君は手にした紙を箱の中に収めると、ゆっくりと、静かに蓋を閉めた。ふぅと小さく息をついて、床に就く。
渡せない手紙はそうやって少しずつ増えていく。
いつかこれを届ける日が来るだろうか。君は思い、今日も眠る。
奥深い林の中、立ち並ぶ木々に身を隠すようにしてその屋敷は建っている。永遠亭と呼ばれるその場所で、数人のあやかしと数多の兎たちが共同の生活を営んでいる。
君がそこに辿り着いたのは三十年も前のことになるだろうか。故郷、月で暮らした時間の倍近くを、既に君はその場所で生きた。君が月に戻ることはもうないのかもしれない。
平穏という言葉を君は好む。退屈という時間を君は慈しむ。君は今の生活に幸せを感じている。君の日々は緩やかに流れていく。
君は厨房に立って作業をしている。広大な敷地を持つ永遠亭には幾つかの厨房があるが、自室から近くにある比較的小さなそれを君は好んで使っている。今日も君はその場所を選んだようだ。
以前の君にとって、その場所は純粋に実験のためのものであった。師、永琳に与えられた様々な課題を乗り越えるべく、多くの時間をそこで過ごした。
君が厨房を正しく厨房として用いるようになったのは、初めての調理としてチョコレートを作ってからのことだった。永遠亭の主、輝夜からの依頼だった。依頼する側が満面の笑みを浮かべてぐいぐいと迫り、依頼された側が涙目でこくこくこくこくこくこくこくと幾度となく首肯する光景を依頼と表現するのなら、それは確かに立派な依頼だった。
人間の町に降りて購入してきたチョコレートを、湯煎し、形を整え、冷やして固める。当時の君にはそれだけで一日掛かりの作業だった。初めての調理は普段の実験とは似て非なるものだったし、何しろ指示された量が量だった。
日も落ちた頃、君はようやっと完成したチョコレートを輝夜に渡す。彼女は大いに喜んで、永琳や兎たちにも配ってくるように命じた。皆、君からの突然のプレゼントに驚き、そして喜んだ。一部、顔を上気させた者がいたことにきっと君は気づいていない。その様を物陰から眺めながらにたりにたりと笑う輝夜の存在にも気づかなかったことだろう。ましてや、その日が人間の世界でバレンタインデーと呼ばれる求愛のための日だったことなど、君が知るはずもない。
とまれ、初めての調理を皆に喜ばれたその時以来、それは君の貴重な趣味の一つとなっている。様々に手を加えることで元々の食材以上の味を生み出す。まるで魔法みたいだ、と君は思う。何て素敵な魔法なんだろう、と君は思う。人を幸せにする魔法を君は他に見たことがない。
君の手には一本のにんじんが握られている。月のものよりも随分と太く色も鮮やである。君が地球に来て感激したことの一つが、この質の良い地球のにんじんだった。月から見える青の星には、にんじんを育てるのに具合の良い環境が揃っているらしい。
「れーいせーん」
と、流しでにんじんを洗う君に声がかかる。君は後ろを振り向く。地球兎のリーダー、てゐの駆け寄る姿がある。いつものことなので、君には既に彼女の目的までが分かり切っている。
「今日は何作ってるのっ?」
てゐは君に尋ねる。明るいその笑顔は、もちろん私の分もあるよねっ、と主張するものに違いない。
「にんじんゼリー」
君は覚えているだろうか。幼い頃、君の母親がよくそれを作った。
「ちゃんとてゐの分もあるから、心配しないで」
「さっすが鈴仙っ!」
パチン、と少し演技じみた仕草で指を鳴らすてゐ。そんなてゐに、君は洗い終わったにんじんを軽く掲げてみせる。
「どう? ちょうど今から作るとこだけど、てゐも一緒にやってみない?」
てゐは虚をつかれたように一瞬固まって、それから首を激しく横に振り出す。ぶんぶんぶんぶんなんて音がしそうだ、と君は考える。
「む、無理だってー。そ、そんなの私にできるわけないじゃん」
珍しくうろたえた様子のてゐに、君の頬は小さな笑みを形にする。母親から同じように誘われた時、君は今のてゐのようにして断ったのだ。
そして、そのことを、多分、君は後悔している。
「大丈夫大丈夫。意外と簡単にできちゃうから」
「で、でも私……」
「はい、じゃあまずここで手を洗ってー」
「う、うん」
君に言われるまま、てゐは流しで手を洗い始める。かちこちと音がしそうなぐらいに硬くぎこちない動きは、そのまま彼女の緊張を表しているのだろう。微笑ましいと、君は思う。
「ホ、ホントに私にできるの?」
不安そうな声で聞くてゐに、君はにっこりと笑いかける。
「よし、それじゃ、始めるよー」
「はい、後はこれを冷ましてから保冷庫に入れて、固まったら完成っ」
目の前のトレーには、オレンジ色の液体の入ったカップがいくつか並んでいる。
「ね、思ったよりも簡単でしょ?」
「う、うん。ホントにこれだけでいいの?」
君が料理の開始を宣言してから、まだ三十分と経過していない。てゐにはそれが意外だったのだろう。もっと手のかかるものだと考えていたらしい。
初めてゼリーを作った時、君もてゐと同じことを感じた。だからこそ、こんなことなら――と君は後悔したのだ。
「うん。これだけでいいの」
「そうなんだ……」
てゐは並んだカップの一つを手に取る。彼女自身の手で一から作ったものだ。てゐは感慨深そうにそれを見つめる。
「これがゼリーになっちゃうんだね」
「そう。てゐの、手作りゼリーだよ」
君はてゐに微笑かける。てゐは少し照れくさそうに、でも顔にはしっかりと笑みが浮かんでいる。
「じゃ、じゃあ片付け片付け」
てゐが視線を逸らして突然動き出す。あは、と小さく笑って、君もそれに続く。
大人になった、と最近君はよく言われるようになった。
自覚は、あまり無い。自分は何か変わったのだろうか、と君は考える。
「多分、そんなもんなんだよ」
と、てゐが言う。
「そうなのかな?」
「うん。自分でも分からない内に、いつの間にかそうなってるものなんじゃない? 大人なんてのはさ」
「かな?」
「多分ね」
片付けを終え、君たちは特に何をするでもなく居間で時間を過ごしている。潰している、という表現がより正確だろうか。君の隣に腰かけたてゐは、先ほどからちらちらと時計の針を窺っている。
そんなてゐの様子に、君は初めて料理をした時のことを思い出す。チョコレートが固まるまでの間、ずっと落ち着かなかったことを覚えている。
今日の手紙にはこのことを書こうかな、と君は考える。寝る前、毎日の習慣は、半ば日記のような形になっている。書きたいことは、いくらでも溢れてくるようだ。
両手を前方に、小さく伸びをしてから、君はてゐに言う。
「そろそろ見に行ってみよっか?」
「うん」
待ってましたとばかりにてゐは素早く立ち上がり、君に先行して厨房へと向かう。君は微笑ましさを口元に表現せずにはいられない。
慌てるとこけちゃうよ、と前を行くてゐに声をかける。聞こえなかったのか、あるいは聞こえないふりをしたのか、てゐは歩く速度を落とそうとはしなかった。
どうせならと準備した紅茶に、てゐは角砂糖を二つ入れた。君はゼリーの甘さを考え、砂糖を加えることはしなかった。保冷庫からできあがったゼリーを取り出し、二人並んで食べた。両親と三人で並んで食べた時のことを、君は思い出したかもしれない。
てゐは初めて自分の手で作ったゼリーに痛く感動したらしい。また今度作るからその時もよろしくね、と君に言い残して自室へと帰っていった。
ゼリーはまだいくつか残っている。さて、と君は立ち上がる。
お菓子を作った時には必ず私にも献上すること。そう言ったのは輝夜だった。君はポットに紅茶を淹れなおした。ティーカップを二つ用意する。同じくゼリーを二つ、スプーン、角砂糖、ミルクとともに盆の上に乗せる。昼過ぎのこの時間、輝夜は永琳とともにいることが多い。永琳の仕事も今日は無いはずだから、多分一緒にいるんだろうと君は考える。
君は盆を持って、輝夜の部屋へと向かう。
輝夜の部屋には予想通り永琳の姿もあった。机の上に持ってきたものを並べると、輝夜が口を開いた。
「イナバ、あなたの分が無いじゃない」
ゼリーもティーカップも、君は二つずつしか用意していない。
「いえ、私はもうてゐと一緒に食べちゃいましたから」
「あら、珍しいわね?」
普段、てゐは出来上がったお菓子を君から受け取ると、それを自室へと持って帰る。てゐと二人並んで食べたのは今日が初めてのことかもしれない。
「今日はですね、何と、一緒にゼリーを作ったんですよ」
「あの子が料理を?」
「はい」
驚きを隠しきれない輝夜に対し、君は少し自慢げに頷いた。他人への評価を、君はまるで自分のことのように喜ぶことができる。君は気づいていないだろう。それは君の優しさの表れだ。
「あらあら、それじゃあ料理の経験が無いのは姫だけということになりますね」
楽しそうに永琳が言った。
「私はやらないだけよ。やろうと思えば出来るのよ」
「経験も無いのに?」
「その辺は才能でカバーするわ」
「じゃあ、今日の夕食は姫にお願いしましょうか」
「言ったでしょう? やろうと思えば出来るのであって、私はやろうなんて思っていないの」
目の前で繰り広げられる不毛なやり取りに、君は声をひそめて笑う。
輝夜が永琳の前でだけ幼くなることを君は知っている。二人の間には長く築き上げた信頼がある。君はそれを少し羨ましく思う。同時に、自分はどうだろう、とも思う。
「ウドンゲ、姫に教えて差し上げなさい? 料理はそんなに甘いものではない、と」
「イナバ、あなたまで私の天分を疑ったりはしないでしょうね?」
「……え、ええと、お料理って、結構楽しいですよ?」
突然振られた話に、君は口を濁すことしかできない。
「……それは、暗に、私に料理をやれということかしら?」
濁しきれていなかったらしい。
「ち、違います違います」
「ほら、そんな風に脅かすからいつまで経っても料理の一つもできないんですよ」
「それは関係無いでしょうっ!」
そんな風に大声を出す輝夜を、普段、まず見ることはない。
「ゼリー美味しいわ、ウドンゲ」
と、脈絡も無く永琳が君に声をかけた。
「あ、ありがとうございます」
「話は終わってないわ、永琳。話を逸らすにしてももうちょっと上手くやりなさいな」
息巻く輝夜を見て、永琳は、ふぅ、とため息をついた。
「姫、せっかくウドンゲが提供してくれたアフタヌーンティーです。静かに楽しむのが礼儀というものではないでしょうか?」
「あなたね、そもそも誰がっ!」
「あ、あのっ!」
いつまで経っても終わりそうにない言い合いを終わらせるべく、君は口を挟んだ。
「お茶冷めちゃいますから、輝夜様、どうぞ召し上がってください」
「……そうね」
幾分落ち着いた様子で、輝夜はティーカップを手に取った。永琳も無言でそれに続く。
そんな二人に、君はほっと胸を撫で下ろす。今までのやり取りは二人なりの親愛の儀だったのかもしれない。少しの間ならば、微笑ましくも見ていられよう。が、間近でずっと眺めていられる程、君の心臓は強かにできていない。
輝夜は、茶を一口飲んでカップを手許に下ろす。と、突然立ち上がった。君はよく分からないまま、彼女を目で追う。君の視線の先、「私用。触れたら壊す」と物騒な紙が貼られた棚から輝夜はカップを一つ取り出した。
「イナバ、あなたも付き合いなさい」
「え、でも……」
躊躇う君に、輝夜は言う。
「私のお茶が飲めないっていうのかしら?」
「ウドンゲの用意したお茶ですが」
「いちいちうるさいわね、永琳は」
輝夜は口を尖らす。
「ええと……」
「まぁ、私たちだけでも何ですからね。姫の提案には賛成します。ウドンゲ、あなたのお茶でしょう? 何の遠慮もいらないわ」
永琳の言葉を受けて、君も心を決めたようだ。
「……はい、それじゃあ、ご一緒させていただきます」
「そう、それでいいのよ」
「ありがとうございます」
君は輝夜からカップを受け取る。それに触るのは初めてのことだった。そのままポットを持とうとしたところを永琳が制して、君のカップに紅茶を注いだ。
ありがとうございます、と口にする君に、永琳は微笑んでみせた。
自室に戻った君は、部屋の隅に置いた小さな和机の前に座る。横の棚からペンと紙を取り出す。
穏やかで、幸せだった一日がもうすぐ終わる。君はそれを手紙という形で書き記すのだ。内容には事欠かない。君の持った筆はすぐに動き出す。
書き出しはいつも変わらない。お父さん、お母さんへ。こういう場合は名前を書くべきだろうか、と以前君は考えたけれど、結局、呼び慣れたものに落ち着いた。
月へと向けた手紙。君がそれを書き始めたのはいつのことだっただろう。月との物理的な連絡手段を断たれている以上、君の書いた手紙が届くことはない。君はそう知った上で、それでも、もう数え切れない程の文字を綴った。
最近、月を思うことが多くなった。昔を思うことが多くなった。
帰りたいのだろうか、と君は考える。今の生活が不満なわけでは、もちろん、ない。てゐがいる。輝夜がいる。永琳がいる。今日も彼女たちと笑いながら一日を過ごした。そんな暮らしを、君は確かに幸せだと感じている。
筆を動かす程、故郷への思いは強くなる。君は月の家族を思う。今の永遠亭を思う。分からなくなって、君は一度筆を休ませる。
裏切りなのだろうか。君は考える。今の気持ちは、永遠亭のみんなに対する裏切りなのだろうか。
君は立ち上がる。月を見るのに、その部屋は狭過ぎる。
座敷から張り出した縁側に腰掛け、君は空を見上げている。地面から浮いた足をぶらりぶらりと揺らしながら、君の視線はある一点から動こうとしない。
そこには美しい円を描く月の姿がある。君にはどんな色に見えるのだろうか。せめて冷たい色に見えていなければいい。
君は何を思うのだろう。
単純に月の美しさを思うのかもしれない。
残した者たちを、思うのかもしれない。
「お月見かしら?」
さらさらという竹林の音の中、不意にそう声がかかる。
「あ、はい。そんな感じです」
答える君の隣に永琳が腰かける。彼女の脚の上には木製のお盆がある。永琳は、その半分を君の脚にも乗せた。二つの湯飲みと、一つの皿に盛られた白い団子は、彼女自身とそして君のために用意されたものなのだろう。今日のお礼よ、と永琳は口にする。
「こんな時には、お団子と、お茶を楽しむのが地上の慣わしなのよ」
「お団子、ですか?」
「そう。今日みたいな真ん丸い月に見立ててるのね」
「あ、なるほどなるほど」
永琳が、二つある湯飲みの片方に手をつける。君もそれに倣う。
いただきますね、と君が言う。
どうぞ、と永琳は微笑む。
永琳の優しさが、今の君には少し苦しかった。一口飲んで、湯飲みを両手で包むように持ったまま、君は呟くようにして言う。
「師匠は」
君の瞳には、月が映っている。
「月に帰りたいって、思ったこと、ありますか?」
永琳が団子に手を伸ばす。一口かじって、私もなかなか捨てたもんじゃないわね、と口にする。
師匠が作ったんですか?
ええ。お菓子はいつもあなたが作ってくれるから、たまには、ね。
釣られるように、君も団子を一口。うわあ、美味しいです、と君は正直な感想を述べる。
永琳はそんな君に、軽い笑みを見せた。
「長く生きててもね、やっぱり故郷って懐かしくなるものよ」
「ですか?」
「ですね」
おどけて言う永琳。君も笑わずにはいられない。
二人で月を見、茶を飲み、団子を頬張る。そんな時間が、君にはとても優しく感じられる。大切に思う。いつまでも取っておけたら、と思う。
「もし」
だから、君は聞くのだ。
「戻りたいって言ったら、引き止めてくれますか?」
君はどんな答えを期待したのだろうか。
あるいは、それは悩みの表れだったのかもしれない。甘えだったのかもしれない。
そんな君に、永琳は、
「止めないわ」
と、簡潔に答えた。
「ですか」
「ええ」
頷いて、永琳は茶をすする。
ずずずっ、という音を耳に、君は次の言葉を探す。でもそれはなかなか上手くいかないようだ。君は焦りを感じる。それがどうしてなのか、君には何となく分かっている。
自分が月に行ったとしても、永遠亭のみんなは何も思わないのかもしれない。君はそんなことを考えるのだろう。
「……だってね、ウドンゲ」
だから、君よりも早く永琳が口を開くのは当然のことだった。
「私たちも、一緒に行くから」
「え?」
予想外の言葉に、君は驚きを隠せない。
「あなたが何をどう考えていようと、どのみち、向こうに行く手段は必要でしょう? 船を私たちで作って、どうせなら、兎たちも連れてみんなで月の観光に行くのも楽しそうじゃない?」
「……月に行く船なんて、作れるんです、か?」
「舐めないで欲しいわね。私を誰だと思っているのかしら」
再び驚く君に、永琳はくすくすと笑って言う。
「こちらに戻って来るか、それとも、今度はまた向こうに住居を構えるのもいい。そんなこと、実際に行ってから考えればいいわ。こっちで長生きしたお陰で、当時の私たちを知る人もいないでしょうし」
まあ、姫の性格からして戻ってくることにはなりそうだけどね、と小さく付け加えて、永琳はまた笑う。
「あなたはあなたの好きなようにすればいい。戻って来るのも、向こうに移るのも。まあ、今から作り始めれば来年の今頃には船も完成してるでしょう。ゆっくり考えてみなさい。あなたの好きな料理でもしながらね」
「好きな、ように……」
永琳の言葉を君は繰り返す。
好きなように。好きなように。
それが自分を突き放すための言葉では無いと君は分かっている。自分のために向けられた言葉だと分かっている。
自分はどうしたいのだろうか、と君は考える。一度月に戻りたいという気持ちに、多分、間違いはない。でも、その後のことが分からない。
月の家族のもとで暮らしたいという気持ちがあるだろう。今の暮らしを続けたいという気持ちも、もちろんあるだろう。
「でもね、ウドンゲ。覚えておきなさい?」
永琳が君を見つめる。
「はい?」
永琳の瞳には、君が映っている。
「――あなたは、私の可愛いお弟子さん」
こつ、と二人の額が合わさった。
「私が生きてる間は、ずっとね」
君は永琳の言う意味を考える。
そして、君は気づくのだ。
「いつも、見守ってくれてる、ってことですか?」
君は問う。
「さあね」
永琳は言葉を濁す。
「ただ、ええ、そうね――」
永琳は、月を見て、くすりと笑って。
「こんな綺麗な月の夜。月のみぞ知る、っていうのはどうかしら? 曖昧で、だからこそ素敵な答えだと思わない?」
永琳にしては珍しいロマンチックな言葉だ、と君は思う。君は永琳に倣って月を見上げる。
手の中のお茶はもう冷めてしまっているだろう。それでもいいか、と君は湯飲みを口に持っていく。
「……見守ってくれてるんですよね?」
君は、そっと呟く。
君は手にした紙を箱の中に収めると、ゆっくりと、静かに蓋を閉めた。ふぅと小さく息をついて、床に就く。
今日も箱の中身が少し増えた。渡せなかった手紙が一つ増えた。
君はそれが届く日を思う。いつの日か必ず渡しに行こうと思う。
永琳は君に教えた。月は決して手の届かない場所ではない。三十八万キロメートルは君の中でずっと短くなった。
明日になったら、と君は考える。
てゐにもっと料理を教えてやらなければいけない。輝夜を巻き込むのも面白そうだ。永琳に教えてもらうのもいいだろう。
みんなでお菓子を食べて、お茶を飲んで、そして君は正直な心の内を告白する。てゐは何と言うだろう。輝夜は何と言うだろう。永琳は、きっと、微笑んでそれを聞くに違いない。
そうやって、明日が過ぎる。明後日が来る。明後日が過ぎ、また新しい日が来る。穏やかな君の毎日は幸せな色に染まっていく。
来年の今頃、君は何を考えるだろうか。箱の中の手紙は、何を教えるだろうか。
春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、また春が来る。時を経る度、少しずつ、君の箱は大きくなっていくかもしれない。
時の流れは、いつだって、止まることがない。
そして、いつか。
君は、再び月の砂を踏むだろう。
その時、きっと君はその箱を胸に抱いているはずだ。
渡せなかった手紙を、いっぱいに詰めて。
その日が来るまで――
レイセン、私たちの可愛い娘よ。
――いつも、君を見守っている。
第三回東方SSこんぺ出展作。92作中19位。ありがとうございました。
誰かが自分を見守ってくれている。
そのことを思うだけで、少し優しくなれるような気がします。
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