触手を拾った。
猛スピードで触手は
それは身の丈10センチぐらいの、まだ幼い触手だった。触手の名前はシロといった。僕がつけた名前ではない。それのつけた首輪に手書きで「シロ」とあって、僕はそれを名前だと認識したのだ。「シロ」と呼ぶと僕の足下までちょこちょこと這ってくるから、多分間違ってはいないのだろう。
シロは名前の通り白かった。雪なんてこの辺りでは冬でもそう頻繁には見ないけれど、それでも僕がシロの姿を見てまず思い出すのは無垢な雪の白さだった。下手にその肌に触れれば溶けてしまうような気さえした。でももちろんそんなことはなくて、僕が撫でてやるとシロは気持ちよさそうに力を緩ませて僕に身を任せた。
シロは人間の言葉を喋らなかった。喋れない、といった方が正解なのかもしれない。触手だから仕方ないのかもしれない。シロの声といえば、たまに「しょくしゅ」と鳴くぐらいのことだった。
「ご飯にするか」
僕が言うとシロは嬉しそうに微笑む。ような気がした。
シロに何を食べさせるかというのは、僕にとって少し難しい問題だった。真っ当に生きるほぼ全ての人にとってそうであるように、僕も触手を拾うのは初めての経験だった。
少しだけ悩んで、僕はシロに僕が普段食べるものと同じものを与えてみることにした。同じものを食べられるのならこれからも(シロとどれぐらいの付き合いになるのかはまだ分からないけれど)準備は楽だし、もしも食べないようならその時にまた別の何かを考えればいい。今の時代今の町にいる限りにおいて、たとえ真夜中であっても大抵の食べものは簡単に手に入れられる。
僕はそんなに腹が空いてはいなかった。手間のかかるものを用意するほど気力に満ちてもいなかった。冷蔵庫を覗くと冷や飯があったから、僕の気持ちは固まった。
しょくしゅ?
初めて見るのだろう、僕がその料理とも言えない食べ物――お茶漬けを目の前に置いてやると、シロは不思議そうに身をくねらせた。
僕はそれが食べられるものであるということをシロに教えてやるため、実際にスプーンで救って自分で食べてみせた。そうしてから、同じくスプーンですくったそれを、シロに差し出してみる。
つんつん、と何度か確かめるようにそれに触れるシロ。しばらくの後、思いきったようにスプーンを掴むと、それを身体の中心部へと持って行った。
瞬間、小さく開かれる穴。多分それがシロの口なのだろう。スプーンの上に乗ったお茶漬けは、流し込むようにしてそこに入れられた。
しょくしゅ、しょくしゅ、とシロが鳴いた。どうやら気に入ってくれたらしい。二本三本とシロの手がお茶漬けへと伸びていった。
触手の食事を見るのは初めてだったけれど、人間のそれとそんなに大きくは変わらないようだった。僕は安心する。これで今度からも一緒に食事をすることができる。
シロを拾ったのは会社からの帰り、もっと正確にいうのなら先輩に連れられた居酒屋からの帰りだった。
酒を飲みながら先輩から聞かされるのはほとんどが会社や上司に対する不平不満にすらならないような愚痴で、それに対して僕は恐らく先輩が望むであろう答えを返し続けた。そうすることでだいたいのことがうまくいくようになると、僕はこれまでのそう長くはない人生経験から十分に学んでいた。義務教育も高校も大学も会社も、本質的なところではそう変わらない。どれも人間の虚栄で成り立っている。
日が替わるのを合図にするような形で僕らはその居酒屋を後にした。僕のつかまえたタクシーに乗り込む先輩は上機嫌に見えたから、きっと僕の三時間ばかりは無駄でなかったのだろう。
その店で飲んだ後はいつもそうするように、僕はゆっくりと歩いて家へ向かった。
少しふらつく足下を自覚して、僕は普段以上に強く周囲を意識する。
酒と人の熱気で火照った身体に、夜の空気は程よく染み渡る。夏はすっかり過去のものになってしまっていた。冬の気配を近くに感じる。秋の日は釣瓶落とし。日が落ちるのはもとより、秋という季節自身も釣瓶のような勢いで落ちていく。
しょくしゅ、という鳴き声が聞こえたのは居酒屋から歩き始めて十分も経った頃だろうか。十メートルほど先の電柱、その根元にダンボールがあった。僕はそこへ足を向けた。
ダンボールの中にはくしゃくしゃにされた新聞紙と、そしてまだ小さな触手の姿があった。
「捨てられたのか」と僕が声をかけたのは、多分酔いのせいだけではなかっただろう。
しょくしゅ。
自分が捨てられたということに気付いていないのかもしれない。律儀にもダンボールの中におさまっているのは、この場所で別れた主人を待つためなのだろうか。
「待ってても、主人は戻ってこないぞ」
しょくしゅ。
僕は右手で胸を押さえる。そうやって、遠くて近いところにある鈍い痛みに耐える。親に捨てられた自分の境遇が、ダブって見えた。
「なあ、こんなこと言うなんて多分酔ってるんだろうけど」
そう断った上で言う。僕は普段からこんなことをするような善良な人間ではない。
「お前、うちに来るか?」
しょくしゅ。
一度撫でてから、僕は目の前の小さな触手を抱き上げた。
「触手を拾った、ですって?」
こっちが驚くぐらいの食いつきだった。
会社から歩いて三分の位置にある定食屋に僕と先輩はいた。貴重な昼休みの時間を、僕はだいたいの場合ここで過ごすことにしている。
「でもねえ」目の前に座った先輩が言う。「君さ、そんなこと急に言われて、はいそうですかって信じられると思うの?」
思うはずもなかった。誰よりもまず僕自身が、今回のことを信じきれていないのだ。
「まあ普通なら面白くもない冗談だと思うところなんだけど」
違うのよね、と先輩は視線で訊ねた。頷くことで僕は応える。
今日の日替わりはカレイの煮付けだった。二人揃ってそれを注文して食べた後、僕は昨日のこと――捨てられていた触手を拾ったことを先輩に話した。
当然、信じてもらえるはずもなかった。
「ほんとは君の正気を疑いたいところなんだけど」
はぁ、と一つため息をついてから先輩は嫌そうに続けた。「残念ながら私の目にはね、君が狂ってるようにも見えないのよ。残念なことに」
「ありがとうございます。ちょうど僕もそれを疑っていたところなんです」
先輩はまるで説教でもするかのような口ぶりで僕の話を確認していった。もしも僕が先輩の立場だったら多分まともに取り合おうとさえしないだろうから、少なくとも僕の話をきちんと聞こうとしてくれる先輩の存在は有難かった。僕は心の中で割と真剣に感謝する。
「自分でも信じられないような話だとは思ってます」
正確に言えば、信じたくない話だった。ふぅ、と僕はため息をつく。昨日から、嫌にため息が増えている。
先輩はいかにも気だるそうに食後のお茶をすすった。それから、いかにも気だるそうに言った。
「おふざけでこんな突拍子もないことを言えるほど、君にユーモアの心得があるわけじゃないって、それはね、よく知ってる」
「ありがとうございます」
「別に、褒めてるわけじゃないんだけどな」先輩は拗ねるように言った。
「知ってますよ」
自分でも白々しいと思う返事だった。
皮肉を皮肉と取れる程度には、そして皮肉を皮肉で返せる程度には僕も世間を知っているつもりだ。
「まったく。君にももうちょっと可愛げってものがあればね」
やれやれ。先輩がため息をつく。
「ため息をつく度に幸せが逃げていくらしいですよ」僕は自分でも全く信じていない俗説を語ってみた。
「その原因自身が何言ってんだか」
そう言うと、先輩は睨むようにして僕を見る。
僕はまだ辛うじて温かい湯飲みを手に取る。先輩のため息が聞こえる。僕はそれをやり過ごすようにお茶をすする。
なるほど、僕には可愛げなんてありそうもない。
「で」諦めたのか、先輩は切り替えるように言った。「私としては結局君の言うことを信じるしかないわけだけど」
「ありがとうございます」
先輩なら多分信じてくれるだろうとは思っていた。そうでなければこんな突飛な話をしたりはしない。
他の誰でもないこの人なら、という打算めいた考えがあった。昼にしろ夜にしろ、最近先輩から誘われることが多くなったことに気付かないほど――そしてその理由が分からないほど、僕は愚鈍な生き方をしているわけではない。
「その子、今は君の家にいるのかな?」
子、と表現する先輩に少し驚く。そして、同時に、相談する相手を間違えたかもしれない、と一瞬思う。
「はい。外に出すわけにもいかないですし」
「うーん」少し考えるようにして先輩は言った。「じゃ、今日お邪魔するわね。どんな触手か見てみたいし、正直まだ信じきれてもいないし。いい?」
「いいですよ。僕が本当に狂っていないかどうかも確かめて欲しかったですし」
「ん。オッケ。じゃあそろそろ戻りましょうか」
先輩が立ち上がる。湯飲みを空にしてから僕もそれを追う。
「今日は僕が出しますよ。迷惑かけますし」と僕は後ろから声をかける。
「そう? じゃあお願いしようかな」僕の方を振り返ると、はにかむようにして先輩は言った。取り出しかけた財布をバッグの中にしまって、先輩は店の外へ出る。
日替わり定食二つ分の料金を払って、僕も先輩に続く。穏やかな、気持ちのいい空間が広がっている。
「んー」大きく伸びをしながら先輩が言う。「せっかくこんなにいい天気なのに、また会社籠りか」
「何なら営業にでも行ったらどうです? 割と好きに外を歩けるし、何より慢性的に人材不足らしいですよ」
「あー、あそこはね、ちょっとイヤな思い出があるから」
言いにくそうな先輩の様子に、僕は一つの噂を思い出す。曰く、相手先をぶん殴った。テーブルの上に正座させて説教をかました。
「君も聞いたことあるでしょ? 私の噂。あれほとんどホントのことなんだよね」
「なるほど」僕は頷いて言った。「根も葉もないほら話とするには、随分とリアルに先輩らしい話だと思ってたんです」
「ちょっと、それどういう意味かな」
先輩はむっとした顔を見せる。そんな先輩を、僕は少しだけ可愛く思う。
「言葉通り、そのままの意味ですよ」
徒歩三分。会社までの道のりは思うよりも短い。
そういえば、と僕は思った。
あまり深く考えてはいなかったが、女性をこの部屋にあげるのは今回が初めてになる。
「初めての人おめでとうございます」
「何だかなあ、その言い方」
不満そうに、あるいは恥ずかしそうに先輩は言う。
「じゃ、開けますね」鍵を差し込みながら、僕は念の為に言った。「事情は説明した通りですから、いきなり触手が出てきても変に思ったり大きな声出したりしないでください」
「ま、普通に考えたらB級ホラー映画だもんね」
「だから困ってるんですよ」
ため息をつきながらノブを回す。ドアを開けて玄関の電気をつける。
ただいまと僕が声を発するよりも早く、ぺたぺたという可愛らしい音が聞こえた。僕は名前を呼ぶ。「シロ」
しょくしゅ。僕の声にこたえるように小さな触手がぺたぺたと這ってやってくる。その速度は可愛そうになるぐらいゆっくりとしているけれど、僕は足下までシロがやってくるのを待って、そうして抱きあげてやる。
「お邪魔しまーす、と」先輩は僕の腕の中を見て言った。「シロちゃんって言うんだ。見たまんまね」
それにしても、と先輩は続ける。
「思ったよりも可愛いわね」
先輩の感性はよく理解できない。
「んー、とりあえずさ、あがらせてもらってもいいかな?」
その声にこの場所がまだ玄関だったことを思い出す。どうぞ、と返してから、僕は先んじて部屋の中に入っていく。しょくしゅ、というシロの鳴き声が腕の中から聞こえる。今日は昨日よりも元気がいいみたいだ。
先輩をリビングまで案内してから、僕はキッチンに立つ。
「コーヒーでいいですよね?」
「ん。砂糖もお願いねー。ミルクもあれば嬉しいかも」
最近分かったことの一つに、先輩が結構な甘党だという意外でも何でもない事実がある。
多くの女性がそうであるように、先輩も一つ三百円もするケーキを二つ三つ簡単に平らげてしまう。加えて、そういうものを食べる時でも甘い飲み物を注文する。胸焼けでも起こすのではないかと僕はいつも心配するのだけれど、先輩が甘いものの食べすぎで苦しんでいる場面にはまだ出くわしたことがない。多分男の僕とは根本的な身体の作りからして違うのだと、僕はそう解釈している。
コーヒーとクッキーを盆に乗せてリビングに戻る。先輩はシロとじゃれていた。ハンカチを空中でひらひらと泳がせると、シロはそれに手を伸ばす。先輩はギリギリのタイミングでうまくそれをかわす。
「先輩、触手好きなんですか?」と僕は普通なら聞きにくいことをずばりと聞いてみた。
「んー、特別好きってこともないけど、普通程度には好きだと思う」
シロの目の前でハンカチをひらひらさせながら先輩はそう答えた。普通程度に触手が好き、という事情を僕は全く理解できない。
ちゃぶ台の上に盆を置いて僕も腰を下ろす。どうぞ、と僕が勧めると、先輩は袋入りの砂糖を二つとミルクを一つ手に取って、コーヒーに加えた。
僕は台の上のクッキーを一枚取って、それを半分に割る。先輩の足下にいるシロを呼んで、割ったクッキーの一方を差し出した。
昨日のお茶漬けと同じように手で何度かつついてから、シロはそれを口へと持っていった。
「へー。触手ってこういう風にしてご飯食べるんだ」
「どういうのを想像してました?」と僕は聞いてみる。
「特殊な粘液で溶かして取り込むとか?」
「僕も、シロを拾うまで同じこと考えてました」
「そっか」先輩は嬉しそうに、そして少し恥ずかしそうに言った。「相性いいみたいね、私たち」
嫌な相性だ、と僕は正直にそう思った。
結局分かったことといえば、僕が狂ったわけでも夢を見ていたわけでもなくて、現実として、シロはここにいるということだった。それと、先輩がちょっとアブノーマル気味な人だということだった。あまり知りたくはない事実だったけれど、知ってしまえばもう戻れないのだった。
「とりあえず、責任を持って、君が飼うしかないんじゃないの?」
「そうなりますかね」と、僕はため息交じりに言った。
「まぁ、もしあれだったら、私が代わりに飼ってあげ」
「そうですよね。拾った責任は取るべきだと思います」
最後まで言わせたくはなかった。これ以上先輩に汚れて欲しくはなかった。もう手遅れかもしれない、と思わないでもなかったけれど、でも、人は努力を止めた時に駄目になるものだと僕は知っていた。そしてこの場合、駄目になるのはきっと僕ではなくて先輩だった。
先輩が不満そうに小さく頬を膨らました。
そんな先輩は本当に心底可愛かったのだけれど、でも僕は昔と同じような目で先輩を見られなくなっていた。
しょくしゅ?
シロが首を傾げた。ように思えた。
「あ、いや、何でもないよ、シロ」
「へー」と、先輩は感心したように声をあげた。「君、シロちゃんの言うこと分かるんだ」
「何となく、そんな雰囲気を感じるだけですよ」
触手と意思の疎通ができる、だなんてそんなびっくり人間にはなりたくなかった。これもやっぱりもう手遅れな気がしないでもなかったけれど。
「でもそれでも、羨ましいな」
羨望の眼差しだった。あまりにも嫌過ぎる羨望だった。
「ねえね」と、先輩は言った。「たまに、シロちゃんの様子見に来てもいいかな?」
それが犬か何かの話であればどれだけ良かっただろう、と僕は思った。きっと幸せな未来を僕は描けただろう。これからの展望に胸を馳せたことだろう。
ただそれが犬ではなく触手だということが、全てを駄目駄目にしてしまっていた。ただの変態でしかなかった。
でも結局、
「ええ、どうぞ」
僕はそう言うのだった。
シロのことが可愛く思えてきたのは、シロを拾ってからだいたい一月が経った頃からだった。
その間、先輩は毎日のように僕の家にやって来てはシロと戯れた。そして僕に触手の素晴らしさを延々語るのだった。それは一種洗脳だった。その自覚はあったのに、一月も経つ頃には、僕はシロを可愛いと感じるようになってしまっていた。
しょくしゅ、とシロが鳴く。ぺたぺた、とシロが這う。
先輩が身悶える。
僕はそんな先輩に白い目を向けながらも、シロの様子から目を離せない。
怖かったのは、いつか、僕が先輩と同レベルにまで達してしまうのではないかということだった。このままでは駄目だ。そうは思っても、もう、既に僕はシロの魅力に気づいてしまっている。
ああ。
僕は一体どこで道を間違えてしまったのか。いつまで、この道を「間違い」だと認識できるだろうか。
しょくしゅ?
「大丈夫。そんなに心配そうな顔しないで」
言って、僕はシロの頭を撫でてやる。
……顔? 頭?
どうして、僕は今シロの表情をはっきりと読み取ったのだろう? どうして、撫でたその部分を頭だと認識したのだろう?
「どうしたの?」
と、先輩の声がした。
「いえ、何でもないです」
僕は左右に頭を振って、嫌な考えを追い出した。
「そう」
言って、先輩はにこりと笑った。
――その笑顔が、どうしてか、頭に残った。
※ ※
「気を落とさないでください、先輩」
そう声をかけて来たのは、あの子と同期の女性社員だった。あの子が「行方不明」になって落ち込む私を、慰めてくれているのだろう。同期だけあって、あの子ともそこそこに交流があったようだ。
彼女なら、きっと大丈夫だろう。あの子とも、すぐに仲良くなれるはずだ。
私は更に俯き、口元に手をやる。
笑っているのが、他人にばれないように。
しばらくそうやって心を落ち着けてから、私は顔をあげた。
「ねえ」私は言う。
「はい?」
「今夜、ちょっと飲みに付き合ってくれない?」
了
Web小説コンテスト 4掌編部門 出展。99作中29位。ありがとうございました。
作者の人は多分頭おかしいというか端的に言って頭悪いんだと思います。
back