
雨が降っていた。
右手に持った傘が雨粒を受けて絶え間なく音を立てていた。とつとつ。とつとつ。嫌に耳に響くその音が私は嫌いだった。
空き地に一人、何をするでもなくただ立っていた。そうやって戻ってくるはずのない人を待ち続けていた。
とつとつ。とつとつ。
帰ってくることのない人を、待ち続けていた。
綿菓子味の雨が降る
不愉快な雨の音も、一度意識の外に追いやってしまえば気にしなくてすんだ。
私にはやらなければいけないことがあった。私にしかできないことがあった。だから、そんな音なんてすぐに忘れられた。
思い出す。
あいつと交わした会話を一つずつ。あいつと交わした約束を一つずつ。小さい頃からずっと一緒にいたから、思い出さなければいけないことはたくさんあった。
ゆっくりと時間をかけて、私は私の記憶を拾っていく。時間だけはいくらでもあった。それはとても皮肉なことだけれど。
それでも、拾いきれないものがあった。全てを覚えていられるほど私は器用にできていなかった。
怖いのは以前拾えたものを拾えなくなることだった。そうやって拾えないものが増えていくのが怖かった。
だから、何度も思い出す。焼き付ける。
私が忘れてしまえば、きっとそれで終わりだから。全部、終わってしまうのだから。
「……」
雨とは違う音に気づいて、私は少しだけ周囲に意識をやった。ざっざっというそれは、少しずつ私の方に近づいてくるようだった。
ちらと一瞬だけそちらの方を見る。映ったのは、学校に向かう途中なのだろう、私と同じ制服を着た小さな女の子だった。
彼女は、私のすぐ隣まで来てようやくその足を止めた。私はそれに何の反応もしなかった。それが私なりの精一杯の主張だった。
こんなところで何をしているのか。そんなに大切なことなのか。何もこんな雨の中。風邪をひくからやめなさい。
聞かれることも言われることも分かりきっていて、そしてその全て、既に幾度と無く自分の中で反芻したことだった。
あなたたちには、きっと、分からない。
みんな、忘れてしまったから。
そう、みんな忘れてしまった。あいつの顔も。声も。姿も。ともに過ごした時間でさえも。
今さらそれを責めようなんて思わない。彼のことを覚えている私の方が、多分、異常なんだと思う。
でも、だからこそ、私なんかに構わないで欲しかった。
みんな忘れてしまって、私一人が覚えていて。私の中だけにあるこの気持ちを、一体誰が分かってくれるのか。
私の考えとは裏腹に、いつまで待ってもその子が話しかけてくることはなかった。
雨の降る中、何も無い空き地に私と女の子が二人。傍目にはどれだけおかしな風景だっただろう。
何の変化もなく、ついには隣を意識すらしなくなった頃。
不意に、服を引っ張られる感覚。くいくいと、遠慮がちに私の制服を引くのは、もちろん、何をするでもなくずっと隣にいた女の子だった。
「……何か、用ですか?」
相手からの行動に、ようやっと私は彼女の方を向いて口を開く。言外、用が無いなら放っておいてくれという拒絶の意図を込めて。
ふるふる。
対して、目の前、小さな彼女からの答えは首を左右に二度振ることだけだった。
「……では、どうしてこんな所に?」
そろそろ遅刻を意識しなければならない頃だろう。それなのに、何故。
彼女は俯いて何かを考えるような仕草を見せる。うんと、うんと……。雰囲気としてはそんな感じだろうか。
彼女の右手にはスケッチブックがあった。所々汚れの目立つその一冊は、ぼろぼろとまでは言わずともかなり使い込まれたものには違いない。
私の視線に気づいたのか、彼女は手元のスケッチブックを一度見た。そして何かを思いついたように、左手に傘を差したまま右手だけでその表紙を器用にめくってみせた。
『上月 澪』
めくった先、黒のサインペンで書かれた元気な文字。
「かみづき、みお?」
ふるふる。さっきよりも勢いよく。
もう一枚、ページをめくる。
『こうづき みお』
やはり元気な字で、今度はそう書いてあった。
「こうづき。こうづき、みお」確認するように私は言った。
うん、うん。二度、今度は縦に首を振る。
「……あなたの名前ですか?」
うん、うん。嬉しそうに、にこにこと。
「みお、いい名前だと思います」
『ありがとうなの』一度それを見せてから、彼女はまた別のページを開く。『うれしいの』
その様子を見ながら、ようやく私は一つの考えに思い当たった。
「失礼なことをお聞きしますが」頭に浮かんだその考えはどこか現実とは離れたものに思えた。「喋れない……のですか?」
言葉を受けた彼女は、またスケッチブックを何度かめくる。やがてあるページに辿り着くと、改めて私に見せるよう少しだけ前に差し出した。
『そうなの』
そうなの。言葉にしてしまえば簡単なその四つの文字が、私に覆しようのない現実を教える。
「ごめんなさい。軽々しく聞いて良いことではありませんでした」
ふるふる。ふるふる。
何度も小刻みに頭を振りながら、彼女は慌ててまたスケッチブックをめくった。
『あのね』
「はい」
『お名前、教えてほしいの』
月曜。新しい週の始まりは私に時の流れを強く意識させる。今日のように雨が降っているとなおさらのことに。
時間の経過は確実に人の記憶を磨耗させていく。そうしていつか、私もあいつのことを忘れてしまうのではないか。思うと、私は泣きたくなった。
何よりも恐かったのは、忘れてしまったという事実さえも忘れてしまうことだった。泣くことさえ許されない、そんな未来が、恐かった。
「里村さん、今から佐織たちとカラオケに行くんだけど……里村さんも一緒に、どうかな?」
「……ごめんなさい。今日は用がありますので」
学校を終えた私は、だから、今日もあの場所へ向かう。
朝から降り続く雨の中、私はまたこの空き地に立っている。
幼かった頃、こんな日にはいつも思うことがあった。
『――ああ、雲が溶けている』
厚くなりすぎた綿菓子を溶かすために雨が降る、そんなことを考えていた。それはまだ私がお菓子の国を夢見る子どもだった時の話。
だからそう、私は決して雨が嫌いではなかった。雨が降るということは、つまり、お日様が顔を出す準備をしているということだった。
でも。
空に浮かぶ灰色の雲は、決して溶けたりしない。私はいつか、そう知った。
大きな大きな甘い綿菓子は、そうやって私の前から姿を消した。
くいくい、と後ろから服を引っ張られる感触があった。振り向くと、朝の彼女がにこにこと笑顔を浮かべて立っていた。
「……上月さん」
うん、うん、と嬉しそうに頷く。そんな彼女の様子に、私もつい笑みをこぼしそうになる。
今朝。名前を教え合った私たちは何となくそのまま学校までの道を一緒に歩いた。
雨の中、なおかつ歩きながらの状態では、さすがの彼女も筆談は難しかったらしい。学校に着くまでの間、私たちにこれといった言葉はなかった。
けれど上月さんはずっと楽しそうで、それが私にも嬉しかった。元来人付き合いの下手な私が、初対面の人にそんな印象を抱いたのは、多分、これが三度目のことだった。
「今、帰りですか?」
うん、うん。
私がこの場所に来てから、もう大分時間が経っていた。恐らく七時過ぎといったところか。
「上月さんは、何か部活動を?」
うん、うん。
そう頷いてからスケッチブックを広げようとする彼女に気づいて、私は上月さんの傘に手を伸ばした。上月さんは、にこっと笑ってそれを私に手渡すと、胸ポケットからペンを取り出して大きく文字を書いた。
『ありがとうなの』
「いえ。質問したのは、こちらですから」
ストレートな笑みが照れくさくて、私は少し顔を逸らした。
上月さんは、また一枚をめくってペンを動かす。
『演劇部なの』
「演劇?」
『そうなの』
スケッチブックを掲げて、嬉しそうに頷く。
喋れないのに、と思いかけて、でも私はすぐにそれを否定した。彼女を侮辱する考えだと思ったし、彼女ならきっとやれるのだろうとも思った。
『いっぱい伝えたいことあるの』彼女は、続けて言葉を綴る。『伝えたい人がいるの』
伝えたいこと。伝えたい人。私は少し悪戯っぽく言った。
「……恋人ですか?」
そんな、からかいを込めた言葉に、上月さんは困ったような笑みを浮かべて、そうしてゆっくりとペンを動かす。
『今は近くにいないけど、でも大切な人なの』
「あ……」
自分の迂闊さを恥じた。目の前の彼女に恋人はいないだろうという失礼な気持ちが確かにあった。あまつさえ、「伝えたい人」という言葉の重みに気づくことができずに彼女を傷つけてしまったのだから、救いようがなかった。
すぐに、ごめんなさいと謝ろうとして、でもそれよりも早く上月さんのスケッチブックが掲げられる。
『謝らないでほしいの』
「ですが……」
『平気なの』
上月さんが笑う。笑って、言葉を紡ぐ。
『帰ってくるって、信じてるの』
そんな彼女に私が言えることなんて、悲しいくらい、何もなかった。
とつとつと今日も雨が降っている。
上月さんと初めて会った時から二週間。今日で三回目の雨ということになる。上月さんはその度に空き地にやって来て、そして今も、私の隣で傘を差して佇んでいる。
ここにいる間、会話よりも沈黙の時間の方がずっと長かった。けれど、私はそれを不快だとは感じていなかった。むしろ、そう、隣に誰かがいる安心感を確かに私は思い出していた。それは私が久しく忘れていた感覚だ。忘れようとしていた感覚だ。
くいくい、と服を引っ張られて、私は上月さんの方を振り向いた。ここ最近で随分と馴染んだ感触だった。
『お腹減ったの』
申し訳なさそうな、少し恥ずかしそうな顔をしてスケッチブックをちょこんと掲げる。今日は部活動が休みだったらしい。上月さんは私のすぐ後にこの場所に来て、それからずっとこうして二人時間を過ごしていた。
可愛らしい、と表現したら上月さんは怒るだろうか、彼女の様子に私の頬もすっかり緩む。
「では、何か食べにいきましょうか」
傘とスケッチブックを持ったまま、彼女は、わーいと嬉しそうに両手を挙げる。
「濡れますよ、上月さん」笑いながら、私は言う。
とりあえず、ということで商店街まで足を伸ばしてみた。
『おすしが食べたいの』
どうしますか、と聞く私に上月さんはそうリクエストする。私はそれに対してちょっと悪戯っぽく答えた。
「嫌です……が」私は続けた。「上月さんのおごりという条件下でのみ、賛成です」
『うー』上月さんが恨めしそうにスケッチブックを突き出す。『いじわるなの』
「そんなことはありません。現実的なだけです」
うー、うー、と不満そうに上目遣いで抗議する上月さんに、私は笑みを隠せない。
私の持つ一つの傘の中で、二人、並んで歩いていた。傘を持っての筆談が難しいことは分かっていたから、空き地を出る時私がそれを提案した。上月さんも私も身体は小さい方だから、特に不都合は感じないで済んだ。
上月さんはコロコロとよく笑い、そしてまたよく喋った。つられて私も普段より随分と多弁になっているようだった。
「美味しいワッフルのお店を知っています。……ワッフル、平気でしょうか?」
『ワッフル、好きなの〜』
「すごく甘くて、美味しくて、私のお気に入りのお店なんです。いつもならたくさん人が並んでいる時間ですが、今日は雨が降っていますからきっと大丈夫でしょう」
『あのね』と、上月さんは少し申し訳なさそうに掲げる。『できればお店の中で食べたいの。そのお店は中で食べられる?』
そこでやっと、私は自分の配慮が足りなかったことを悟る。食べ物を片手に持った状態での会話が難しいことは、容易に予測できたはずだった。特に今日は雨が降っているのだからなおさらのことだ。
『パフェが食べたいの。すごく美味しいところを知ってるの』
私の様子に気づいたのか、上月さんがそう提案する。その心遣いがありがたくて、でも同時に少し自分を情けなくも思う。
「いいですね。賛成です」
私が言うと、上月さんは、うん、うん、と嬉しそうに頷いた。
目の前に並んだ二つの容器は、片方だけが空になっていた。
『うー』上月さんは恨めしそうに筆を走らせる。『パフェ、また全部食べ切れなかったの』
私はアップルティーを一口含んで、香りと味をしっかりと楽しんでから応えた。
「上月さんは身体が小さいですから、仕方無いです」
『うー』と、上月さんは先ほどと同じ言葉を綴った。『茜さんがさっきからいじわるなの』
少しの涙が滲んだ目。それを見ていると余計いじわるをしたくなるのだから、まったく私も質が悪いものだと思う。もっとも、本気で泣かれても困るからそれ以上はやらないのだけれど。
上月さんは上目遣いに私を睨んだまま、レモンティーを口に運ぶ。うー、うー。そんな彼女はとても可愛くて、例えば詩子なんかに見せたら大変なことになるだろうな、なんてことを考える。
自然と浮かぶ笑み。上月さんと一緒にいる時には笑っていることが多くなった。他人と距離を置くという姿勢が、彼女の前でははっきりと崩れてしまうことを自覚する。いくら強がったことを言ってはみても、結局私は昔から変わらない寂しがりやだった。いつだって誰かがそばにいた。いてくれた。詩子と、それに――
『あのね』
紅茶を飲んでいくらか落ち着いたのか、上月さんはもう膨れっ面を元に戻していた。
『このお店に来たのは、今日で二度目なの』
それはちょっと意外な言葉だった。
「もっと通い詰めているのかと思ってました」
注文したパフェは、私の分も、上月さんの分も文句のつけようのない味だった。値段もこの手の店にしては良心的な部類に入る。何より、注文の際に少しも迷う素振りを見せなかったから、私は、彼女がこの店に慣れているのものだと考えていた。
『教えてくれた人がいるの』彼女は続ける。『パフェが美味しいから、って、このお店を教えてくれたの』
上月さんの伝えようとしていることが。それで大体、分かった。
『でもその人は今はいなくて、だからこのお店にはそれ以来ずっと来てなかったの』
「……はい」と私は相槌を打った。
その人、とはもちろん件の恋人のことだろう。店に来ることができなかったという上月さんの心境を、私は深い部分で確かに理解できるような気がした。
『お話、聞いてくれる?』
「はい。聞かせてください」
そう答えて、私は上月さんのペンの動きを目で追った。
長い話だった。一人の男性と、一人の女性の、恋の話。奇妙な出会いから始まった二人の、楽しくて、優しい話だった。
ただ、一つだけ。どうしても気に食わないことがあった。許せないことがあった。
話の最後、男は消えることになる。女を一人、この世界に残して。
それは物語自体を否定する結末だ。あまりにも悲し過ぎた。あまりにも――私にそっくりだった。
『驚いてる?』
「……はい」迷いはほんの一瞬だけだった。「どうして上月さんはその話を私に?」
『茜さんに聞いて欲しかったの』休みなく動き続けていたペンが、また文字を作る。『茜さんなら、聞いてくれる気がしたの』
「……何故?」
『多分、茜さんも、悲しいことがあった人だから』
上月さんがそれを知っていることに、そう驚きはしなかった。直接話した覚えはないけれど、恐らく、私たちのような「失った人間」には何か通じるものがあって、お互いのそれを敏感に察知することができた。二週間という時は、上月さんが気づくのには十分だったのだろう。
「はい」と私は短く答えた。
『聞いてくれて、ありがとうなの』
「はい」
『でも』と彼女は言葉を綴る。『信じてもらえなくてもいいの』
「……どうしてですか?」
『だって』少し恥ずかしそうに、上月さんは続けた。『信じられない話なの』
「信じます」
『嬉しいけど、でも、でも』
うーん、うーん、と次の言葉を考える上月さんに、私は言う。
「上月さんは、その彼を待つのですか?」
『もちろんなの』
一瞬の迷いもなくそう書いてみせる上月さんに、私はこれまでの自分を思い出す。
あいつが消えて。でも、ほんの少しの希望にかけて待ち続けた。ずっと、ずっと、待っていた。
一年が経って、二年目も半分が過ぎた。あいつは、戻って来ない。
本当は――気づいていた。
希望なんてないって。とっくに、とっくに気づいていた。あの人は絶対に帰って来ないって。私のしていることは無意味なんだって。
だから、きっと。
これは、神様がくれたチャンスなのだろう。
上月さんに、私と同じ無為な時間を過ごさせたくはなかった。そしてそのためには、私自身がまず諦める覚悟をしなければならない。
「上月さん」
彼女は空になったティーカップを指でぐるぐると回して遊んでいた。大きな告白を終えた直後だというのに、いつもと変わらない上月さんが、微笑ましかった。多分、妹がいたらこんな感じなんだろうな、と思う。
「私も、上月さんに聞いていただきたい話があります」
うん、うん、と頷く。
『聞かせてほしいの』
スケッチブックに書かれた文字を確認して、私は話し出す。
「私には、幼馴染がいたんです」
きちんとした形で誰かにその話をするのは初めてのことだった。詩子でさえも忘れてしまった、あいつ。そのことを他の誰かに話すのには、たくさんの、本当にたくさんの勇気が必要だった。
「……驚いていますか?」話を終えた私は、先ほど上月さんがした質問を、全く同じ形で返す。
うん、うん。彼女は、いつものように二度頷いて、ペンを動かした。
『茜さんも、待ってるの?』
「……私は」
その先を言うためには、あいつの話をした時以上の勇気が必要だった。覚悟が必要だった。
上月さんはじっと私を見つめている。逃げてはいけない。これまでずっと逃げ続けてきて、それを今日、終わらせなければいけない。
一度目を瞑る。そうすると、いつも自然に思い出した。一瞬の間にたくさんのあいつが私の中を通り過ぎる。
「私は――」
デートをした。
手を繋いだ。
クリスマスパーティをした。
ずっと一緒だった。
「――忘れます」
上月さんの驚いた顔が、少し、痛い。
「一年と半年、待ち続けました」
雨の日が嫌いだった。
雨が降る度にあいつがいないことを思い知ることになった。
「希望なんてないって、とっくに気づいていたはずなのに」
それでも私は待ち続けた。
「だって、私にはそれしかなかったんです。大好きだったあいつがいなくなって、悲しくて、泣いて、だから、待つことしかできなかった」
だけど。
だけど、本当は。
「あの人は絶対に帰って来ない。分かっていたんです。私のしていることは無意味だって、ずっと理解していたんです」
止まりたかった。止めて欲しかった。
そのきっかけが上月さんだった。自分と同じ境遇にある上月さんだった。
「だから」
私は。
「もう、あいつのこと、忘れます」
それが私のためであり、上月さんのためでもある。
無いはずの希望、それはつまり絶望だ。絶望にしがみついた悪いお手本。そうして同じ悲しみを持つ上月さんの役に立てるのなら、ただただ過ぎていった私の時間も無駄にはならないだろう。
「強制はしません。私にはその権利もありません。でも、私は」上月さんを見て、私は言う。「上月さんに、私のように無為な時間を過ごして欲しくありません」
もしかしたら嫌われてしまったかもしれない。でもそれでもいいと思った。それが彼女のためになるのなら、それでもいいと、そう思った。
雨が降り続いていた。
でも店の中にいれば雨の音は聞こえなかったから、そう憂鬱にならずに済んだ。
『あのね』と、上月さんがスケッチブックをそっと掲げた。
「はい」
どんな言葉が続くのか、内心、私は不安だらけだった。
『それでも』上月さんはゆっくりと、確かめるようにペンを動かした。『待ちたいの』
彼女は続ける。
『茜さんの言うことは分かるの。誰のために言ってくれてるのかも、分かるの』
「……はい」
申し訳なさそうな彼女を見て、私は聞き役に徹することにした。
『でも、信じたいの。帰って来てくれるって、信じてるの』と、彼女は筆を走らせた。『一年でダメなら、二年待つの。三年待つの。十年だって待つの』
十年。それだけの年月でさえ、彼女は待つという。
それは、どれだけの覚悟だろうか。
『そうやって、信じてるの。そうすれば』
信じるという言葉。その重み。
『きっと、帰ってきてくれるから』
上月さんは、そこまで書いて、私に笑ってみせた。
『茜さんの待ってる人だって、きっと、帰ってくるの』
その言葉に、私のちっぽけな虚勢が、崩れた。
誰かに止めて欲しい、そう思っていた。
もう、あいつは絶対に帰って来ないって言って欲しい、そう思っていた。
お前のしていることは無意味だってなじって欲しい、そう思っていた。
でも、本当は、それよりももっと――
――誰かに、認めてほしかった。
がんばれって、ただ応援して欲しかった。
あいつはいつかちゃんと帰って来るんだって、そう言って欲しかった。
お前のしていることは無意味じゃないって、認めて欲しかった。
くいくい、と肩の辺りを引っ張られた。俯いていた顔を上げる。テーブル越しに、上月さんが私の服を摘んでいた。
『大丈夫?』気遣うように、そっと掲げられる。
「……はい」と、私はようやく短い返事をした。
喉が震えていた。上月さんの顔がにじんで見えた。
泣いているんだと、悟った。
久しぶりだった。あいつが消えたあの時以来の涙だった。
「私は」
何を言うべきか考えて、一番単純な言葉が浮かんだ。
「……信じても、いいのでしょうか?」
あいつはもう帰って来ない。いつからそう決め付けていたのだろう。いつから、彼を信じられなくなったのだろう。
『覚えてる人しか、信じてあげられないの』と、上月さんは綴った。『誰からも信じてもらえないのは、寂しいの』
ああ、そう。
きっと、その通りなんだ。
彼らはこの世界を嫌った、だから消えた。
だとしたら、彼らが帰ってくるのは、きっと世界を肯定できた時に違いなくて。
「……そうですね。あの甲斐性無しを信じてやれる、できた人間なんて私ぐらいしかいませんから」
そう言って、私は笑った。喉が震えて、上月さんの顔もにじんでいたけれど、それでも笑った。
思い出す。いつか、あいつは言ったんだ。
茜は笑った顔が一番可愛い、って。
どうして忘れていたのだろう。こんなにも単純なことなのに。
私にもちゃんとできることがあった。それはとても単純なこと。あいつが戻って来たくなるような、そんな世界を見せてやれるのは、あいつのことを覚えている私しかいないのだから。
「……私は元々、あきらめは悪い方です」
私の言葉に、上月さんは、うん、うんと頷いて、笑った。
次ページへ
back