、また抱き締めさせてやってもいいわ。
そう、呟いた。
「え? アスカ、何か言った?」
「何でもない。さ、行くわよ」
アスカはシンジの腕を取ると、歩くペースを上げた。
自然、シンジはよろけてしまう。
「ちょ、ちょっとアスカ、いきなり引っ張らないでよ」
「うるさい、アンタは黙ってアタシについてくればいいのっ」
「さっきから無茶苦茶だよ、アスカ」
「情けないわね。男ならそれぐらい受け止めてみせなさいよっ」
そう言うアスカの顔には、楽しそうな笑顔。
シンジはそれを見て、はぁ、と小さくため息をつく。
それから、ちょっと諦めたような顔を見せて。
「……ドイツ語はちょっと無理だけど」と、シンジは言った。「子守歌ぐらいなら、アスカが教えてくれれば歌えるようになるよ、きっと」
片言にしか聞こえないだろうけどね、と彼は苦笑気味に続けた。
アスカは驚いたように目を見開く。
半ば冗談で言ったことだったのに、それでも、シンジは歌ってくれるという。
アスカはどうしようもないぐらい嬉しくなる。彼の優しさにまた甘える自分を、はっきりと自覚する。
昨夜の優しい子守歌をアスカは思い出す。
いつだってその中に身を置けるとしたら、それはどれだけ幸せなことだろう。幸せな世界だろう。
彼女は昔の自分に教えてやりたくなる。世界は、確かに辛いことも多いけど、でも、アンタが思ってるよりも本当はずっとずっと優しくて、それに気づくことができたのなら、幸せなんていつだってすぐ目の前に転がっているものなんだ、と。
いつだってすぐ近くにいた少年が、それを教えてくれたんだ、と。
「帰ったら早速教えたげるから、だから、早く歌えるようになりなさいよっ、バカシンジっ!」
自分でもそうと分かるぐらいの笑顔を浮かべて、アスカは、隣を歩くシンジにそう言った。
空は青くて。
風は気持ちよくて。
二人で歩く道のりは、穏やかに流れていく。
アスカは目を閉じる。
自分を抱き締めてくれた、遠い日の母を思う。
自分を抱き締めてくれた、今もすぐそばにいるシンジを思う。
優しい時間を思う。
どこまでも優しい世界を、彼女は思う。
そうして、
アスカは歌い出す。
Schlafe, schlafe, holder, suser Knabe,
leise wiegt dich, deiner Mutter Hand;
sanfte Ruhe, milde Labe
bringt dir schwebend dieses Wiegenband.
いつか聴いた、
優しい優しい子守歌を。
The Competition of Evangelion出展作。19作中4位。ありがとうございました。
初めてのエヴァSS。やっぱりいつもみたいにど真ん中に。
文章の荒さはあるにせよ、書きたいこと全部書けたので満足です。
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