バイトの帰り道、晩飯を買うために俺はコンビニに寄った。大学に入ってからというもの、どうにも不養生な食事ばかりになっている。野菜ジュースを飲むことで自分自身を誤魔化し続けているけれど、そろそろ真剣に自炊を決意するべきなのかもしれない。
今日は何を食おうか、とほとんど覚えてしまったコンビニのメニューを頭の中でぐるぐると回す。一段と冷え込んでいるから、冷凍の鍋焼きうどんなんかがいいかもしれない。
そんな風に考え事をしていたからだろう。自動ドアをくぐる直前になって、俺はやっと自分に向けられる視線に気づいたのだった。
それがどんな存在によるものなのか、俺には相手を見るまでもなく分かっていた。目を合わせたくはなかった。「彼ら」は自分たちに向けられた視線で人を判断する。
「見える」人間なのかどうかを。
俺はガラス越しにそちらに目をやった。ガラスや鏡などを通すと見えにくくなる時と逆に見えやすくなる時がある。明確な理論は分からないけれど、物体と「彼ら」には各々相性があるらしい。だからある者は学校のトイレに備わった鏡で自分を人に見せようとするし、ある者は揺れる水面に自分を託そうとする。十円玉を動かす奴はきっとこっくりさんと呼ばれるだろう。中には携帯電話なんて今時な道具を通じて自己主張する奴もいるようだ。
今回は、「見えやすくなる」状況であったらしい。
駐車場に設置された車止めのブロックに、一人座り込む髪の長い女の子の姿があった。思ったより随分はっきりとガラスに反射されて俺の目に入ってきたのだった。彼女がそういった見えやすい(見られやすい)場所を選んだのかもしれないし、単に偶然だったのかもしれない。恐らくは後者だったのだと思う。自分と相性のいい媒介に気づき、実際にそれを利用できるのは極一部でしかないという。
こういった存在――いわゆる「幽霊」というものに、俺はすっかり慣れてしまっていた。俺の生まれた家の人間というのは、だいたいがそういう「見える」体質であるらしい。全く、面倒な家系だと思う。
これまで二十年間生きてきて、幽霊側から何かをしてくることがほとんどないということを俺はしっかりと理解していた。実害がない限りは放っておくのが一番だということもとっくに理解している。
にも関わらず、普段霊を見た時とは違って俺が彼女に興味を抱いたのは、単純に彼女がまだ幼い子どもだったからだ。恐らくは十歳あたりの女の子だった。車止めのブロックを椅子にして小さくうずくまり、夜でも明るいコンビニをぼうっと眺めている。霊体だから寒さを感じることはないだろうが、やはり見ていて気持ちのいい光景ではない。
そもそも、子どもの霊自体が珍しい存在なのだ。
俗説に語られるように、霊は物理的な肉体を持たない精神的、観念的な存在である。強い念を抱いたものが肉体を失ってもなお残り続けた結果が霊であり、だから、子どもの霊というものは実際にはあまり見かけない。子どもは大人程強い念を発することができないからだ。子どもが霊になるのは、死に際に余程強烈な情念を持っていたか、あるいは先天的に「霊的な素質」が高かったかのどちらかの場合だけだといわれる。
霊に接触するにあたり、最も手っ取り早い手段は彼らと目を合わせることである。だいたいの場合、彼らは自分の存在を生きた人間に知られたがっている。「見える」人間を探している。
俺は雑誌置き場へと向かった。その場所から彼女を見ていれば、すぐに向こうも俺に気づくことだろう。週刊の漫画雑誌を手に取りそれを読んでいる振りをして、ガラスの向こう、女の子へと視線をやる。
わざとらしく三ページ程雑誌をめくった辺りで、俺と女の子の視線が交じった。
女の子は一瞬驚いたような顔をして、すぐに顔を逸らした。彼女の長い黒髪がそれにつられて大きく揺れた。かなり慌てたらしい。
そんな女の子の様子に、俺は浮かんでくる笑みを隠しきれない。女の子の気持ちは分からないでもなかった。まさか誰かと目が合うとは考えていなかったのだろう。何とも可愛らしいものだった。
俺は変わらず女の子を見つめ続ける。恐る恐る、といった様子で女の子は少しずつこちらに顔を向ける。再び目が合う。今度は逸らさない。しっかりと交錯する。
俺は少し安心していた。成り立ちからして大人以上に不安定であるから、子どもの霊には色々な意味で激しいものが多い。理性を失っているものや、そこまで極端でなくとも自分の情念を制御できないものがほとんどである。もし目の前の女の子がそういった存在であるならば、最悪、即座に救霊(いわゆる除霊というやつだけど、俺にそれを教えてくれた人はあくまで「救う」という形にこだわった)ということになっていたかもしれない。
雑誌を置き、俺はそもそもの目当てであった晩飯を物色しに行く。俺の視線が女の子から外れる瞬間、彼女が少し寂しそうにしたのは、多分俺の見間違いではなかっただろう。
無駄に時間をかけるわけにはいかなかった。冷凍の鍋焼きうどん、それに肉まんを二つ買ってコンビニを出た。
女の子は先ほどと同じ座った姿勢のまま、店から出てきた俺を見上げる。俺は携帯電話を取り出し、メール機能で手短に文字を打つ。人目のあるところで普通の人には見えない存在とコンタクトを取る時、俺はいつもこうやって携帯を利用する。
『肉まん、食べるか?』
周囲から見て不自然に映らないように、携帯を女の子に見える位置に下ろす。左手に持ったコンビニの袋を小さく揺らしてみせる。
びっくりしたのだろう、女の子は口をぽかんと開けて、しばらくの後おずおずと頷いた。
俺はさらに文字を打った。
『ここから動ける?』
場所に縛られて移動できない、地縛霊と呼ばれる種類の霊もいる。出来ればこの寒い屋外に佇んで肉まんを食べるなんて真似は遠慮しておきたかったが、もしも彼女がそういった霊なのだとしたら、こちらから声をかけた以上俺も付き合わなければならないだろう。
こくこく。
女の子が首を縦に振った。気づかれないように、俺は小さくほぅと息をつく。
『家に帰るけど、ついてくる?』
こくこく。
そうやって頷く女の子は、俺の目にとても嬉しそうに映る。誰にも見えない、誰からも相手をされない。彼女のような理性のある幽霊にとって、そんな毎日は、味気なく、そして寂しいものに違いない。
幼女誘拐。
一瞬、そんな言葉が浮かんだ。現実にはありえないだろうけど、もしも誰かに今の状況を問い詰められたらどうしようと不安になる。飴をあげるからおじさんについておいで。考えてみると、俺のやっていることはそれと何ら変わりがない。相手が生きているか死んでいるかだけの違いである。そこが確かに大きな分かれ目となることを信じたい。
俺のすぐ横を女の子はとてとてと歩いている。ふわふわと浮かんで移動するタイプではないらしい。彼女は時々ちらちらと俺の方を窺って、目が合うととても嬉しそうに笑った。
コンビニの前で小さくうずくまっていた彼女の様子と今の笑顔とを考えると、何だか俺も嬉しくなった。だから、つい先ほど浮かんだ不健全な言葉を俺は忘れることにした。あくまでこれは幼い幽霊の保護である、と。
/
原付を走らせて大学へと向かっている。八時五十分。瀬戸際だった。
右のミラーに視線をやると、俺の後ろにいる女の子と目が合った。俺の視線に気づくと、彼女は楽しそうに笑った。昨日から行動を共にするようになった彼女は、今俺の首を抱きしめるような形で人生初の原付を体験している。
女の子を首にぶら下げておいて、でも俺の方に触られているという感覚は無かった。俺たちは物理的に接触しているわけではないからだ。霊体である彼女に必要なのは「捕まっている」というイメージである。だから、より強固なそれを得るために彼女は俺の首にしがみついているのだ。イメージさえしっかりとしていれば、例え俺が現代科学の常識を超えた速度で動いたって彼女はついてこられる。
「絵梨」
俺は小さく彼女の名前を呼んだ。原付に乗っている今なら、多少の声を出したところで周囲の目を引くことはないだろう。
視界の隅、ミラーに映った女の子、絵梨が首を傾げる。
「楽しい?」
俺の質問に、彼女はこくこくと頷いた。
その答えに満足した俺は、時間と、そして彼女のためにグリップを回した。
昼の休憩時間。
特に約束をしているわけでもないのに、学食へ向かう途中、中庭のベンチで待っていた友人、村上が合流する。一年半ほど前からほぼ毎日のことだった。
俺たちは特に何かを話すでもなく学食へと向かう。俺の右隣には、置いていかれまいとちょこちょこ急ぎ足で歩く絵梨の姿がある。が、もちろん、彼女の存在に気づいて俺に何かを言ってくる奴はいなかった。俺の左側を歩く村上には恐らく絵梨の姿は見えていたのだろうが、そもそもこいつはそんなことを気にする奴じゃない。
四百五十円のカツとじ定食を買って俺は席に着いた。村上は対面へ。人の多さ、猥雑さに驚いているのだろう、絵梨は俺の膝の上(彼女のお気に入りのポジションらしい)で忙しなくきょろきょろと周囲を見渡している。
そんな時だった。
ポケットに入れた携帯からの振動。絵梨がそれに反応して、ぴくっと身体を震わせる。
携帯を取り出すと小窓に「メール受信」の文字。折り畳み式のそれを開いて、ボタンを押し、メール画面へ。
『From 小林なつみ』
俺は頭の痛みを感じる。そういえば大学にはこいつがいるんだった。俺は自分の迂闊さを恥じる。そして絵梨をここまで連れてきたことを後悔する。
『可愛い彼女連れてますね』
文面を確認した俺は、先ほどまでの絵梨と同じように周囲を見渡す。ここから見える範囲に小林はいるはずだった。俺の様子に気づいたのか、絵梨も俺の視線を追う。
左前方、四列ほど机を挟んだ席にその姿を見つけた。小林は、こちらに向かって楽しそうにひらひらと手を振っている。肩に掛からない短めの髪は明るい茶色をしている。俺にできる表現はそれぐらいのことでしかない。シャギーを入れて軽くしている、とは本人の弁だが、生憎俺は女性の髪形に明るくないのでよく意味は分かっていない。
手を振る小林の存在に絵梨も気づいたらしい。俺を見上げる絵梨に、俺は「何でもないよ」と小さく首を振った。そうしてから、離れた位置にいる小林にも分かるようわざとらしくため息をつく。俺は小林に向けていた視線を別の場所へと移す。この際何だってよかった。俺は天井の電灯を見上げる。自分から何かに首を突っ込むのは、昨日の絵梨の件だけで充分だった。
手の中の携帯が再び振動を始めた。折りたたんだままの状態で小窓を見る。
『着信中 小林なつみ』
俺は振動を続けるそれをポケットにしまった。
絵梨が再び俺を見上げる。今の行動が不思議だったのだろう。ちょん、と小首を傾げている。
いつまで経っても、ポケットの中の振動は止まらなかった。
俺は右手側、少し離れたところにある窓の外を見る。白々しいのは自分でも分かっていたけれど、避けられる限りの面倒は避けて生きていきたいと俺は思う。
「先輩?」
左の方から聞こえてきたその言葉に、俺はささやかな努力が無駄に終わったことを知る。他の誰でもない、小林なつみの声だった。振り返って、俺は返事をする。
「ああ、小林か。どうした?」
「ちょーっとばかし酷いんじゃないですかね、今のは。意図的な着信無視は着拒(着信拒否)よりも傷つきますよ」
「かもな」
「かもな、じゃないでしょうが。立派ないじめですよこれはっ」
膝の上、絵梨の視線が、俺と小林の間を何度も往復していた。俺たちの関係を量りかねているのだろう。
どうしようか、と考える俺に、小林は軽く言い放った。
「で、この女の子は?」
メールを受け取った時から続いていた頭痛が一層酷くなるのを自覚した。この女は場というものを考えられないのだろうか。考えられないのだろう。間違いなく。
絵梨が俺を見上げて小首をかしげる。仕方ないので、俺は小さな声で小林に返事をしてやる。
「お前、こういうとこで口にするなよ。俺まで変に思われるだろ」
「心配しなくても、誰も聞いてませんよ、多分」
皮肉には気づかなかったらしい。それが少し残念だった。
「多分ならやめろ」
「……先輩はわがままだ」
いけしゃあしゃあと言い腐る小林。俺は頭を抱えるしかない。
ため息をついて、俺は小林にだけ聞こえるように言った。
「あとで説明してやるから、今は勘弁してくれ」
「絶対ですよ」
「ああ」
頷いた俺に納得したのか、小林はそれ以上の追及をやめた。俺は安堵する。群集に「おかしな人」と認識されること程辛いことはない。
お邪魔しました、と俺の対面に頭を下げてから、小林は俺たちの席から離れていった。礼儀はわきまえているようだ。俺以外の奴に対しては。
去り際に小さく手を振っていたのは、多分、俺にではなく絵梨に向けてのものだったのだろう。絵梨もそれが分かったのか、ふるふると彼女に手を振り返していた。小林にもその様子は見えていたに違いない。
小林の見送りを一秒程で終え、俺はカツとじを食べ始めた。悲しいかな、既に少し冷めてしまっていた。
「小林さん、可愛いよね。あれで黒髪だったら最高なんだけどな」 と、不意に、村上が小さな声で漏らすように言った。
俺は顔をしかめることでそれに返答する。いちいち昼飯を食う手を止めることなんてしない。限られた昼休み。時間は貴重だ。
「何だよなお前その顔はさ。この贅沢者め」
村上は不機嫌そうに言った。
確かに、客観的に見て小林の容姿は整っている方だと思う。それは認める。元気でさばさばとしたボーイッシュな魅力が小林にあるのも、まぁ認めないではない。
でも。
あいつ、小林なつみは、端的に言って、変人である。
バイト中、突然虚空を見つめ出す。誰もいない場所に向かって「今忙しいから後で相手したげる」なんて言い出す。心霊スポットに行けばまず間違いなく何かが起こる。
小林は、俺と同じぐらい、あるいはそれ以上に霊に敏感な体質の持ち主であった。加えてそれを周囲に隠そうとしないから何とも性質が悪いのだ。
オカルティズムを否定する人間からすれば彼女の奇行は気が違っているようにしか見えないだろうし、例え霊の存在を認める者であっても、だからこそ普通はあまり近寄りたくはない存在だろう。何も無いところでいきなりクスクスと笑い出す小林の姿は、恐怖の対象にははなっても決して可愛いものではない。
まぁ、目の前の友人にはその辺りがまた魅力的に映るのかもしれないけれど。
ほとんどの場合は俺も彼女と同じものが見えているから、俺に関しても小林を恐がるなんてことはない。でも、たまに俺にも見えないものを見ている小林には驚く他なかった。そんな人間、俺は彼女以外には一人しか知らない。その一人というのが俺に霊のことを色々と教えてくれた人で、多分日本でも指折りの霊能者だった。まさか小林があの人と同等の力を持っているとは思いたくない。
昼飯を食べ終えてもすぐに立ち上がる気にはならなかった。コップに残った水をちびちびと飲みながら、俺達は食後の休憩を取っている。
俺はポケットから携帯を取り出して、メールを打つ振りをする。絵梨が暇そうに俺を見上げていたからだ。
『さっきの女の人、どうだった?』
もちろん、小林のことだ。
『あの人、わたしのこと見えてるの?』
俺の打った文の下、改行を挟んで絵梨の言葉が表示される。
昨日絵梨を家につれて帰ってから色々と実験をしたところ、驚くべきことに、絵梨はあらゆる物体と相性がいいらしかった。
五十音プラスアルファを書いた紙と十円玉を用意すれば、絵梨はまるで生きた人間が動かしているようにスムーズに十円玉を操り、意思を表現した。それどころか鉛筆を動かして文字を書くことさえ易々とこなしてみせたのだから、わざわざ五十音の表を作った俺の努力は空しいものでしかなかった。
その後も絵梨は携帯で文字を打ち、非常にゆっくりとした速度ながらパソコンで文字を打ち(もともとタイピングができないだけだろう)、あろうことか「肉まんのお礼」と言って俺にお茶を注いでくれた。幽霊にお茶を注がせた人間が俺以外にどれだけいるのか、いつか調べてみたいと思っている。
ただ、何らかの媒介無しで直接人に話しかけることはできないようだった。その理由については色々と考えられるけれど、俺たちにとって特に意味があることではないので追究してはいない。
『小林なつみっていうんだけど、あいつも俺と同じような体質で、まぁ悪いやつじゃないから安心していいよ』
『わたしを消そうとしないかな?』
膝の上に座った絵梨が、不安そうに俺を見上げる。それは絵梨にとって当然の心配だろう。だけど、俺には確信があった。小林も俺と同じように滅多なことでは霊を成仏させようとしない。何より、あいつは可愛いものが大好きだ。
『家につれて帰ろうとすることはあっても、消そうとすることはない。だから、ゆうかいには気をつけるように』
絵梨はおかしそうに笑った。
/
小林から電話がかかってきたのは、俺が有意義な昼寝を楽しんでいた時のことだった。バイトの無い日曜は、睡眠を一番の友達にするのが最も正しい過ごし方だと俺は考えている。
突然鳴り出した携帯に、俺の隣ですやすやと眠っていた絵梨もびっくりして飛び起きたようだった。小窓に「着信中 小林なつみ」という文字を見た時には、そのまま携帯を放り投げてやろうかと思った。
それでも、後輩思いの俺は身体を起こし、嫌々ながら携帯を顔に持って行く。
「もしもし」
『せんぱい、たすけてー』
棒読みだった。
「レスキューの要請は119番にどうぞ」
俺は通話を切って、横になった。
電源を切ってしまうべきかどうかを割かし真剣に考えているところで、再び携帯が鳴った。
問答無用で切ってそのまま電源を切ってしまうべきかどうかを割かし真剣に考えているところで、絵梨が紙と鉛筆を机の上から引っ張って来て、文字を書いてみせた。
『小林さん?』
俺は頷く。
『出ないの?』
絵梨の視線はどこか非難めいたものに見えた。小林を無視しようとする俺を責めているのだろう。絵梨は小林のことをなかなか気に入っているようで、一週間前に彼女と初めて会って以来、大学やバイト先で小林を見つけるとよくじゃれついていた。
俺は一つため息をついた。諦めて通話ボタンを押す。
「もしもし」
『ちょーっとばかし酷いんじゃないですかね、今のは。こっちは助けてって言ってるのに』
「緊急を要するようだったからレスキューを勧めてやっただろ」
『……先輩はいじわるだ』
「知ってる」
『うわー』
少なくともこの件に関して、小林から文句を言われる筋合はない。助けてと言われたから助かるための手段を教えてやった。それだけのことだった。
「で」 と、俺は切り出した。 「何の用?」
『えーと。何て言ったらいいのかな』
絵梨が顔を寄せてきた。俺は絵梨にも小林の声が聞こえるように、通話音量を最大にする。
『とにかく、今からうちに来ません? 面白いものがあるんですよ』
「面倒」 と、俺は小林の提案を一言で切り捨てた。
小林の言う「面白い」ほど信用のならないものは、世の中にそうそうあるものではない。
これまでこいつが興味を示してさらに俺に見せようとしたものの中には、例えば呪いの指輪や心霊写真なんかがある。そういうろくでもないものをどこかで見つけて来ては、小林は本当に楽しそうに俺に報告するのだ。性質の悪いことに、そんな時の小林は実に生き生きとしていて、多分他のどんな状況の彼女よりも魅力的である。
『もうちょっと考える素振りとか、せめて優しい断り方とかできませんかね?』
「面倒」
『……先輩は鬼だ』
「知ってる」
『今度豆撒いてやる』
俺はため息をつく。小林の言葉に対してではない。絵梨の視線がまた非難めいたものになってきたからだ。
絵梨が紙の上で鉛筆を動かす。
『行きたいよ』
端的な要求だった。
俺はまた一つため息をついてから、言った。
「分かった。今から行くから、コーヒーと茶菓子用意しとけ」
『もう出来てます。後はメーカーのスイッチ入れるだけです』
つまり、最初から俺に選択肢は無かったらしい。電話に出る前から分かっていたことだったけれど。
俺のすぐ横で絵梨が嬉しそうに笑っているのが、せめてもの救いだった。
「お邪魔します、と」
「いらっしゃいませー」
小林の家に来るのはもうこれで何度目のことだろうか。バイト仲間で酒を飲んだ時に潰れた小林を家まで送るのはいつも俺だし、今日のように呼び出されるのもそう珍しいことではない。
俺と絵梨はリビングに案内される。絵梨は俺の後ろについて、きょろきょろと室内を見回していた。初めて来る部屋に少し緊張しているのかもしれない。
コートを脱いで、俺は机の前に腰を下ろす。目の前に設置されたコーヒーメーカーからいい香りが漂ってくる。既にカップは用意されていた。
絵梨は俺の右隣に座った。俺は脱いだコートからペンと手のひらサイズのメモ帳を出して、絵梨に渡してやる。絵梨のためにいつも持ち歩くことにしているのだ。
「絵梨ちゃんもクッキー、食べられるんでしょ?」
小林の言葉に、こくこく、と絵梨は頷いた。
これはあまり一般には知られていないことだけれど、だいたいの霊は生きている人間と同じように食べる楽しみを持っている。とはいっても、食べるというよりは、味のイメージが直接流れるようなものらしい。だから羨ましいことに、彼らが「食べた」後でも食物の質量に変化はない。神仏に対するお供え物を考えれば理解しやすいかもしれない。
「クッキー、もちろん手作りですから」 と、小林は嬉しそうに言った。「愛情いっぱいです」
「結構」 と、俺は短く答えた。
「どっちの意味に取ったらいいんですかね?」
「さあ」
「……先輩はいじわるだ」
「だから、知ってるって」
「むぅ」
わざとらしく膨れたまま、小林はキッチンに向かった。
俺は窓の方にちらと視線をやった。部屋に入った時から気になっていたのだ。
そこには片手で持てるぐらいの大きさの黒い箱が置いてある。絵梨もそれに気づいているようだった。きょろきょろと辺りを見回していた視線が、今は窓際の一点に向かっている。
クッキーの乗った皿を手に小林が戻ってきた。皿を机の上に置き、小林は俺の対面に座った。
「気になるでしょ?」 と、窓の方を見ながら小林は言った。
「当たり前だろ」
うんうん、と絵梨が同意する。
その箱かあるいは中に入っているものが、小林が電話で口にしていた「面白いもの」であるに違いなかった。一目見てそうと分かるぐらいに霊的な気配を持った箱だった。俺や小林のように特殊な人間でなくても、世間一般で霊感が強いといわれるような人ならその箱の違和感に気づいたことだろう。
「この前見つけた骨董屋さんで貰ってきたんです」
嬉しそうに言う小林。
勘弁してくれ、と俺は思う。
貰った。確かに今小林はそう言ったのだ。買ったわけではないらしい。つまりそれは、その骨董屋がそうでもして早く手放したかった代物、ということではないのか。
小林は、膝をついた状態で窓際の箱に身体を伸ばして、それを手に取った。
箱が机の上に置かれる。クッキーやコーヒーを押しのける形で中央にその黒い箱が鎮座するのは、何ともいえないシュールな光景だった。
「中身は?」
「人形って聞きました」
いかにも、だった。
「まだ開けてないのか」
「やっぱりこういうのは先輩と一緒の時でないと」
小林は実に楽しそうだった。うきうきという擬態語が彼女の周りにいくつも浮かんでいるようだった。
絵梨はいつの間にかあぐらをかいた俺の脚の上に位置取っていて、そこから興味深そうに卓上の箱を眺めていた。彼女と一緒に過ごすようになってから一週間とちょっと。思った以上にアグレッシブな娘であることが最近分かってきた。
「じゃ、早速開けてください」
「開けるのは俺か、やっぱり」
「当たり前じゃないですか」
絵梨の方に目をやると、彼女も視線で早く早くと俺を急かしているようだった。
抵抗が無駄であることを悟って、俺は箱に手をかける。外から見ていただけでは分からなかったけれど、実際に触った感覚でいくとそれは木でできたものであるようだった。横に入った切れ目の上の方に手をやって少し力を加えると、思ったよりもすんなりと蓋が開いた。
三人の視線が箱の中に集中する。
小林が言っていた通り、そこには一体の人形が置かれていた。短い髪をした、中性的な印象の日本人形だった。その他は特に特徴のある見た目ではないけれど、思わず目を逸らしたくなるぐらいに強烈な霊気がその人形からは漏れていた。
絵梨がぶるっと身体を震わせるのが分かった。自分の肩を抱いて、俺たちが初めて会った時のように小さくなっている。絵梨がそうしたい気持ちも充分に分かった。こっくりさんの十円玉のように遊びで念を込めた、とかそんな域を遥かに超えてしまっていた。あまりに濃過ぎて俺にも読み取ることができない程の何かが、この小さな人形一つに詰まっている。
「小林お前、これはヤバいだろ」
俺は正直な感想を口にした。できることならばこのまま蓋を戻し、見なかったことにして家に帰ってしまいたかった。骨董屋が無料で小林に譲ったのが嫌な形で納得できてしまった。
「ゾクゾクしますね」
だというのに、小林はとても楽しそうにそんなことを言うのだ。
もう充分に知っていたつもりだったけれど、今、改めて思い知らされた。やっぱりこいつは変人だ。
「で、どうしましょうかこれ」
「どうするも何も。蓋をしてどっかに捨てるなり売り払うなりすればいいだろ。少なくとも俺は自分の近くに置いておきたくない」
心からそう思った。どんな念が込められているのかも分からない代物が身近にあるなんて、少なくとも俺には耐えられない。悪質な呪いの可能性も無いとは言い切れないのだ。
「もし私が着せ替えて遊ぶって言ったらどうします? 実は私的にはそうしたいんですけど」 と、悪戯っぽく小林が言った。
「それは逆に嬉しいかもしれない」 だから、俺もそう言ってやった。
「……どういうことです?」
「お前から距離を置くのに、これほど都合のいい理由もない」
「本気ですか?」
「どう思う?」
「……先輩はすごくいじわるだ」
知ってる、という言葉を飲み込んで、俺は先ほどから反応の無い絵梨の様子を覗き見た。
絵梨は俺の脚の上で小さくうずくまっている。人形の近くにいさせない方がいいのかもしれない。肉体を持たない精神的な存在である彼女は、俺や小林以上にこういったものの影響を直に受けやすいのだろう。
「絵梨?」
ぴく、と小さく身体を震わせて、絵梨は俺を見上げた。
「大丈夫?」
俺の言葉に、弱々しくも絵梨はこくと頷いた。
そうしてから、渡しておいたメモ帳に文字を書き始める。
『すごく、かなしいよ』
「悲しい?」 小林が俺よりも先に反応した。「どういうこと、絵梨ちゃん?」
『いない、どこにもいない……って』
「いない?」
「つーかちょっと待て」
さらに追究しようとする小林を遮って、俺は絵梨に質問した。「絵梨、この人形のこと分かるのか?」
こく、と絵梨は頷いた。
俺や小林に分からないことが絵梨に分かる。それはちょっとした驚きであった。
幽霊になったことで他の霊的存在と繋がりやすくなったのか、あるいは元々絵梨がそういった素質を持っているのか。彼女がこの年齢で幽霊となったことを考えると、後者の可能性も充分にありえそうだった。
『うまく言えないけど、気持ちが流れてくるの』
絵梨はそう説明した。
俺は小林に代わり、絵梨に人形のことを聞いていくことにする。
「それで、どこにもいないっていうのはどういう意味だろ」
ふるふる、と絵梨は首を横に振った。
『分からない。でも』 絵梨は少しの間目を瞑ってから、書き加えた。『多分、テツって人を探してる。女の人の声。テツ、テツ、ってすごく強く流れてくるの』
テツ。そのまま名前かもしれないし、例え違ったとしても普段そういう呼び方をしていたのは間違いないだろう。ある程度は絞れそうだったけれど、でもそう珍しい呼び名でもない。実際に、俺も何人かの知り合いが自然と思い出された。
小林が俺の方を見る。多分、俺たちはこの時同じことを考えていた。
「……やっぱり、持ち主の念がこの人形に乗り移ったって考えるのが妥当か。死んだ女が、彼氏か夫かに会いたがってる」
「ですね。普通に考えれば、それが一番自然です」
「だな」
「ね、絵梨ちゃん、他に何か分かることはある?」
小林の言葉に、絵梨は再び何かに集中するように目を瞑った。絵梨の小さな肩がぶるぶると震えるのが分かった。
「無理はすんなよ、絵梨」
後ろから絵梨を包み込むように腕を回す。もちろん俺には何の感触も無いけれど、少しだけでも絵梨の力になってやりたかった。
絵梨がメモ帳を持っていない方の手で俺の腕を握る。肩の震えが少し治まったように思えた。
「おおっ! 優しいですねー、先輩ったら」
「お前以外にはな」 俺は正直に答えてやる。
「……先輩は悪魔だ」
「天使とかよりはそっちがいいな」
「先輩、もしかして私のこと嫌いですか?」
「さあ。どう思う?」
「……先輩はロリコンだ」
その発言はさすがに見逃せなかった。
「ちょっと待てお前、それは訂正しろ」
「だって先輩、絵梨ちゃんに優しいのに、私には優しくない」
拗ねるように、そして媚びるように言う小林。むぅ、とわざとらしいぐらいに頬を膨らませている。
客観的に見れば確かに可愛い仕草なのだろう。が、人は主観に生きるものである。
「当たり前だ。誰がお前に優しくなんかするか」
「ちょ、ちょーっとばかし酷いんじゃないですかね、それは」
これ以上小林の相手をしても疲れるだけだと判断して、俺は絵梨の方に気をやる。
俺の腕を握る絵梨の小さな小さな手。まるでそこに本当の身体があるように感じられる。絵梨の肩の震えは既に治まっていた。
と、絵梨は閉じていたまぶたを開くと、メモ帳にゆっくりと文字を書き出した。
『ある日、テツは帰ってこなかった。それからずっと待ったのに帰ってこなかった。私は捨てられたの?』
俺は目を瞑って、その気持ちを理解しようとした。
いつまで待っても想い人が戻ってこない恐怖。
でも、所詮俺はその人形ではないから。絵梨のように直接声を聞くこともできないから。俺には、半端な同情しかしてやれそうになかった。
『テツに会いたい。かみをなでてほしい。かわいいって言ってほしい。あいしてるって言ってほしい』
俺は小林の方を見た。小林も同時に俺の方を見たようだった。目が合って、俺たちは互いが同じ考えに行き着いたことを知った。
「絵梨」 俺は絵梨に聞いた。「どれぐらいの間、その子がテツを探してるのか分かるか?」
『一年か、長くても二年ぐらいだと思う。何となく、だけど』
「テツって奴の年齢は分かる?」
『多分、二人と同じくらい』
ふぅ、と小林が息をつくのが分かった。
そのため息がどういう意味を持っていたのか、俺には分からなかった。
/
俺たちは大学に来ていた。日は既に落ち切っている。なるべく早い方がいいだろうと俺と小林の間で意見は一致していたけれど、だからといって、誰かに見られるわけにもいかなかった。絵梨は事情が分からないまま、それでも俺たちについてきている。
「どこにいると思う?」 と、俺は小林に聞いてみた。
「いつもどこで待ち合わせしてるんですか?」 小林は質問で返してきた。
「中庭のベンチ。行ってみるか」
言われてみると、確かに、あいつはいつも通りにそこで俺を待っているような気がした。
ベンチが見える位置まで来て、絵梨も事情を飲み込んだようだった。
『あの人が?』
俺は頷いた。
思った通り、その場所に彼はいた。
「よ」 と、彼は軽く声をかけてきた。
「こんばんは」
小林がそう挨拶をする。いつも程明るさを感じられないのは、これからのことを思ってのことに違いなかった。
俺は、小林の家から持ってきた箱を彼の前に差し出した。
「この子、お前の人形だよな」
俺は彼を見据えて、言った。
「そうだろ――テツ」
村上哲。こいつを名前で呼ぶのは初めてのことだった。
彼は箱を受け取った。両手を使ってしっかりと、胸元で握り締めた。
「よく分かったね」 彼は言う。「正直そんなに期待はしてなかったんだけど、持って来てくれるとしたら、お前だと思ってた。ほら、僕はどうしてか大学から出られないから」
村上哲という人間は一年半前に死んだ。大学の構内で突然倒れたのだった。心臓を患っていて本来ならば入院しているべきだったのを、どうせ治らないなら、と無茶を通していたらしい。構内での出来事だったため、当時大学では大きな騒動となっていた。霊となった哲が俺に接触してきたのは、たまたま俺が目を合わせてしまったからだった。
「この子のお陰なんだ。俺にも小林にも、この人形の気持ちは分からなかった」
俺は絵梨の方に視線をやる。絵梨は俺の手をぎゅっと握って、目の前の哲から視線を外さずにいる。
哲は絵梨を見て、それから感心したように言った。
「この子が、ね。お前や小林さんより凄いなんてちょっと信じられないけど」
「事実だからしょうがない。正直俺も信じられないけど」
「そっか。……ありがとね、お嬢ちゃん」
絵梨は、こくりと頷いた。
哲が箱の蓋を開ける。中の人形を取り出して、愛しそうにその短い髪を撫でた。待たせてごめんね。今日も可愛いよ。愛してる。哲の呟くような言葉は、不思議と響いて聞こえてきた。
人形が嬉しそうな顔で笑ったように見えたのは、俺の気のせいだっただろうか。
「哲」 と、俺は声をかけた。「これからどうするつもりだ?」
「そうだね。唯一の心残りもなくなったことだし、大人しく消えるよ。送ってくれるかな? できれば、この子と一緒に」
「分かった」
俺は哲の額に手をやり、救霊のための経文を唱える。長く、また多くの信仰を集めた結果それ自体が力を持つようになった文章である。何も知らない人間が口にしてもそれなりの効果が期待できるし、霊的な素養の高い者が意味を踏まえた上で唱えればずっと大きな効果がある。
「哲さん」
沈黙を保っていた小林が、哲に声をかけた。
「何かな、小林さん?」
「可愛いって褒めてくれるのは嬉しかったけど、正直、ちょっと気持ち悪かったです」
小林はそう言って楽しそうに、悪戯っぽく笑った。
「小林さんは最期まで容赦無いな」
哲は苦笑を浮かべる。
「でも、最期に小林さんに会えたのは嬉しかったかな」
「そんなこと言ってると、その子が嫉妬しますよ」 小林は、哲の手の中にある人形を見て言った。
「そうだね。気をつけるよ」
哲が人形の髪を撫でる。哲が向ける視線はどこまでも優しげで、それは、人同士の間に生まれる愛とかいうものと何の違いも無いように思えた。
「じゃあな、哲」
俺の経文は既に唱え終わっていた。哲の身体も随分と透けてしまっている。
「さよなら」
『ばいばい』
「ありがと、三人とも。あ、小林さん、あのね」
哲は、楽しそうに。
「実はそいつも黒髪が好きなんだよ」
小林が驚いたように俺を見る。
俺はそれに気づかないふりをする。
そんな風に最期まで迷惑をかけながら、哲は消えていった。
/
『お人形さんも、人を好きになるんだね』
哲のいない学食。彼のことを思い出したのか、開いたままの携帯の画面にそんな文字が打たれた。絵梨はいつも通り、俺の膝の上に座っている。
特に変化のない日常が今日も続いている。哲がいなくなったことに気づく奴はもちろんいない。
『哲の愛情に応えたかったんだろうな』
俺は昨日哲が消えた後にその場で焚き上げた人形を思い出す。俺や小林にも読み取れないぐらい強い強い意思を、哲を想う愛情を、あの人形は確かに持っていたのだ。
『テツさんも、お人形さんも、最後は幸せだったのかな?』
『多分な』
俺の言葉に、絵梨は少し考え込むようにしてから文字を打った。
『じゃあ、ゆうれいのわたしもしあわ』
と、絵梨がそこまで打った瞬間、手の中の携帯が振動を始めた。
何となく相手は分かっていたけれど、仕方なく、俺は通話ボタンを押す。
『先輩、やっほー。入り口の方見てくださいよっ』
嫌々ながら、俺は学食の入り口に目をやる。
思った通りそこには小林の姿があった。携帯を耳に当てたまま、こちらに歩いて近づいて来る。俺の目がおかしくなったのでなければ、髪の色が昨日までと違っている。
『午前さぼって染めて来ましたよ。天然の黒に戻るにはもうちょっとかかりますけど、とりあえずこれでどうですかっ』
こっちに着いてから喋れよ、と俺は思った。
絵梨は驚いたように小林を見て、それから慌てたように俺に抱きついてくる。
『あーっ、絵梨ちゃんばっかずるい』
俺はうるさい携帯を切った。
絵梨はいつの間にか、俺の首をかじりつくように抱きしめていた。すぐ鼻の先に絵梨の顔がある。目が合うと、絵梨は嬉しそうに笑った。
視界の隅、小林が近づいてきているのが分かった。確かに、昨日まで茶色だった髪は黒く染められていた。
そんな二人の様子にこれからの日常を見た気がして、俺はいつか哲に文句を言ってやろうと誓った。
ロリータこんぺ2 出展。25作中2位。多謝。
それにしても凄い企画名だ。
back