目が覚めた。瞼を開ける。恭子の顔がある。
 とてもいい夢を見た。ような気がする。具体的に思い出せないのは少々悔しいが、それでも朝からいい気分でいられるのに変わりはない。眼前に迫った恭子の顔を見つめながら、僕はそんなことを考える。
 恭子は相変わらず白く美しい顔をしていて、特に彼女の大きな瞳に僕は惹きつけられてならない。目に力がある、とでも表現しようか。
 瞬きをする時間すら惜しいのか、恭子は僕の目をじっと見つめている。僕は嬉しくなる。
「おはよう、恭子」
 僕は幸せな気分で恭子に挨拶をする。
 彼女は返事をしなかった。でもそれはいつものことなので、僕は気にせず、自分の身体を起こした。
 恭子と共に迎える朝はこれで三回目になる。最初の時こそ目を開けていきなりの恭子の顔に驚いたものの、昨日今日とすっかり落ち着いて対応することができるようになった。もしかすると恭子はそれが悔しいのかもしれない。とすると、明日辺りはまた変わった朝になるのだろうか。
 そこまで考えて、僕はくっくっと笑う。恭子のいる生活はとても楽しい。  起き抜けの頼りない足で手洗いに向かうと、恭子はゆっくりと僕の後ろをついてきた。僕は自分の顔に浮かぶ笑みをはっきりと自覚する。恭子を愛しく思う。
 小便を済ませて洗面所の蛇口を捻る。
 ……赤茶けた濁り水。錆びているのだろうか。昨日までは大丈夫だったのに。
 恭子はそれを僕の後ろから興味深そうにじっと見つめている。僕は苦笑して、蛇口を反対方向に捻りなおした。
 部屋掃除など滅多にしない不精者の僕でも、さすがにこの水を使う気はしなかった。やむを得ず、風呂の残り水を持ってきてそれで手と顔を軽く洗った。
 鏡に映る自分はひどく眠そうに見えた。寝癖はそうついていなかったし、面倒なこともあるので髪に手を加えることはしなかった。
 僕は後ろを向いて、恭子の顔を確認する。目覚めてすぐにも感じたように、彼女は今日も変わらず美しかった。僕の目をじっと見つめる恭子。僕の考えていることなんて簡単に読み取られそうで、僕は少し恥ずかしくなった。
「あ、時間が」
 わざとらしく呟いて、僕は洗面所を離れる。もちろん、恭子も一緒に。
 半ば言い訳めいた言葉だったけれど、時間が無いのは本当だった。今日は一限から出なくてはいけない。
 服を着替えてリビングに行き、時間を確認するためにテレビをつけた。テレビの上、高いところにある掛け時計は昨日の朝七時三十二分で歩みを止めている。お陰で昨日は遅刻した。
 七時四十分。あまり余裕はない。少し急がなければ。
 キッチンに置いてある冷蔵庫を開け、中の冷気を確かめてから牛乳を取り出す。コップを使うのもそれを洗うのも面倒なので、紙パックから直接口に入れる。僕の朝はいつだって牛乳から始まるのだ。
「ふぅ」
 立ったまま一息つく。牛乳を冷蔵庫にしまってから、後ろにいる恭子に声をかける。
「じゃあそろそろ行こうか」
 恭子はやっぱり返事をしないけれど、キッチンを出る僕の後ろをそっとついてくるから僕はそれだけで満足だ。
 家を出る前にもう一度時間を確認しようとテレビに目を向ける。電源が消えていた。消した覚えはないのだけれど。
 リモコンの電源ボタンを押す。でもテレビはつかない。よく見ると本体の電源が切れていた。しょうがないので僕はテレビの前まで歩いていって、直接スイッチを入れた。
 七時四十六分。大学へ向かう途中コンビニに寄って朝飯を買うぐらいのことはできそうだ。
 鞄を持って玄関に向かう。靴を履き、ドアを開け、外に出る。誰もいない部屋に向けて「いってきます」と声をかける。ドアを閉め、鍵をかけ、家を後にする。



 僕と恭子はずっと一緒にいた。
 地下鉄で学校に向かう間も、講義を受けている間も、食堂にいる間も。
 不審に思う人間は誰もいない。僕と恭子が一緒にいることはとても自然なことだ。
 大学を終えて家の近所のコンビニに向かう。週に三度、コンビニのバイト。
 店に入ってバイト仲間に挨拶をすると、その内の一人が声をかけてきた。
「おい、お前大丈夫か?」
 僕は彼の言っていることの意味がよく分からなかった。
「大丈夫も何も。どういうこと?」
「気付いてねーのお前? 顔色最悪。しかもふらっふらじゃんよ」
「そうかな?」
「お前確か一人暮らしだよな。ちゃんと食ってんか?」
 僕は振り返って恭子の顔を見る。恭子は僕の目をじっと見つめている。怒っているように見えなくもない。
 ごめん恭子、と僕は思う。彼は僕と恭子のことをまだ知らないし、かといって教えてやるわけにもいかないんだ。
「大丈夫だよ。ありがとう」
「いやいや、お前完璧病人の顔してるから」
 病人。
 ああ、なるほど。
 確かに僕は病気なのかもしれない。体調が悪く見えるのも、きっとそのせいだ。
 ――恋の病。
 浮かんだ考えに、僕はくつくつと笑う。
 そういえば最近食欲もあまり無い。恭子のことで胸がいっぱいなせいで、何も食べる気がしないのかもしれない。そういう話を聞いたことがある。
 これも恋の病の一種だろうか。
「おい、本当に大丈夫か? お前さ、今日は帰れよ。代わりこっちで呼んどくから」
 どうしようか考えて、僕は彼の厚意に甘えることにする。
 身体の調子うんぬんはどうでもよかった。早く帰って、恭子と二人きりになりたかった。
「じゃあ今日は帰る。ありがとう」
「おう、早く治せな」
 僕は思う。
 ごめん、この病気は治りそうにないんだ。治そうとも思わないんだ。
 僕は家への道を行く。恭子と一緒に。



 家に着いた。僕はまずシャワーを浴びようと思った。
 浴室の電気はつかなかった。しょうがないので僕はそのまま服を脱いで、浴室に入る。蛇口に手をやった瞬間に僕は思い出した。今朝、洗面所の水道からは赤茶けた水が出てきた。ここは大丈夫だろうか?
 慎重に、ゆっくりと蛇口を捻る。
 ……どろどろとした手触り。暗いからよく分からないけれど、きっと今朝と同じ赤茶けた色をしているのだろう。
 恭子はそれを僕の後ろから興味深そうにじっと見つめている。大きな瞳は白く光って見える。僕はふぅとため息をついて、蛇口を反対方向に捻りなおした。
 僕は浴室を出る。恭子もそれについてくる。
 今日は風呂を我慢しなければならないようだ。まぁいいか、と思う。僕はともかく、恭子は絶対に汗臭くなったりしない。
 裸のまま寝室まで歩く。寝室に入り、電気のスイッチに手をやる。思ったとおりこの部屋も反応は無かった。暗い中、手探りで下着と寝巻を着る。
 食欲は全くといっていい程無かった。もうこのまま寝てしまおうかと考える。恭子もそれを望んでいるように感じる。相変わらず彼女は何も言わないけれど。
 もう寝よう、僕は思う。
 今日もずっと恭子と一緒にいられた。
 素敵な一日だった。
 僕はすぐに眠りについた。
 恭子をすぐそこに感じていた。



 目が覚めた。瞼を開ける。恭子の顔がある。
 今日は金縛りにあった。目が覚めたのはそのせいだった。原因は考えるまでもない。いつもはただそこにいるだけの恭子が、今日は僕の身体を抱くようにして締め付けている。
 素敵な朝だと思った。
 恭子のお陰で早く起きられたので今日は余裕がある。玄関の新聞受けから朝刊を持ってきて、リビングでそれを広げる。
 日本はワールドカップの決勝リーグに残れなかったらしい。一面にそれが大きく出ているから、どれだけサッカーに興味の無い人間でもちょっと情けないその事実だけは頭に残ることだろう。
 右下の方に「女子大生殺害犯未だ見つからず」という文字列が見えた。もう四日も経ったのに見つけられないなんて、警察は何をやっているのだろうか。
 僕はここにいるというのに。
「ねえ、恭子」
 僕は恭子に微笑みかける。
 恭子は僕の目をじっと見つめる。大きな瞳に吸い込まれそうになる。
 さあ、と僕は立ち上がる。今日も恭子との一日が始まる。
「恭子」
 僕は語りかける。世界で一番愛しい相手に。
「恭子」
 返事はない。それで構わない。
「恭子」
 一日中恭子の視線を感じる。一日中恭子と一緒にいられる。
「恭子」
 ああ、僕は何て幸せ者なのだろう。
 恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子恭子――



 警察は僕を捕まえられないに違いない。
 その前に、きっと恭子が僕を呪い殺してくれるだろう。











 アンデット祭り参加作品。
 時間は大切に使うべきだと思いました。



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