序  【ある兎】



 ある兎について。ここに記す。

 月の綺麗な夜に。
 バルカローレを、聴きながら。
















一章  【物語の始まり】




「てゐ、ちょっとお使いを頼まれてくれないかしら」
 何をするでもなく、てゐが居間で時間を潰していた時のことだった。
 声をかけたのは、永遠亭のナンバー2、八意永琳。家主、蓬莱山輝夜を凌ぐ力の持ち主だとてゐは睨んでいる。
「えー」
 畳に寝転がっていたてゐは、首だけを永琳の方に向けて駄々を捏ねるようにして言った。
 何故永琳が輝夜の家臣という立場に甘んじているのかは分からないが、油断のならない相手であることに間違いはない。てゐはそう考えている。常に何かを隠していそうな、それでいてこちらを見透かしていそうな、そんな嫌な印象を受ける。
「雪味人参三本でどう?」
 拒否の姿勢を見せるてゐに、永琳はにっこり笑って、ぴしりと立てた三本の指を見せた。
「うっ……」
 雪味人参。雪の下で冬を越すことで通常の二倍もの甘みを蓄えた、正に至高の人参である。てゐたち兎にとっては最高の贅沢品。いくらてゐが自身の捻くれた性格を自覚していようと、あくまで一匹の兎、その誘惑は半ば魔術的なまでに強力だった。
「どう? ちょっと物を届けてくるだけなんだけど」
「うう……」
 この女の言いなりになるというのはどうにも気に入らない。でも、雪味人参は欲しい。そのためには言いなりになるしかない。それは嫌。
 ジレンマだった。うう、うう、と唸り続ける。
「まあ、ウドンゲにでも頼むから無理にとは言わないわ」
「べ、別に無理じゃないけど」
「いいわ、気が乗らないのでしょう? それじゃ、邪魔したわね」
 言うが早いか、ひらりと身を翻す永琳。遠ざかる足音。
 その様子を目にして、自然、用意していなかった言葉がてゐの口を衝いて出た。
「ちょっと待って! 行く行く、行くってば!」
 しまった、と口を押さえた時にはもう遅い。
 永琳はもう一度身を翻すと、てゐを見つめて、またにっこりと笑ってみせた。
「そう言ってくれると思ったわ」
 やっぱりこの女は苦手だ、と、てゐは改めて思う。


 永琳から手渡されたのは何とか片手で掴めるぐらいのサイズの木箱だった。長さは三十センチ程、幅は一方が五センチと、もう一方がそれより少し短いぐらいだろうか。直方体と表現するよりも、太めの棒といった方がしっくりとくるかもしれない。永琳は、これを紅魔館の中にある図書館に届けろという。
「中、見てもいいの?」
「ええ、構わないわよ」
 許可を得て、蓋に手をかける。
 病弱な知識人のいる場所、とてゐは届け先の図書館を認識している。でも薬にしては箱が大き過ぎるし、本を詰めた(そもそも本が入るような形ではないけれど)にしては軽過ぎる。
 さて中身は何だろうと、好奇心とともにてゐは蓋にやった手に力をこめる。
 が。
「あれ?」
 蓋は開かなかった。
 力が足りないのだろうか、とさらにもう一度。でも、やはり蓋はぴくりとも動かない。
「ちょ、ちょっと永琳、これ、開かないんだけど」
 文句を言うてゐに、永琳は、ふふ、と笑ってみせた。
「ごめんなさいね、蓋を空けるには向こうにいるパチュリーの魔力を通さなきゃならないの。ちょっと試させてもらったけど、うん、ちゃんと開かないようになってるみたいね」
 ごめんなさいね、ともう一度繰り返す。
 てゐは一気に脱力して、はぁ、とため息をつく。目の前の永琳を睨んで、小さく言う。
「意地が悪い」
「あら、あなたに言われるなんて光栄だわ」
 にこにこと笑顔を浮かべたまま、てゐの嫌みをあっさりかわす。
 暖簾に腕押し。これ以上言葉を重ねても意味はなさそうだ。まったく、何て女だろう。ふぅ、ともう一度息をはいて気分を落ち着けてから、てゐは永琳に訊ねた。
「で、中、何が入ってるの?」
「秘密、ということにでもしておきましょうか。そうね、あなたにはあまり面白いものでもないと思うけど、興味があるなら向こうで見せてもらいなさい」
「……ねえ、よく分からんないんだけどさ」
「うん?」
 永琳の言葉には、明らかにおかしなところがある。が、彼女のことだ。そこには何らか意図があることだろう。
 てゐは八意永琳という人物を高く評価してはいても、全く信用してはいない。むやみやたらと切れる頭の持ち主なのだから、それはなおさらのことだった。不利益を被るようなら、人参を諦めてでもこの話を断るべきだろう、とてゐは考える。
「特定の人物の魔力を通さなきゃ開かないっていうのは、基本、その人以外に見せたくないものが入ってるってことでしょう?」
「ええ、そうね。万一あなたが途中でそれを落としたとしても、大丈夫なように」
「じゃあどうして私が中を見ても構わないの? その割に、今中身を教えようとはしないしさ」
 てゐの言葉に、永琳は目を細める。てゐはそれを睨むようにして、永琳の奥にあるものを読み取ろうとする。
「頭がいいのね、てゐ」
「永琳程じゃないけどね」
 そう言って、じとりと永琳を睨む。受け流すように、永琳は頬を緩ませた。
「あなたになら見られても大丈夫、ということよ」
「私には分からないものってこと?」
「さあ、どうかしら」
 ふふ、と軽やかに笑って、続ける。
「でも大丈夫。危険なものじゃないってことは、ちゃんと保証するから」
「……そ」
 食えない女。諦めて、てゐはその場を後にした。









 * * *





幕間の一  【てゐ】





 人間を幸運にする程度の能力。それが彼女の天分だった。
 幻想郷に生きる高等生物(人語を解し、それによる意思疎通が可能な生物、と一般に定義される)の多くはそれぞれ特徴的な能力を持っている。生まれつき備わっている者も、ある時突然に目覚める者もある。が、どんな場合も自分でその能力を決めることはできない。本人の意思とは関係の無い、種族や遺伝的性質などによって、それは決まる。
 元々、彼女――因幡てゐは、力を持たない兎だった。
 あやかしとしての力を手に入れたのは七十年も生きた頃からだっただろうか。当時彼女は幻想郷の外で暮らしていたが、母親が幻想郷の生まれであったから彼女が力に目覚めたのは当然といえたのかもしれない。当の母親は早くにてゐの前から姿を消していた。
 晴れて妖怪兎となった彼女の周りには、しかし、味方と呼べるようなものは存在しなかった。そもそもが人間たちと相容れない妖怪であったのに加えて、彼女に備わった能力は彼らの目を引くのに充分過ぎた。
 人間を幸運にする程度の能力。
 望んで得た能力ではなかった。だが、彼女がそれを望んだかどうかなど欲の深い人間たちには全く関係のないことだった。彼女を捕らえ、自分のものとする。妖怪と呼ばれるようになってまだ僅か、ろくに戦う力を持たぬ彼女にできることといえば、ただただ逃げ回りながら日々を生きていくことだけだった。
 彼女が他者を欺く術を知ったのはこの時期だ。それは一人で生きていくのに必要な能力だった。馬鹿な振りをして油断させる。無邪気な言葉で信用を得る。一度やり方を覚えてしまえば、それを日常的なものとするのは容易だった。「因幡の白兎」と呼ばれた母親の血を、彼女は確かに受け継いでいた。
 幻想郷を探し当てたのは、妖怪になってから三十年程生きた時のことだった。噂に聞いてからずっと探し続けていた場所。外界と隔離された、妖怪たちの住処。
 ようやく見つけたはいいものの、強固な結界は彼女に破れるような代物ではなかった。稀に発生するという「すきま」を待つのにさらに五年を要した。それが一般的にいって長いのか短いのかは分からない。
 辿り着いても、母親の故郷、などといった感慨を得ることはなかった。生みの親とはいえ、てゐは母親に何の恩義も感じてはいない。幼い自分を放り出した彼女を、どうして家族などと思えよう。
 永遠亭と呼ばれる屋敷に多数の兎が集まっているらしいとの情報を得た彼女は、早速人づてにその場所へと向かった。彼女はそこで生まれて初めて母親に感謝する。彼女の母親は幻想郷生まれの「因幡の白兎」であり、つまり、大国主と交流を持った「兎神」である。てゐはその子どもというだけで、新入りにも関わらず集団の中での高い地位を自然と用意された。
 てゐは顔も覚えていない母親に一度きりの感謝を心の中で呟いて。
 すぐに、忘れた。








 * * *






二章  【鈴仙】





「あれ? てゐ、どっか行くの?」
 屋敷を出たところで、今度は、ぽわぽわとした兎に話しかけられた。鈴仙・優曇華院・イナバ。世にも珍しい月の兎だ。もちろん、月にいけば嫌という程「月の兎」がいるのだろう。
「ん、ちょっと永琳にお使い頼まれて」
 言って、てゐは永琳から預かった木箱を掲げてみせる。
「へー。珍しいね、てゐが素直に言うこと聞くなんて」
「雪味人参がかかってるからね。しかも三本」
「えっ。雪味人参っ!? いいなぁ、いいなぁ」
 鈴仙は目を輝かせる。頭から伸びる二つの長い耳がぴょこぴょこと動いた。
「先に言っとくけど、分けてあげたりしないよ」
「えー」
「当たり前じゃん、貴重なんだから」
「食べたいなぁ、食べたいなぁ」
「ダメ」
「うぅ」
 正直なところ、てゐはこの鈴仙があまり得意ではなかった。永琳とはまた違った意味で、彼女のことを好きになることができなかった。
 明るくて、素直で、誰からも愛される。そんな鈴仙を、てゐは見ていたくなかった。鈴仙の中にはきっと、不幸なんて言葉が存在しないんだろう。面を作ることもせず、そのままに毎日を幸せの中で暮らしているのだろう。彼女から見た世界はいつも鮮やかに彩られていて、その中にいれば誰だって笑っていられるのだ。
 でも、てゐはそれを見ることができない。妬みと、そして眩しさの入り混じる感情故に、てゐは鈴仙から目を逸らす。
 大部分が僻みであることを、てゐはきちんと自覚している。その上で、それでも、幸せそうな鈴仙を見ると心の奥の方がぎしぎしと音を立てた。自分の醜い部分に光が当たって、冷たい本能が、鈴仙の笑顔を崩せと耳元で囁く気がした。
「ほら見て、てゐ。今ね、竹の子掘って来たの。茹でて食べようと思うんだけど、お使い終わったらてゐもどう?」
 鈴仙はそう言って、片手に持っていた袋を広げてみせた。掘り出したばかりなのだろう、中に入った数本の竹の子と鉄製のスコップには、乾ききっていない土が付着していた。そんな竹の子が、土の暗がりから引っ張り出された竹の子が、どうしてか自分とだぶって見える。
 たまらず、てゐは自嘲気味に、はは、と笑った。
「いいけど、人参はあげないから」
「うぅ……どうしても?」
「どうしても」
「うぅ」
 少し涙の滲んだ目で、恨めしそうに睨んでくる。
「てことで、じゃ、行ってくるから」
「雪味人参……」
「じゃね」
 短く言い残して、てゐは空に向かった。
 これ以上鈴仙と話していると、また「イタズラ」という名目で嫌がらせに走ってしまいそうだった。
 だから、逃げた。
 彼女の純粋さが、てゐには、苦しかった。








 * * *






幕間の二  【生】





 能力を手に入れて以来、いや、多分それ以前から。世界は、てゐに優しくなかった。
 幻想郷という「異世界」生まれの母親を持つてゐに、周囲の反応は決して温かくなかった。それは畏怖と呼ばれるものだったのかもしれない。単に恐怖と呼ばれるものだったのかもしれない。が、どちらにせよ、てゐは幼い頃より、自分と距離を取る「隣人」に囲まれて生きてきた。
 あやかしとして覚醒するまでの七十年は、てゐにとってやはりあまりにも長過ぎた。幻想郷の外、一般に、兎の寿命は七年から十年。知り合いなど、ましてや友人と呼べるような者などできるはずもなかった。
 あやかしとなってから幻想郷に辿り着くまでの三十年は、それまでよりも更に長いものになった。常に人間たちに身を脅かされる状況にあった。こんな能力のせいで、と自分の体を傷つけたこともある。息を潜めて泣いたのも一度や二度ではない。死んでしまえばこんなに辛いこともないのだろうかと考えたこともあった。考える内に眠くなって、目が覚めてからは、また、その日生きるための活動を始めた。
 どうして生まれたのだろう、とてゐは思う。どうして母親は私を生んだのだろう、と。世界は――少なくとも自分の周りに広がる世界は、こんなにも耐え難い不幸に塗り固められている。その中で生きていけということの、どれ程残酷なことか。母にはそれが分からなかったとでもいうのか。だとしたら何て残酷な生き物だろう。それを分かった上での私の生だとしたら、やはり、彼女は残酷な生き物だったに違いない。
 てゐに与えられた一番の不幸は、恐らく、自身の境遇を呪えるだけの知性を授かったことだった。何も考えずに生きていけたのならそれはとても楽なことだ。
 だが、同じくてゐに与えられた一番の幸運も、恐らく、自身の境遇を改善できるだけの知性を授かったことだったのだろう。
 彼女は幻想郷を目指した。妖怪たちが多く住まうという彼女にとっての桃源郷を。









 * * *






三章  【紅魔館にて】





 永遠亭と紅魔館との間に交流が生まれたのは最近のことだ。
 ある永い夜の日。様々な人妖たちが、永琳の隠した月を取り戻すために永遠亭へと乗り込んできた。襲撃者を迎えるのは永遠亭の長い長い歴史の中でも初めてのことだったという。もちろん、屋敷は上を下への大騒ぎとなった。各々が好きなだけ弾幕をばらまき、飛び回り、日頃の鬱憤を晴らした。襲撃を受けているというのに、一種祭りに近い空気があったから、永遠亭ののん気さにはてゐも呆れる他なかった。もっとも、そのてゐにしても、人並み以上に暴れてはいた。
 人妖たちは想像以上に強かった。結果、永琳の術は破られて月は取り戻されてしまったが、そもそも、本当ならば月を隠すことに大した意味はなかったらしい。幻想郷に張り巡らされた結界の存在を忘れていた、なんてことを永琳は言っていたが、もちろんてゐはそんな彼女の言葉を信じてなどいない。そんな阿呆な失敗をするような可愛げが永琳にあるはずもない、とてゐは考える。間違いなく、表には見せていない何らかの意図があったことだろう。
 その夜を境にして、それまで鎖国状態だった永遠亭も外との関係を持つようになった。特に永琳は積極的に交流を図っていたようで、もしかすると、月を隠した目的はそこにあったのかもしれない。戦った相手と仲良くするなんて思考はてゐには理解の及ばないところにあるが、まぁ、こちらからわざわざ喧嘩を吹っ掛ける必要もないから、と、てゐも少なくとも表向きは笑顔を見せるようにしている。


 紅魔館は、永遠亭を越える敷地面積を持った大豪邸である。いわゆる洋館というやつだが、どうにも無駄な装飾ばかりが目に付いて、てゐはあまり好きになれなかった。こんなところで暮らしていて疲れないのだろうか、とてゐはいつも考える。
 敷地の入り口にはいつもの門番がいた。箒を持って、門の周りをせっせと掃除しているらしい。毎日毎日よくやるものだ。自分なら一日と持たず放り出す自信が、てゐにはあった。
 てゐに気づいたのか、箒を片手に持ったまま門番の彼女が近づいて来た。事前に話は伝わっていたらしく、すぐに図書館まで案内される。
 図書館の中は相変わらずの広さだった。お使いやら私用やらで何度か来たことはあるけれど、扉を潜る度、彼女はいつもこの広さに圧倒されるのだ。何でも、魔術を使って空間を大きくしているらしい。よくは分からないけれど、そういうものなんだと何となくでてゐは理解している。
 小悪魔がすぐにてゐの方に飛んできた。パチュリーの小間使い、とでも表現するのが適当か。司書なんて上等なものではないとてゐは考えている。いつ見ても働いているのは彼女だけで、パチュリーが椅子から立つところはほとんど見ない。
「永琳様からのお荷物ですね。どうぞ、こちらへ」
 あまりにも多くの本に囲まれた中を、小悪魔に連れられて歩く。
 行き先は、てゐの予想通りパチュリーの部屋だった。
「パチュリー様。永遠亭から使者さんがお見えになりました」
「入ってもらいなさい」
「はい」
 どうぞ、と促されて部屋の中に入る。
「お邪魔しますっと」
 ぱたん、と扉が小さな音を立てる。小悪魔が外から閉めたらしい。
 パチュリーの部屋に入るのは初めてのことだった。ここまでよりも更に濃い、インクと紙の匂いがした。ところかしこに本が積まれていて、雑然、という言葉で表現するのが丁度良さそうだ。一式揃った家具を見るに、彼女は本当に図書館の中に住んでいるらしい。
「どうも。わざわざありがとう」
 椅子をくるりと回転させててゐと向き合うと、パチュリーは軽く頭を下げた。
「まぁ、ちゃんと永琳から報酬も貰うしね。はい、これでいいんだよね?」
 てゐはここまで運んできた木箱を彼女に手渡した。パチュリーはそれを受け取って言う。
「一応、この場で中身を確認させていただけるかしら? あ、そこの椅子に座ってもらって結構よ」
「どうも」
 指示された椅子をパチュリーの前にまで持ってきて、よっ、と小さく声を出しながら飛び乗るような勢いでそれに座った。ぎし、と音を立てる椅子に気をやることもなく、今はパチュリーの手許にある箱に視線を向ける。
「で、私も早く中身見たいから、それ早速空けてみてよ」
「あら、あなたに? いいのかしら?」
「いいって言ってたよ、永琳は。私には見られても大丈夫だとか何とか」
「……まあ、それもそうよね。じゃあ、開けるわ」
 木箱を持った右手が、瞬間、ぽうっと光る。様々な色が入り混じった鮮やかな光。七曜の全てを巧みに操るという彼女ならではの光景だった。
 そのままパチュリーは蓋に左手を添える。てゐがいくら力を込めても開かなかった蓋が、今度は何の抵抗も無く開いた。 あ  てゐは中を覗き見る。箱の中には折りたたまれた白い紙が確認できた。手紙にしてはいくらなんでも大き過ぎるだろう。
「それ、何なの?」
「設計図よ」
「設計図?」
「ええ。月へ行くための舟。その設計図」
「は?」
 月?
 にわかには信じられない話だった。が、永琳がそれを寄越したということは、月行きの舟を作ることも確かに可能なのだろう。でも、月なんてところへ行ってどうしようというのか。
「本当は諦めてたんだけどね。私にはそんな舟作れそうになかったから」
 パチュリーの言葉が途切れるのと同時に、ぎぃ、と音を立てて扉が開いた。
 カップの三つ載ったお盆を持って、小悪魔が入ってくる。わざわざお茶を入れてくれたらしい。よく出来た従者だとてゐは感心する。同時に、悪魔としてそれはどうだろうか、とも思う。
「ちょっと小悪魔、これ広げるからその辺のものどかしてくれる?」
 小悪魔がお盆を机の上に置くのを待って、パチュリーがそう声をかける。
「日ごろからきちんと整理しておけばそんなことする必要もないんですけどね、パチュリー様」
「聞こえないわ」
 ため息をつきながらも、テキパキと床に積まれた本を棚へと戻していく小悪魔。パチュリーはそうやって出来たスペースに箱から取り出した紙を広げていった。
「これは」
 と、パチュリー。
「凄いわね。こんなに大きな紙いっぱいに、こんなに細かく書き込まれてる」
「永琳、まめだからね。ね、ちょっと聞いていい?」
「ええ」
「月なんかに行ってどうしようっていうのさ?」
 てゐはそもそもの疑問をぶつけてみた。
 月といえば永琳や輝夜や鈴仙の故郷。彼女たちが向かうというのならまだ納得もできた。が、目の前のは彼女どう考えても地球生まれだろう。
「別に。行ってみたいから行ってみるだけよ。時代に取り残されたくないし」
 答えはあまりにも単純で、だからこそよく分からなかった。
「パチュリー様は、頭がいいのに、馬鹿なんです」
「ちょっと小悪魔、馬鹿って何かしら」
「言葉の綾です」
「どうかしら」
 目の前、パチュリーと小悪魔の関係。てゐは、複雑な、自分でもよく把握できない感情でそれを見る。
 主従のようで、ただの友人のようで。
 少なくとも、そう、互いが互いを信頼しているということはてゐにも見て取れた。
 これに似たような関係をてゐは身近に知っていた。絆、なんて言葉は使いたくないし信じてもいないけれど、彼女たちを表現するのに真っ先に浮かんできたのは、それだった。

 でも、どうしてそんな関係がありえるのかが、てゐには分からない。





「それにしても」
 床に広げられた紙を見ながら、パチュリーは呟くようにして言った。
「やっぱり天才と言われるだけあるわね、あの人」
「何、これってそんなに凄いの?」
「正直凄いなんてものじゃないわ。私も百年を生きてそれなりに知識を溜め込んできたつもりだけど、ちょっとこれは桁が違いそう」
 百年っていうと私より年下じゃん、という本音を、てゐは隠しておいた。
「まぁ、永琳はもっと長く生きてるわけだし」
 もう本人ですらどれだけの時間生きたか覚えていないという。不老不死とは聞いているが、それが本当かどうかてゐには分からない。
「いえ、それだけじゃないの。例えばそうね、私が生涯をかけてこの図書館にある本を全て読み解いたとしても、多分、これは描けないわ」
「え、そんなに?」
「パチュリー様がですか?」
 てゐと同時に小悪魔も驚きの声をあげた。いつもパチュリーのそばにいる分、彼女の凄さを知っているのだろう。
 だとすると、そのパチュリーでさえ敵わないという永琳はどれだけの知識を持っていることになるのだろうか、とてゐはあまり考えたくはない現実を思う。
「ええ。彼女、外の世界、人間の使う科学とやらにも精通していそうね。あるいはこれが月の学なのかしら。それなら一層月に行ってみなくちゃならないわ」
 永琳の頭がいいことはてゐも理解しているつもりだった。が、どうやらそれでもまだ認識が甘かったらしい。
「それに彼女、何というか――随分と、洒落っ気も利いてるみたいね。さて、このメッセージをどう取るべきかしら」
「洒落っ気?」
 と、てゐは気になる単語に反応した。
 確かに永琳には、どうでもいいようなことにこだわって、そしてそれを楽しむようなところがある。それを洒落っ気と表現するかどうかは分からない。
「ええ。この紙が入ってた箱、ねえ小悪魔、あなたなら何か気づかない?」
「え、私ですか。え、ええと……」
「ヒントは、そうね、この箱の形、質とこれから私たちが作ろうとしている物。併せて考えてみなさい」
 もちろん、てゐにはさっぱりだった。棒みたいに一辺が長い木箱。月に行くための舟。
 小悪魔は空になった木箱をパチュリーから受け取って、それを観察し始めた。彼女の手の中で木箱がくるくると動く。
「……あっ」
 しばらくの後、小悪魔が小さく声をあげる。
「思いついた? 言ってみなさい」
 微笑んで答えを促すパチュリー。
「もしかして……箱舟、ですか?」
「そう、正解。30:5:3。長さの比率も丁度いい感じでしょう?」
 答えを聞いても、やはりてゐには何のことか分からなかった。
 ハコブネ。
 そのままの意、箱の形に出来た舟のことだろうか。
 てゐには何もかもが分からないまま、二人の会話は更に進んでいく。
「しかもこれ、ちゃんと水に浮きそうですよ。表面に多分、樹脂が塗ってあります」
「ええ。月へ向かう舟の設計図を箱舟の中に入れるなんて、何とも洒落たことしてくれると思わない?」
「ですね。でも、どういう意味なんでしょう?」
「さあ。私たちへの警告なのか、もしかしたら、神話のそれと絡めて、自分を神と崇めるように言ってるのかもしれないわ。まぁ、あの人の場合、ただの遊び、という線が一番強そうだけど」
「天才なのにですか?」
「天才だから、よ」
「ちょ、ちょっとちょっと」
 我慢できずに、てゐは二人の間に割って入った。
 目の前で繰り広げられるてゐには全く意味の分からない会話。もう少し、客に対する気遣いがあってしかるべきだとてゐは思う。
「どういうことなのか全然分かんないんだけど」
「あ、ごめんなさい。面白そうなことがあるとつい夢中になっちゃうの、私たち」
 しまった、という顔をして謝るパチュリー。
 てゐはさっきから疑問に思っていたことを訊いてみることにした。
「ハコブネって、何なの?」
「箱舟っていうのは……そうね」
 パチュリーは何か考えるような仕草をしてから、続けた。
「幸いにもここは図書館、それに関する本もあるわ。今から永琳にお礼の手紙を書くから、その間に調べてみたらどうかしら? 探すのは面倒だろうから、小悪魔に持って来させましょう」
 パチュリーの言葉に、てゐはうーん、と低く唸る。
 永琳が何を考えているかを知るためにも、それは確かに魅力的な提案だったけれど。
「……私、本って苦手なんだよね」
 たくさん並んだ文字を見ていると、どうにも頭が痛くなってくるのだ。永琳にしても目の前のパチュリーにしても、よくあんなものを一日中読んでいられるものだと思う。
「絵本になってるやつを持ってこさせましょうか?」
「あ、うん、それなら大丈夫かな。お願い」
「と、いうことよ、小悪魔。後はよろしく」
 パチュリーの言葉に、小悪魔はこくと小さく頷いた。
「ではてゐ様、少々お待ちくださいね」
 うん、と答えてから、てゐはようやく、小悪魔が用意してくれたお茶に手をかけた。








 * * *





幕間の三  【安寧】





 幻想郷でてゐを待っていたのは、それまで彼女が経験したことの無い安定した日々だった。
 そこには彼女と一定の距離を取ろうとする兎も、彼女を執拗に追い回す人間も存在しなかった。
 兎たちは何の屈託もなく彼女に近寄って来た。てゐは初めの内それを信じなかった。が、一月も経つ頃には、その兎たちが打算や損得を考えられる程利口ではないと悟った。
 だとすればそれは何だろう。分からないまま、てゐは今日までを生きた。
 最近、てゐは考える。
 この地には自分の身を脅かすものがない。逃げる必要もない。生きるための全てを容易に手に入れることができる。
 だから、希望が生まれるのは当然のことだったのかもしれない。








 * * *






四章  【転(うたて)】





 ぽん、と肩を叩かれて、てゐは意識を表に戻した。
「手紙、書き終わったけど」
「あ、うん」
 いつの間にかパチュリーが目の前に立っていた。それに気づかない程集中していたということか。
「まだ読んでいっても構わないわよ」
「ううん、もういいよ」
「箱舟のこと、少しは分かったかしら?」
「うん、十分」
 十分過ぎた。
「そう。じゃあ、はい、手紙。永琳に渡してくれるかしら?」
「まあ、お茶も貰ったしね」
「ありがとう。永琳によろしくお願いするわ」
「了解了解」
 手紙を受け取って、てゐは図書館の外へと出る。
 頭がぐるぐる回っていた。
 小悪魔が何か言っていた気がする。でも、これ以上誰かの相手をしている余裕が、てゐには無かった。








 * * *






幕間の四  【箱舟】




 ――ずっとずっと昔の話。
 ――堕落していく地上の人々を見た神様は、洪水を起こして人々を滅ぼすことにしました。
 ――神様は、このことをノアという人にだけ教えて、箱舟を作るように言いました。
 ――ノアとその家族は、神様に言われた通りに一生懸命箱舟を作りました。
 ――ノアは洪水が来ることを人々に伝えましたが、誰もそれを信じませんでした。
 ――箱舟が完成すると、ノアは家族8人と全ての動物のつがいを乗せました。
 ――雨が降り続け、洪水は40日間続きました。
 ――雨が止んでから150日経って、やっと水が減り始めましたが、地上の生き物は全て死んでしまっていました。
 ――水が引いてから、ノアたちは箱舟を出ました。
 ――ノアたちは祭壇を作って、神様にお祈りをしました。
 ――神様は、もう二度とこのような洪水を起こさないことを約束しました。
 ――そのしるしとして、神様は空に虹をかけました







 * * *






五章  【箱舟】





 ふらふらと、てゐは永遠亭までの空を飛ぶ。
 ノアの箱舟。
 ああ――
 知らなければ良かった。いや、知って良かったのだろうか。分からない。
 ただ、叫び出したかった。
 あるいは、頭から毛布を被ってがたがた震えていたかった。
 気づいてしまったから。

 人間を幸運にする程度の能力。てゐは、その行使から経験則として一つのことを知り得ていた。
 幸運の量には、限りがある。
 全ての者を幸運にすることはできない。幸運は、決して、無限に湧き出てくるものではない。
 つまり、それは。
 箱舟だったんだ。てゐは、思う。
 助かるのはノアの家族と僅かな動物たちだけだった。そもそも、最初から、全ての生き物が助かるはずもなかった。箱舟の容量は限られているのだから。
 だから。

 私は、乗ることを許されなかった。

 悲しいけど、むかつくけど、滅茶苦茶にしてやりたいけど、てゐには、確かにそれが現実のこととしか思えなかった。
 多分、世界には神様とやらからチケットを与えられた奴らがいて、いつだってそいつらが、限られた量の幸運を、幸せを、笑いながら手に入れている。自分は舟までの案内役。自分のためのスペースは、最初から用意されていない。
 あはは、とてゐは笑う。
 可笑しかった。可笑し過ぎた。何てことはない。当たり前のことに、今さらになってようやく気づいただけのことだった。
 もういい。
 もう、いい。
 これからも何も変わらない毎日が続いていくだろう。私はその中を惰性的に生きていくだけだ。これまでのように、これからも。
 勘違いしてたんだ、とてゐは自身を省みる。幻想郷に来て、安寧の地に落ち着いて、だから、幸せとかいう幻想に侵食された。叶わないことと大昔に分かっていたはずなのに、それなのに、いつの間にか、自分でも気づかない内に、人並みの幸せを想像していた。
 箱舟はいつだって満杯で、私のチケットは存在しない。どうして忘れていたんだろう。こんなにも当たり前の事実を。
 あはは、とまた声が出た。
 冷たい現実を笑った。箱舟を見送る哀れさを笑った。何より、自分の愚かさを笑った。
 笑い過ぎて、今度は涙が出てきた。馬鹿だな、と思う。泣くまで笑うことないのに、と思う。
 滲んだ視界の先、永遠亭が見えてきた。現在の居住地。今まで生きてきた中で一番長く住んでいる場所。
 自分の部屋に入って、一人になって、電気を消して、毛布を被って、がだがた震えていよう。起きて、またいつものように意味の無い一日を過ごして、意味の無い言葉を叫ぼう。そうするのが自分にはお似合いだ。

 箱舟は、来ない。






「……てゐ?」
 呼ぶ声に気づいて、てゐはゆっくりと顔を上げた。
 目に映ったのはすぐそばにまで寄って来た鈴仙の姿だった。てゐには、その顔が、まるで自分を心配でもしているように見えた。
「てゐ、大丈夫? どうかしたの? 何かあった?」
 気分は最悪に近かった。目の前の彼女を見たことで、それは更に加速された。
「知らない」
 と、てゐは短く言い放った。
 今、一番会いたくない相手だった。会えば耐えられないと分かっていた。どうしようもない現実を突きつけられて、爆発するのは目に見えていた。
「ねえ、てゐってば。何か、あったんでしょ?」
 無視して進もうとするてゐの腕を、鈴仙が掴む。
 鈴仙の掴んだ手から彼女の体温を感じた。思いの外、温かかった。
 だから、それが、限界だった。
「うるさいっ!」
「て、てゐ?」
「うるさいうるさいうるさいっ!」
 大きくかぶりを振って、叫んだ。
 嫌だった。何もかもが嫌だった。そして、許せなかった。
「……てゐ、ねえ、何があったの? 話してくれれば私でも何か力になれるかもしれないよ。ね、だから、聞かせて」
 鈴仙はてゐの腕を放そうとはしない。落ち着いた声で、てゐに語りかける。
 それが、余計てゐを苛立たせた。
「あんたには――あんたには、絶対、分かんないっ!」
 叩きつけるような大声に、一瞬、鈴仙の手から力が抜ける。その瞬間に、てゐは掴まれていた腕を無理矢理振り解いた。
 てゐは鈴仙を改めて正面から見る。驚いた顔。はは、とそれを鼻先で笑ってから口を開く。
「幸せなあんたには分かんないでしょ? 私はね、乗れないの。箱舟に、私の席は初めから用意されてなかったの。分かるかな、あんたに。――ははっ、分かるわけないよね。最初から舟の中にいる奴に、外のことなんて分かるわけないもんね」
 てゐは吐き捨てるようにそう言った。
 鈴仙は、少しの間を置いて、てゐの瞳を窺う。
「てゐは、ハコブネっていう舟に乗りたいの?」
 あまりにも的外れなことを口にする鈴仙に、湧き上がっていた怒りのような感情も冷めた。てゐは、軽くため息をついてから答える。
「もういいからさ、ほっといてくれないかなぁ? あのね、あんたを見てると、私、イライラするんだ」
 ずっと我慢していた言葉だった。発してしまえば、もう関係の修復は不可能となるだろう。それが分かっていたから、長い間てゐは耐えていた。この地では敵を作らずに生きていきたかった。
 ただ、それも、もう、終わりそうだった。
 もう、どうでもいい。
 どうでもいいから。
「笑顔がむかつく。無駄な明るさがむかつく。誰もあんたを嫌わないのがむかつく。恵まれた境遇がむかつく。幸せなあんたが――むかつくのっ!」
 八つ当たりだということはてゐにも分かっていた。でも、理不尽なそれを受ける鈴仙の神妙な顔がてゐには可笑しくて、空しくて、言葉は止まらなかった。
「私の力になりたい? ははっ。じゃあさ、私の視界から消えてよ。今すぐ。本当、見てるだけで不愉快なんだ。あんたがいなかったら、この気分も少しはマシになるだろうからね」
 いい気分だった。目障りな奴をこれで処分できたかと思うと、すっと気持ちが軽くなった。
 そう、思うようにした。
 てゐは鈴仙を見た。罵詈雑言を散々浴びせられて、落ち込んでいるだろう目の前の彼女を見た。怒って突っ掛かってくるだろうか。それもいい。それとも泣くだろうか。それもいい。彼女のそんな様を見れば少しは愉快な気持ちになれるだろうと思った。
「……あのね、てゐ」
 鈴仙は、顔を伏したまま、搾り出すように。

 ごめんね、てゐ。私、気づかないで。

 か細い声で、震える声で、鈴仙がそう言ったのを、確かに、てゐは聞いた。
 意味が分からなかった。わけが分からなかった。どうしてこの状況で彼女が謝るのか、てゐには全く理解できなかった。てゐの主観からしてさえ自分に非があるこの場面で、ごめんね、という鈴仙の言葉が持つ意味をてゐは捉えきれなかった。
 そのことを問う前に、でも、鈴仙は目の前から飛び去っていった。
 飛び去る彼女の背中だけが見えた。視界に映る彼女の姿はどんどん小さくなっていって、それを命じたのは自分だったはずなのに、どうしてか、後を追わなければいけない気がした。
 自分でも掴み取れない感情のやり場が他に思い当たらなくて、てゐは、その場に留まり、ちくしょう、と何度も呟いた。








 * * *






幕間の五  【母】





 よく見る夢があった。
 てゐはその中で、まだ、ただの小さな兎だった。
 母親に抱かれて、今にも眠りに入ろうとしていた。
 必死に目を開けていようとして、でもまぶたは重過ぎて、すぐに限界が来た。

 母の顔が、ぼやけている。








 * * *






六章  【決起】





 屋敷に入ってすぐ、玄関に永琳の姿があった。
「届けてくれたかしら?」
 てゐは無言のまま、パチュリーから預かっていた手紙を渡した。
「ありがとう。はい、約束の人参よ。大事に食べなさいね。間違っても、今一気に食べてしまわないように。後で後悔するわよ」
 永琳の差し出した三本を受け取ると、そのままてゐは場を去ろうとする。
 それを、永琳が引き止めた。
「さっき、ウドンゲが凄い勢いで戻って来て、また凄い勢いでどこかに飛び出して行ったんだけど、何か知らない?」
「知らない」
 と、素っ気なく答えるてゐに、永琳は変わらない穏やかな声をかけた。
「そう。それならいいけど」
 微笑むようにして続ける。
「でもね、てゐ、あなたって、実は自分で思ってる程、嘘つくの上手じゃないわよ」
「……知らないから」
「そう。じゃあ、私はあなたが届けてくれた手紙を読むことにするわ。引き止めて悪かったわね」
 そう言って、永琳は早々と自室へ戻って行く。何か言おうとして、結局言えなくて、てゐも自室への道を歩いた。
 ごめんね、という鈴仙の言葉が、まだ耳に残っている。





 イナバを知らないか、と聞いてきたのは輝夜だった。
 夕食に向かう気分になれなくて、自室の布団にただ転がっていた時のことだった。イナバ、というのはこの場合、鈴仙のことだろう。
「知らない」
 と、てゐは答えた。
「そう。食堂にもいなかったし、どうしたのかしら。約束してあったはずなんだけど」
 今度お仕置きね、と輝夜は続けた。
 鈴仙が輝夜との約を違えるなんてこと、普通に考えて、ありえるはずがなかった。輝夜の恐さは重々承知のはずだし、何より、鈴仙は他人との約束を放り投げるような真似をしない。少なくともてゐは、見たことがない。
 もしかして、とてゐは思う。
 鈴仙は、この屋敷に、戻って来ないつもりではないか。
 永琳の言葉を思い出した。凄い勢いで飛び出して行った。鈴仙は、そのまま、帰って来ないつもりではないのか。
 どうして、と思う。馬鹿じゃないか、と思う。その原因が先に自分が浴びせた言葉だとしたら、だってどう考えても悪いのは自分で、鈴仙に全く非は無くて。それなのに、どうして鈴仙が出て行かなくてはいけないのか。イライラした。ムカムカした。何だってあいつはそう――
「てゐ」
 と、声がかかった。
「何を考えてるのか知らないけど、その顔、なかなか興味深いわ。何があなたを、そんなにイラつかせているのかしら?」
「知ら」
 ない、とてゐが言い切る前に、輝夜が口を挟んだ。
「知らない、とでも言うのでしょう? 気づいてるかしら、嘘をついたり誤魔化したりする時に、あなた、いつもその言葉を使うのよ」
 ふふ、と笑って、輝夜は続けた。
「まぁいいわ。もしイナバを見つけたら、大至急私のところに来るように言っておいてね。じゃあ、邪魔したわ」
 言うだけ言って、てゐの答えを待とうともせずに、輝夜は部屋を出て行った。
 知らない、とてゐは小さく呟いた。
 知らない知らない、と繰り返し呟いた。
 嘘をつくのが下手だと、永琳にそう評された。その上、使う言葉まで、輝夜に指摘された。滑稽だった。
 鈴仙は、と考えて。
 すぐに、理解した。

『てゐ、大丈夫? どうかしたの? 何かあった?』
『知らない』
『ねえ、てゐってば。何か、あったんでしょ?』
『うるさいっ!』

 ――ああ、鈴仙も、気づいていたんだ。
 あはは、と声が漏れていた。
 こんなにも、他人から見られていたなんて。知らなかった。あるいは、気づこうとしなかったのか。
 こんなにも、こんなにも――自分が、情けなかったなんて。
「馬鹿は、誰だよ」
 込み上げてきそうになった涙を、くっ、と堪えた。泣いている暇は無い。やるべきことがある。
 鈴仙を探そう、とてゐは決めた。
 話したいとか謝りたいとか、そんなのじゃなくて、ただ、このままいなくなるのだけは許せなかった。それがどうしてなのか、てゐは自分でも分からなかった。例えば、鈴仙を見つけたとして、その時どんな顔をすればいいのか分からなかった。何を言えばいいのかも分からなかった。
 でも、それでも、いなくなるのだけは、どうしても許せなかったのだ。





 手がかりを求めて、てゐは永琳の部屋を訪れた。
 鈴仙を探す、とてゐが口にすると、永琳は円形の時計のようなものを彼女に手渡した。
「ウドンゲの魔力を記憶させてあるから、その針の方向に行けば会えるはずよ」
 都合が良過ぎる、とてゐは思った。まるで自分が鈴仙を探すためにここに来ることを予測していたみたいに。
 でも今は、それも、どうでもいい。
「ありがと。借りるね」
「ええ。ああそうそう、てゐ?」
「何? 私急いでるんだけど」
 一刻も早く。手の届かない場所に行ってしまう前に。
「あら、ごめんなさい。ただ、私のあげた人参はもう食べちゃったのかな、と思ってね」
「まだ食べてないよ」
「そう。それならいいわ。行ってらっしゃいな」
 つまり、それは。
「持って行け、ってことね。餌で釣るってことか。ま、鈴仙にならそれも有効か」
 ふふ、と永琳が笑う。それ以上を言うつもりはないらしい。
 まったく、この女は。思いながら、てゐは永琳の部屋を後にする。








 * * *






幕間の六 【家族】





 ――貴方の家族を大切にすること。
 ――これが今の貴方が積める善行よ。

 そう言ったのは、閻魔の姫だったか。
 家族。その言葉に、はは、とてゐは笑う。
 夢の中でさえ顔を思い出せない母親を、それでも家族というのだろうか。幼い自分を放り出した母親を、それでも家族と呼べというのだろうか。
 加えてそれを大切にしろと、そんなことをいうのか。
 馬鹿らしい。馬鹿らし過ぎて、笑うしかない。
 大切にできるような、大切にしたいような家族がいるのなら。
 こんな自分に、ならずにすんだのに。








 * * *






七章  【報酬】





 永遠亭を広く囲む木々。てゐは、永琳から渡された道具を手許に、鈴仙を見つけるために飛び続けた。
 屋敷を出て南に三十分程、竹林を抜け、直径一メートルはあろうかという大木が割合の多くを占めるようになっていた。こんな誰も来ないところで何をしようというのだろう。瞬間、嫌な考えが過ぎる。てゐは頭を振ることでそれを追い出した。
 その時だった。
「あれ?」
 一瞬、何かの音が聞こえた気がした。一度空中で止まって、耳を澄ます。
 だだだだ、という連続音が確かに耳に届いた。手許の針と同じ方向。鈴仙の出した音に違いなかった。
 何をしているんだ、と考えるよりも先に、体が動いていた。全速力で音のする方に向かった。近づくにつれて大きくなる音。それの正体にとうとう気づかないまま、てゐは鈴仙の後ろ姿を視界に収めた。
「鈴仙っ!」
 叫んだ。彼女を見た途端に、自然と声が出ていた。
 が、鈴仙は振り向こうとしなかった。彼女の右腕が上がる。振り下ろされて、また、だだだだ、という音がした。
 そしてまたすぐに、腕が掲げられる。
「鈴仙っ!」
 もう一度叫んで、飛んでいく。てゐは振り上げられた腕を掴んだ。
 そう力を込めるまでもなく、掴んだ鈴仙の腕はだらりと力無く垂れた。はぁ、はぁ、という激しい息遣いが聞こえた。
「……て、ゐ?」
「鈴仙、あんた何してんだよっ!」
「……あは、ごめんね、てゐ。もうちょっと待ってね、もうすぐ、もうすぐだから」
 力のこもらない声でそう言って、鈴仙は再び腕を高く上げる。
 どうしてまた、ごめんね、なのか。こんな状態で何をしてるのか。怒鳴りそうになって、その時やっと、彼女のしていることと音の正体とを、てゐは理解した。
 鈴仙の放った弾幕が、目の前の大きな木にぶつかって、音を立てていた。どれだけそれを続けているのか、直径は優に一メートルを越えるだろう大木の一部が、既に大きく削り取られていた。
「鈴仙、何、して……」
 予想を上回る壮絶な光景に、てゐの口は上手く動かなかった。
 鈴仙は、そんなてゐを見て。
「これだけ大きい木だったらさ」
 えへ、と笑って。

「二人で乗れるぐらいの舟、作れるよね」

「え?」
 彼女の言っていることの意味が分からなくて、
 どうしてそんなことをしているのか分からなくて、
 でも、本当は分かっていて、
 いつの間にか視界が滲んでいて、
 言葉が出なくて、
 浮かばなくて、
 てゐは、ただ、鈴仙に抱きつくことしかできなかった。
「てゐ?」
 上げかけた腕を、鈴仙は静かに元に戻した。
「もう、いい、いいからっ!」
 やっと出てきた言葉は、かすれてしまって、上手く届かなかった。
 鈴仙は、体に回されたてゐの腕を、優しく、ぎゅっ、と握る。
「ごめんね、てゐ。私、馬鹿だから、どうしたらいいか分からなかった。てゐ、舟に乗りたいって言ってたよね。ハコブネっていうのとは違うけど、舟を作って、プレゼントしたら、仲直り、してくれるかな? 一緒に、乗ってくれるかな?」
 泣きそうな声で、そんなことを言う。
 その時の気持ちを、どう表現すればいいだろう。
 耐え切れなかった。
 ムカムカした。イライラした。
 だから、大きな声で。
「――当たり前じゃんっ!」
 そう叫んだ。
 こんなに、こんなに自分のことを思ってくれているその行為を、鈴仙を、どうして無下にできるというのだろう。
 そんなことも、分からないというのか。
 そんなことも――分からせてやれない程、自分は愚かな生き方をしてきたのか。
「あは。良かった。いつものてゐだぁ」
 本当に嬉しそうに、鈴仙は言う。
 だから、もう。
 箱舟とか、幸運とか、幸せとか、家族とか、嫉妬とか、そんなこと、どうでもよくなった。
 ただ、今目の前で自分のために何度も何度も腕を振り上げる鈴仙が、とても美しく思えて、尊いものに思えて、愛おしくて。
 その時初めて、大切にしたい、とてゐは思ったのだ。
 てゐは抱きしめる力を強くする。強く、強く。
 もう動かなくていいから、と。十分だから、と。やっと、分かったから、と。
「……もういいからさ、鈴仙、休んでて」
「え? でも、あとちょっとで倒れそうだから……」
「いいのっ!」
 後は、私がやるから。
 てゐは抱きしめていた腕を鈴仙から離して、彼女の前に出る。
 鈴仙の返事も聞かないまま、腕を振り上げて、眼前の大木をしっかりと睨む。弾幕を展開、腕を振り下ろし、全てをぶつける。
 だだだだ、と、鈴仙の時と同じ音が響いた。
 しかし、てゐの想像以上に木は丈夫だった。てゐの目にそれはほとんど削れたように見えない。
 だとしたら、いったいどれだけの間、鈴仙はそれを続けていたのだろう。
「……鈴仙、あんた、凄いよ」
 後ろにいる彼女に、声をかける。
「え?」
「私、分かった。幸運ってさ、あんたみたいなののためにあるんだよ」
 心からそう思った。
 弾幕展開。発射。
 醜い嫉妬に感情を荒げる自分ではなく。
 弾幕展開。発射。
 鈴仙だから、こんな自分でさえ思ってくれる鈴仙だから、幸運だってついていく。
 弾幕展開。発射。
 だから。
「私もね」
 こんな気持ちは初めてだった。初めて、人を思うことができた。
「とっておきの幸運を、あんたに、あげたいっ」
 初めて、自分の能力を、
 弾幕展開――
 胸を張って、誇れそうな気がした。
「倒れろーーーっ」
 言葉と同時に放たれた弾幕。
 大木を、揺らす。
 瞬間、ぎぎぎ、と鈍い音がして。
 目の前の大きな物体は、ゆっくりと、傾いていった。





 どれぐらい経っただろう。ほんの数秒だったのかもしれないし、一分以上だったのかもしれない。大木の倒れた余韻を後ろに、はぁ、はぁ、というてゐの荒い呼吸音が二人の耳に際立っていた。
 沈黙を破ったのは、鈴仙だった。
「……やった。やった、やったよっ、てゐっ。やったやったっ」
 それまでの時間を取り戻すように、やったやった、と繰り返す。
「う、うん」
 一方のてゐは、鈴仙とは対照的に、鈍い声で返事をするのがやっとだった。鈴仙はてゐの顔を覗き見る。
「てゐ?」
「あ、うん、何だかさ、あんまり実感無くて」
 呆然、という表情でてゐはそう口にする。
 そんなてゐに、鈴仙は、あはっ、と笑いかけた。
「ほら見てよ、てゐ、私たち、こんなおっきな木、倒しちゃったんだよ」
「うん」
「がんばったね、私たちっ」
「そうかな?」
「うん。がんばったよっ、私も、てゐもっ!」
 嬉しそうに笑う鈴仙。それにあてられて、てゐの表情も少しずつ柔らかくなる。
「すごいね、すごいよね、私たち」
「う、うん」
 頷きながら、でも、とてゐは思う。
 すごいのは、鈴仙なんだよ。
 あんなに酷いことを言った私のために舟を作ろうなんて、どうしてそんなことができるの? どうして、こんなにがんばれるの?
「あのね、鈴仙」
「うん?」
「……ごめんなさい」
「はえ?」
 こく、と首を傾げる鈴仙。てゐは続けた。
「私、鈴仙に酷いこといっぱい言った。いっぱい傷つけた。ごめんなさい」
「い、いいんだよ。だってさ、ほら、私も無神経だったみたいだし」
 鈴仙なら多分そんなことを言うんだろう、とてゐも予想はしていた。
 でも、それだけで済ませるつもりはなかった。済ませたくはなかった。考えていたことを全部吐き出して、汚いところを全部見せて、その上で、どうするかを彼女に決めて欲しかった。
「あのね、私ね、鈴仙が羨ましかった」
 てゐはゆっくりと続けた。
「鈴仙は、私の欲しかったもの、全部持ってるの。明るくて、優しくて、笑ってて、みんな鈴仙のことが大好きで、だから私、鈴仙を見てるといつも嫉妬した」
 何て幼稚な感情だろう。てゐは自嘲する。
「どうしてそんなに幸せなの、どうしてそれが私じゃないの、私だってそうなりたかったのに、って。あーあ、ホントにね、自分でも嫌になる。……でもそれが私。ずっとそうやって来たんだ。ね、嫌な性格でしょ?」
 あはは、とてゐは笑う。
 認めてしまえば、こんなにも醜い自分。
 鈴仙と、比べるまでもない。
「ね、鈴仙、箱舟って知ってる?」
「……てゐが乗りたいって言ってた?」
「うん。本当にある舟じゃなくて、昔の話、神話の中に出てくるんだけど」
 自分でも驚くぐらいに穏やかな気分で、てゐはそれを語ることができた。
「神様が怒って世界中を洪水にしちゃった時に、その箱舟に乗ってる人と動物だけが助かったの。他は全部死んじゃうっていう、そんな話。私、それを知って、ああ、私も見捨てられた側の生き物なんだって思った。ほら、私の力、人間を幸運にするっていうのだけど、他人ばっかで、自分には意味が無いんだ。そのせいで苦労したし、いいことなんて何も無くて、だからやっぱり、私は箱舟に乗れない側なんだって、そう思った」
 不安そうな、心配そうな顔をしててゐの話を聞く鈴仙。
 自分にそんな顔ができるだろうか、とてゐは思う。他人のためにそんなに心を割けるだろうか、と思う。
「私、鈴仙がどこかに行っちゃうと思った。私があんなに酷いこと言ったから。屋敷を出て行って、もう戻って来ないと思ったの」
「ふえ?」
 予想外の言葉だったのだろう、鈴仙は素っ頓狂な声あげた。
「それで、探しに出たら、鈴仙、あんたってばさ、木に向かって弾幕展開してるんだもん。全く、何してんだっての。そしたら鈴仙、舟を作るとか言うじゃない。もうホント、バカじゃないかと思った」
「ご、ごめんね?」
 よく分からないまま、謝る。半ば条件反射のように。
 てゐはその様子に、小さく笑みを浮かべる。鈴仙らしい、なんてことを思う。
「謝んない謝んない。一応、褒めてんの。ホント、信じられないぐらい、お人好しなんだ」
 でも、とてゐは続ける。
「嬉しかった。すごく、嬉しかった」
 あんなに嬉しかったのは生まれて初めてだった。
 悲しい時以外でも涙は出るんだと、てゐは知った。
「だからね」
「うん」
「それまで考えてたこと、もうどうでもいいやっ、て思ったの。自分でも信じられないぐらい単純なんだけどさ。嬉しい気持ちでいっぱいになって、それまで考えてたこと、全部飛んじゃった」
 言ってからてゐは、あー、と意味も無く声を出した。ぐぐっ、と大きく伸びをする。
 そうしてから、照れくさそうに、呟く。
「ありがと、鈴仙」
 多分、それはてゐにとって初めての言葉だった。口先だけではなく、本当に、心から人に感謝の言葉を送ったのは、それが初めてだった。
 湿っぽくなるのを恐れて、てゐはすぐにまた口を開いた。
「あ、そうだ。これ、あげるからっ」
 てゐが取り出したのは、今日の報酬として永琳から受け取った雪味人参。
「三本あるから、一本ずつと、あと半分こね」
「……いいの?」
「あげるって言ってるんだから、受け取るのっ」
「……うん、ありがとう」
 てゐが笑い、鈴仙も笑った。








 * * *






終  【幸運の兎】





 その後の話をしよう。
 てゐと鈴仙の二人は、揃って人参を一本と半分ずつ食べた。恐らくはそれがてゐなりの仲直りだったのだろう。永琳の授けた策は有効に活用された。
 彼女たちが重大な事実に気づいたのは、人参を食べ終え、さあ帰ろうと立ち上がった時のことだった。倒した大木、その存在をようやく思い出したのだ。二人で持ち帰るにはその木はあまりにも大き過ぎた。
 どうしよう、と途方に暮れる二人。そんな彼女たちに、突然声がかかる。  運ぶの、手伝ってあげてもいいわよ。
 二人ともその声には聞き覚えがあった。毎日聞いている声だった。蓬莱山輝夜。気づかぬ内に、彼女がすぐ近くに立っていた。そしてその背後には、永琳と、たくさんの兎たちの姿。
 住人総出の甲斐あって、二人の倒した大木は無事屋敷の庭へと運ばれた。それがきちんと舟の形になるまでにまた一騒動あったりもするのだが、それはまた別の話であろう。




 後日談として。
 てゐと永琳の間にこんなやり取りがあった。
「永琳、あんた、鈴仙の行き先本当は知ってたんでしょ? その上で、わざわざ私に探させた」
「あら、どうして?」
「そもそも鈴仙があんなところにいるのがおかしかったのよ。普通、何の知識も無い素人が丸太舟を作ろうとなんてしないわ。私だってそんなの知らなかったもの。思いつくのはせいぜいイカダ程度。それならあんなに大きな木は必要無いから、もっと細い木をいくつも用意しようとするはず。そうでしょ?」
「……それで?」
「だから、それなのに鈴仙があんな大きな木を使おうとしたってことは、つまりそこに誰かの入れ知恵があったっていうこと。私の望む舟を作るには、なるべく大きな木が、一本だけ必要だ。屋敷から南の方に行けばそういう木がある。それを聞いて、鈴仙は屋敷を出て行った。だからあんな場所にいた」
「なるほど、ね。筋は通るみたい」
「だいたいさ、私があんたの部屋に行った時に、すぐ鈴仙を探す道具を出したのが妙だったのよ。鈴仙の魔力を記憶させてる、って。都合良過ぎ。あれって、最初から用意してたんでしょ? 多分、鈴仙があんたに舟の作り方を聞きに行った時に。鈴仙が出て行けば、私がそれを探すためにあんたの部屋に来ると思って」
「頭が回るのね、てゐ」
「まったく、どの口が言うんだか。兎全員集めてあの場所に来たのだって、最初からあそこに大きい荷物があるって知ってた証拠じゃない。タイミングも良過ぎるしさ。どうせ、私の後から来るあんたたちの分に、鈴仙の魔力を記憶させたとかいう道具もう一個用意してたんでしょ?」
「さあ、どうかしら?」
「はぁ……もういい。あんたと話してると疲れるばっかり」
「あら、私は楽しいわよ、てゐとお話するの」
「あーあ、ホント嫌な女」
「あなたに言われるなんて光栄だわ」
「……まったく」
「……ねえ、てゐ」
「なに」
「あなたの箱舟は、見つかった?」
「……ねえ、永琳、あんた、もしかしてさ、最初から……」
「ああ、ごめんなさい、愚問だったわね。現在建設中、ってところかしら? そのためにウドンゲとあなたでがんばったんですものね」
「……あんた、絶対いい死に方しないからね」
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ。閻魔の姫とは知らない仲じゃないから」
「もういい。はぁ。本格的に疲れた」
「家族を大切にすること。それが閻魔の姫の言う、あなたの善行だったかしら?」
「……だから、何?」
「三本の人参の内一つを半分にしてまで、分け合ったんですもの。同じ家に住んで、同じものを食べて、共有して、そういうのを、世間では家族っていうんでしょうね」
「ちょ、ちょっと永琳! あ、あんた、何で人参のこと知ってるのよっ!」
「あら、口が滑っちゃったわね」
「……あ、ああ、あんたら、あの時、私たちのこと、もしかして見てた? それで、出てくるタイミング……窺ってた?」
「さあ、舟を作りに行こうかしら。ほら、てゐ、先に行くわよ」
「こら、永琳、待てっ、待ちなさいっ、止まれ馬鹿ーっ!」










 てゐと鈴仙を中心とした騒動はそうして一応の結末を迎えた。
 騒動前後、見た目に大きな変化は無い。てゐは相変わらず捻くれた毎日を送っているし、鈴仙もそれまで通りほわほわと日々を過ごしている。てゐのイタズラはむしろ悪化したといえるかもしれないが、そのターゲットはだいたいの場合鈴仙であったから、恐らく、それが彼女なりの愛情表現なのだろう。
 ただ、一つ、特筆すべきことがあるとすれば――
 てゐは、母親の夢を見なくなった。恐らく、それは良い兆候と見ることができるのだろう。顔も思い出せないあんな母親よりも、今、目の前にいる心優しい家族を選んだということかもしれない。
 当然だろう。それを寂しいと思う権利は、恐らく、誰にも無い。


 箱舟は、彼女に用意されなかった。しかし、彼女の周りには、それを共に作ろうとする家族がいる。長い間気づくことの出来なかったその事実を、彼女は少しずつ受け止められるようになってきた。
 これから先も、てゐの前には多くの困難が待ち受けることだろう。生きていく限り、それはきっと避けられないことだ。
 ただ、忘れないで欲しい。
 それ以上の幸せが、てゐ、あなたを待っている。
 私はそう信じている。だってあなたは幸運の兎。誰より幸運に近い存在なのだから。

















跋  【バルカローレ】





 長く長く、あなたを見続けてきた。
 しかし、この辺りで一度筆を置こうと思う。
 これより先を記すのに、もはや古い譜は相応しくないだろう。

 ――箱舟は、今、確かに動き始めたのだ。













さあ、歌いなさい。


歌いなさい。


絶えることなく。


歌い続けなさい。


あなただけの、バルカローレ――















著   ある愚かな白兎















バルカローレ【barcarolle】  舟歌
第三回東方SSこんぺ出展作。92作中10位。ありがとうございました。



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